カミュ『転落』『追放と王国』 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。



 フランスの戦後作家、アルベール・カミュ(1913~1960)は小説の著作は少なく、生前刊行されたのは、
・異邦人 (中篇小説、1942年刊)
・ペスト (長篇小説、1947年刊)
・転落 (中篇小説、1956年刊)
・追放と王国 (短篇集、1957年刊)
 (収録短篇)
 ・不貞(不倫の女)
 ・背教者
 ・唖者
 ・客
 ・ヨナ(殉教者ヨナ)
 ・生い出ずる石

 の4冊しかありません。没後の1971年に『異邦人』に先だって書かれた長篇小説の習作『幸福な死』(『異邦人』より長く、カミュ自身が完成度の低い『異邦人』の原型として発表しなかったもの)が、また1994年に『追放と王国』以降に書かれ、カミュ1960年1月の交通事故死によって未完に終わった長篇小説『最初の人間』が刊行されましたが、それらを合わせても6冊しかありません。小説とエッセイの中間的作品には、
・表と裏 (長篇連作エッセイ、1937年刊)
・結婚 (長篇連作エッセイ、1939年刊)
・夏 (長篇連作エッセイ、1954年刊)
・ギロチン (長篇連作エッセイ、1957年刊)

 がありますが、それらは古くはヘナンクールの『オーベルマン』やバレスの『自我崇拝』、ジッドの『アンドレ・ワルテルの手記』、ヘッセの『へルマン・ラウシャーの遺稿』、リルケの『マルテの手記』のような、語り手に作者の思考を投影させた「内面の日記」的なものでしょう。カミュの著作でもっとも広く読まれているのは突出して『異邦人』、次いで『異邦人』と対をなす長篇論考『シューシポスの神話』と最大の大作『ペスト』の3冊でしょうが、未整理な点が魅力になっている没後出版の『幸福な死』『最初の人間』は生前刊行作品を読んだ読者ならではの楽しみとして、ノーベル文学書受賞に前後して発表された中篇小説『転落』、短篇集『追放と王国』は、2作合わせて『ペスト』より短いくらい(新潮文庫版で300ページ)ながら(もともと『転落』は短篇集『追放と王国』収録作を予定されながら、独立した中篇小説として発表されたものです)、小説家カミュの力量が頂点に達した作品として『異邦人』『ペスト』に劣らない、むしろ『異邦人』『ペスト』で達成した領域をさらに深めた、今なおより広く注目されていい優れた作品です。
(以下作品内容に触れますので、いわゆる「ネタバレ」に神経質な方はご注意ください。)
 異論は覚悟で言いますが、西洋圏の文学思潮の中に置けば、1913年生まれのカミュは一回り年少の三島由紀夫(1925~1970)同様、後期またはポスト・モダニズムの小説家でした。三島由紀夫をモダニズム思潮との関連で位置づけるのはカミュ以上に反発を招くかもしれませんが、映画史におけるヌーヴェル・ヴァーグに先立って、カミュや三島の出発点は「すでに古典的文学史(または「文学の古典時代」)は終わった」という認識から始まったものです。ゴンチャロフ、トルストイ、ドストエフスキーらロシア作家による人間性の解体から始まり、トーマス・マン、プル-スト、ジェイムズ・ジョイス、カフカらにおいて極点に達した小説実験は、カミュや三島、またジョン・ホークス(1925~1998、デビュー作『食人種 (人喰い)』1949)ら聡明な作家には自明のことでした。三島やホークスより年長のカミュは、ドイツ占領が比較的及ばなかった植民地アルジェリアでいち早く『異邦人』を書き上げましたが、『異邦人』『仮面の告白』『食人種』は作者の年齢相応の発表年度のズレはあれ後期モダニズム~ポスト・モダニズム文学を、それぞれフランス、日本、アメリカという異なった出自から確立したものと目せます。もっとも寡作だったカミュは戯曲『カリギュラ』『誤解』を経て5年がかりの力作『ペスト』を発表し、閉塞状態と市民精神によるその打開という明快なテーマ性で最大の成功を収めます。これは徹底して悪魔的なホークス作品にはなく、ホークスと同い年の三島がつかの間に1954年の『潮騒』で達成した(また逆説的に反市民的な『金閣寺』で達成した)のと似通っていた成功とも思えます。

 異色作『転落』で目指されたものは、成功作『異邦人』『ペスト』からカミュがさらに踏み出すとしたらこのような内容になるしかあるまい、と説得力のあるものです。『転落』は全編が社会的成功者であるエリート弁護士が聞き手にくだを巻く形式で語られた、ちょっと太宰治を連想させる偽悪的かつ自虐的な「語り」に趣向のある中篇小説です。この頽廃した語り手は、自分がいかに400万人都市のパリで成功した弁護士となったか、その過程でいかに人間性への侮蔑とニヒリズムに陥ることになったかを延々露悪的に語ります。語りはまっすぐな叙述を取らず、その方向は支離滅裂で、自分がいかに容易に依頼人や同業者を手玉に取ってきたか、乱脈な性遍歴を重ねてきたか、それらの経験を積むごとに陥る堕落を楽しんできたかを得々として語ります。彼はいわば成功してますます悪辣になったムルソーです。また『ペスト』で描かれた市民像を侮辱するような人物です。聞き手である読者は始終煙に巻かれます。この「卑怯者」を自称する主人公の語りは意図的に信頼できない逸脱や万能感を読者に印象づけます。なぜこの語り手が執拗に自分語りを続けるのか、読者には次第に疑問が湧いてきます。そこで語り手はついに自分に起こった決定的な出来事を語ります。それは主人公の人生観では解決されない傷として残った、と語り手自身が強弁します。この主人公にとってなす術もない、決定的な事件が訪れたのです。語り手は弁明し、哀願し、自己憐憫します。しかし既に手遅れなのです。小説は宙ぶらりんのまま終わります。この『転落』でカミュの試みた「信頼できない語り手」の手法はジョン・ホークスの諸作(特に『転落』の直接なのパロディでもある『茶番劇』)や『キャッチ=22』の作家、ジョーゼフ・ヘラーの第二長篇『何かが起こった』に引き継がれます。

 短篇集『追放と王国』はさらに多彩で、収録作6篇はいずれも引き締まった出来で、短篇集としての多彩さと統一感や構成も上手く、『異邦人』から15年を経てカミュ最高の作家的成熟が確かめられる名作です。収録作品はいずれもやや図式的ながら図式化による圧縮が連作短篇集として効果的で、一貫したテーマは閉塞状況下の人間、孤独とディスコミュニケーションですから、それを6通りのシチュエーションで描いたものと見なせます。巻頭作品「不貞(姦通した女)」は北アフリカでアラブ人相手に衣料品の行商をする商人の妻の孤独を描いた、カミュ唯一の女性主人公の作品で、タイトルの「姦通」から読者が予期するものとはおよそ異なる体験(アフリカの大地との融合)によって自己解放を得るヒロイン小説としても、カミュの発想は意表を突くものです。短篇は「何でもないの、と彼女は夫に言った、本当に何でもないの。」と結ばれます。次の短篇「背教者」は当初エッセイとして発表された作品らしく、物語体というよりフォークナー的な意識の錯乱を描いた実験的短篇で、愚直なまでに一途なフランス人宣教師の主人公はアフリカの未開地に赴き、反抗する原住民たちに捕らえられ、舌を切られ、去勢され、かえって原住民たちの異教信仰を堅固にする生け贄とされてしまいます。宣教師は神を呪い異教信仰に屈服しますが、牢を破り、ライフル銃を盗み、祈祷師の祭儀を待ちます。主人公は祈祷師を撃ち、待ち構えていた原住民たちに殺されます。この「背教者」が当初エッセイとして発表されたのは、カトリックの神・異教徒の神の双方から拒絶された主人公の意識に焦点を絞った思考実験が1篇をなしているからでしょう。次の短篇「唖者」も巻頭作品「不貞」同様北アフリカを舞台に、食いつめた独身者のフランス人労働者ばかりが働くさびれた工場のストライキ事件の失敗を描きます。主人公たちはなおも仕事をサボタージュしようとしますが、工場主は労働者以上に困窮しており、その娘は重病で救急車で運ばれていきます。労働者たちは羞恥心に襲われ、もはや口をきく者もなく(タイトル「唖者」の由来です)、ストライキ時の団結感も自然にバラバラになってしまいます。この控えで哀感漂うリアリズムの小品で、短篇集の前半3篇は一区切りがつきます。

 4篇目の短篇「客」はアルジェリアを舞台にフランス人とアラブ人のディスコミュニケーションを描いたもので、アルジェリアに生まれフランスに溶け込めない主人公の教師は憲兵から家族殺しのアラブ人囚人の警察署への護送の命令を受けます。主人公は気が進まず、この囚人を逃そうと決めて命令を引き受けます。一夜主人公は学校に囚人を泊め、食事を与え世話を焼き、捕縛から自由にします。明朝、主人公は囚人が脱走しなかったことに失望します。主人公は囚人に十分な水と食料を持たせ、警察署へと続く町の方向と、囚人をかくまってくれる遊牧民たちの暮らす地帯へと続く砂漠の方向を選ばせます。主人公は立ち去り、振り向くと囚人は町へと続く道を歩いています。愕然とした主人公が学校に戻ると、黒板には下手な字で「お前はわれらの兄弟を売り渡した。必ず報いがあるぞ」と書かれています。この短篇は「これほど愛した広大なこの国で、彼はひとりぼっちだった。」と結ばれます。次の短篇「ヨナ(殉教者ヨナ)」は短篇集中もっとも図式的ながら類型化が効いたイロニーに富む軽妙な作品で、主人公の純真な画家ヨナは一途に制作に打ち込むことでパリ芸術界の寵児になりますが、名士になるにつれヨナのアトリエは芸術家やジャーナリストのサロンと化し、ヨナは制作の時間が取れないばかりか創作力すら枯渇してしまいます。そんな環境でヨナがようやく起死回生の労作をものし、驚嘆する取り巻きをサロン化した自分のアトリエから追い出し、夫人をモデルに「死んだ妻」の絵筆を執るところでこの芸術家小説は終わります。

 そして短篇集『追放と王国』の巻末作品「生い出ずる石」は、『異邦人』『ペスト』『転落』と並ぶ、カミュ最高の傑作になりました。主人公のフランス人技師はヨーロッパを後にしてブラジルのダム建設に従事するため船旅をしてきます。主人公は汽船のブラジル人コックと奇妙な友情を結びます。コックは船火事の体験者で、船火事から助かれば郷里の祭で頭に重い石を乗せ、イエス祭の際にイエスの墓に見立てた祭壇にキリストに捧げる感謝の石を落とさないで運ぶ、という誓いを立てていました。しかしコックは前夜祭のダンスに熱狂したあまりイエス祭当日に疲労で倒れてしまいます。主人公は友人に代わって頭の上に石を乗せ、一歩一歩ひたすら没頭してコックの家の祭壇まで頭上の石を運び、感謝の石の誓いを果たします。コックの家族、町民たちは沈黙のあと、主人公のフランス人技師に一緒に車座に座るよう歓迎します。自分のあるべき場所を発見した主人公は幸福感に浸されます。この「生い出ずる石」は映画監督アンドレイ・タルコフスキー(1932~1986)晩年の名作『ノスタルジア』1983で、ローソクの火を洞窟奥の祭壇まで消さずに運ぶ、というクライマックスに翻案されました。短篇集『追放と王国』は、当初短篇集の巻頭作品を予定して書かれて独立した中篇小説として刊行された『転落』と併せて、短篇集の収録順に読んでこそ感銘の深いものですが、カミュの作家的成熟をもっとも示す、いぶし銀のような名作になりました。挑発的な『異邦人』、最大の意欲作『ペスト』のような侠気に満ちた野心は後退し、もっと確かな生の把握から書かれたのが『転落』『追放と王国』の2作です。それだけに、晩年5年間を要してなお未完に終わった自伝的大作『最初の人間』はカミュにとっていっそうの力作だったに違いなく、草稿段階で残された『最初の人間』の可能性を解く鍵もまた『転落』『追放と王国』で予告されていたと思わずにはいられません。