オックスのヴィジュアル・ショック! | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

オックス - ガール・フレンド (日本ビクター, 1968)
オックス - ガール・フレンド (作詞・橋本淳/作曲・筒美京平) (Victor VP-8, Single A-Side, May 5, 1968) オリコン♯6 - 2:55 :  

オックス - ガールフレンド (作詞・橋本淳/作曲・筒美京平) (TV Broadcast, 東京12チャンネル「ジャポップストップ10」April 1, 1968) - 2:05 :  

オックス - ガールフレンド (作詞・橋本淳/作曲・筒美京平) ~スワンの涙 (作詞・橋本淳/作曲・筒美京平) (TV Broadcast「名曲の時間です」1986) - 5:39 :  

[ オックス ]
野口ひでと - lead vocal
岡田志郎 - guitar, vocal
赤松愛 - organ, vocal
福井利男 - bass guitar, vocal
岩田裕二 - drums

 スタジオ録音のシングル・ヴァージョンを聴いても「なかなか出来はいいけれど、よくあるGS歌謡だな」と大して感動しませんが、テレビ出演映像(シングル発売の前月です)を見ると映像の雄弁さに圧倒されます。グループ・サウンズ最終兵器、究極のアイドルGSを目指してこの曲「ガール・フレンド」でデビューしたオックスの存在はザ・タイガースやザ・テンプターズすら霞ませ、タイガース以上の社会的現象を引き起こしたと伝えられます。このデビュー曲「ガール・フレンド」のテレビ出演映像でも赤毛のオルガン奏者・赤松愛とリード・ヴォーカリスト・野口ヒデト(のちの演歌歌手・真木ひでと)のアイドル性とパフォーマンスの訴求力は際立っており、バンドの実力もリンド・&ザ・リンダースやファニーズ(のちのタイガース)を生んだ大阪の名店・ナンバ一番のトップ・バンドになって敏腕マネージャーがつき、上京しプロ・デビューしただけの力量はうかがえますが、オックスの存在を社会的現象化したその象徴として語られるのが、客席の少女ファンもバタバタと失神して救急車が呼ばれたという、メンバーの失神ステージでした。もともとタイガースやテンプターズ、カーナビーツらのライヴでも熱狂した少女ファンが失禁したり失神したり、移動に詰め寄せメンバーの髪をむしったりキスを浴びせたり顔中を舐めまわしてヨダレでベトベトにしたりはアイドル系GSでは当たり前になっていたそうですが(カーナビーツの越川ヒロシ氏の回想記『ザ・カーナビーツ物語』より)、グループ・サウンズ・ブームでも洋楽的指向にこだわらず、最初からアイドルGSを目指してデビューしたオックスの場合は度を過ぎたものでした。ストーンズの曲「テル・ミー」をライヴのクライマックスに、オルガンの赤松愛がオルガンに乗っかり失神、ギターの岡田志郎、ベースの福井利男、ドラムスの岩田裕二がサビのコーラスを続ける中、リード・ヴォーカルの野口ヒデトがマイクを振りまわしながら狂乱してステージ中を駆けめぐった末に痙攣して失神、メンバー全員失神(順不同)するとともに、熱狂のピークに達した客席の少女ファンたちも連鎖反応的に失神、というステージは、当時の小中高生には学校からオックスのコンサートの観覧禁止どころか、コンサート会場からすらオックスの出演禁止を言い渡されるほどでした。当時の(伝えられるよりは大人しめの)オックスの失神ステージ映像が残っています。実際のピーク時の失神ステージはこれどころではなく、メンバー全員失神すれば客席も失神者続出という壮絶なものだったそうです。ただしデビュー1年目の1969年5月5日に赤松愛が脱退、後任オルガン奏者に田浦幸(のちの夏夕介)加入以降はグループ・サウンズ・ブームの退潮とともにかつての勢いはなくなり、すでに4枚のシングル、アルバム2作を出していたオックスは1970年12月までにさらに4枚のシングルを放つも、1971年1月には解散を宣言し、スケジュール消化を経て同年5月末には解散します。メジャー・デビュー以来実質三年間、最後の一年間はすでに人気の凋落を迎えながらの活動でした。野口ヒデトは1枚のソロ・シングルを出すもヒットせず、真木ひでとと改名し演歌歌手に転向後に再び成功を収めることになります。
オックス失神映像 - テル・ミー (作詞作曲・ジャガー&リチャード) :  

オックス失神映像 - テル・ミー (作詞作曲・ジャガー&リチャード) :  

 オックスの残した全音源は2枚組CD『オックス・コンプリート・コレクション』(Victor VICL-60945~6, 2002.9.21)にまとめられ、「ガール・フレンド c/w 花の指輪」(1968.5.5)、「ダンシング・セブンティーン c/w 僕のハートをどうぞ」(1968.9.5)、「スワンの涙 c/w オックス・クライ」(1968.12.10)、「僕は燃えてる c/w 夜明けのオックス」(1969.3.25)、「ロザリオは永遠に c/w 真夏のフラメンコ」(1969.6.25)、「神にそむいて c/w 夜明けの光」(1969.10.10)、「許してくれ c/w ジャスト・ア・リトル・ラブ」(1970.2.5)、「僕をあげます c/w 花の時間」(1970.5.5)、「もうどうにもならない c/w ふりむきもしないで」(1970.12.5)の9枚のシングルAB面全曲+レア・シングル(特典盤など)4曲、『オックス・ファースト・アルバム』(1968.12.5)と『テル・ミー/オックス・オン・ステージNo.1』(1969.3.25)の全曲が収められており、特にこのコンプリート盤で全曲初CD化された『テル・ミー/オックス・オン・ステージNo.1』は数あるグループ・サウンズのライヴ盤でものちに伝説化するオックスの異様な熱狂に包まれたコンサートの様子をとらえた怪作でした。オックスのシングルは上り坂の筒美京平作曲が10曲、鈴木邦彦が2曲、中村泰士が2曲、佐々木勉が2曲と佳曲も多く、アイドルGS歌謡としてもあなどれません。ラスト・シングル「もうどうにもならない c/w ふりむきもしないで」(A面は淡の圭一作曲、B面は利根常昭作曲)もリリース翌月の解散宣言を予告する、すでにど演歌GS歌謡に踏みこんだ怪作です。確かにアイドルGSには違いありませんが、レコードに残されたオックスの音源にも確かにこのバンドの一貫性がありました。オックスに類するアイドルGSはありましたが、オックスほど徹底したバンド、オックスのような路線でオックスほど成功したバンドは他にはなかったと言えるものです。

 一言で言えば、オックスはグループ・サウンズがはらんでいた可能性の中の一筋のみを選び、追い求め、体現した異端の存在だったということです。オックス以前のGSはどのバンドもメンバーのミュージシャンシップが高く、大なり小なり洋楽ロックの追求を、日本のバンドなりに消化しようと工夫を重ねるのが大前提でした。スパイダースのように洋楽性を生かしたままオリジナル楽曲で勝負したり、ブルー・コメッツやワイルドワンズのように深く洋楽に根ざしながらドメスティック化を成功させたり、ゴールデン・カップスのように最新の洋楽ロックを独自カヴァーするのを本領としたり、最大の人気GSタイガースのようにドメスティックなアイドル路線のシングルと洋楽路線のライヴを両立させたり、テンプターズやジャガーズ、カーナビーツのように強い洋楽性を持ちながらアイドル性を兼ね備え、スパイダースやブルー・コメッツの切り拓いた日本のロックの基盤を堅めようとしたり(この方向性はタイガースの大ブレイクにやや隠れてしまいますが)と、あくまでその志しはビートルズ以降のビート・グループの日本への移植を原点としたロック・バンドとしての意識と意欲に支えられていました。高い作曲力を誇ったかまやつひろし(スパイダース)、井上忠夫(ブルー・コメッツ)、加瀬邦彦(ワイルドワンズ)、松崎由治(テンプターズ)のように優れたバンド内作曲家が洋楽水準で勝負できるオリジナル曲を生み出したり、作曲力には乏しいバンドでも切磋琢磨し、高いアレンジ力や演奏力によってカヴァー曲の日本語詞ヒットや専業作曲家からの提供曲を日本のロックとして送り出していました。それに対してオックスは、当初からグループ・サウンズ、あえて言えば沢田研二を擁したタイガース、萩原健一を擁したテンプターズのアイドル的人気のみに目標を絞り、いわばGSによるGSの再生産、アイドル性にのみ特化し全振りした存在を目指したのです。ともに和製ローリング・ストーンズを目指していたタイガースの星の王子様的イメージ、テンプターズの母性をくすぐるふてくされた不良少年的イメージはバンドの存在感あってこそ、また楽曲のイメージあってこそストーンズの真似ではなく自然に成立したアイドル性でしたが、オックスは十分な演奏力を持ちながらもすでにトップ・グループだったタイガースやテンプターズのアイドル性のみを踏襲し、GS史上初の洋楽との接点のまるでない純粋GS、音楽的要素はすべてエンターテインメントに振り切った特化型アイドルGSとしてデビュー時から個性を確立していたのです。タイガースの美少年集団的品格、テンプターズの一途な不良少年的純粋性は、オックスの場合もっと猥雑な、水商売的存在感に転化されました。対象こそ少女ファンたちですが、オックスのむき出しのセックス・アピールはGSの皮を被ったショーパブ・バンドと同質のもので、すでに人気のピークに達していたタイガースやテンプターズに乗り遅れた少女ファンを、ウンコにハエが群がるように惹きつけたのです。それこそが良識に対するオックスの反逆性であり、オックス以前のGSを凌駕する熱狂性でした。

 オックスは根づきつつあった人気バンドと比較してすら本質的な反逆性を評価されるとともに、その大ブレイクはGSブームの衰退を早めた、と批判されることもあり、のちにリーダーの福井利男氏は「むしろオックスがGSブームを一年半延ばしたと思っている」と発言しています。オックスの存在は「作られたアイドル」、ハーマンズ・ハーミッツやモンキーズの系譜にあったかもしれませんが、ピーター・ヌーンのハーミッツはともかく本格的に最高水準のポップ・ロックを生み出したプロジェクト、モンキーズとも本質的には異なるものでしょう。オックスはいわば最初にしてGS時代唯一無二のヴィジュアル系バンド、のちに「PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK」をキャッチフレーズとしてデビューしたバンドの元祖と言えるような存在だった、と思えばより正鵠を得ているのではないかと考えられます。その点でも、オックスのデビューは一種の発明、のちに音楽的に再評価された多くのグループ・サウンズ時代のバンドと較べても位置づけに困る奇観でした。佳曲にも多く恵まれたオックスですがその音楽性は実はどうでもよく、GS時代にデビューしたから歌謡GS調の曲をやっていただけと考えた方がすっきりします。これが'70年代ならアイドル系フォーク・グループとしてデビューし、'80年代や'90年代だったらパンクやエレクトリック・ポップやメタル、2000年代以降だったらネオ・ヴィジュアル系と言うべき、要するに流行りの音楽を衣装に派手な(もしくはその時々の極端な)パフォーマンスが売りの存在としてデビューしたものと思われます。ハーミッツやモンキーズとも異なるのは音楽的成果を目指した形跡がオックスの場合は微塵も見られないことで、そのためもっともミュージシャンシップに富んでいたと言われる赤松愛はデビュー1年で脱退してしまいます(その後赤松愛はジョン・レノンに弟子入りするために渡英し、小野洋子の友人経由でジョンとの面会を図るも失敗、帰国後に元タイガースの加橋かつみ、元フォーク・クルセダーズの加藤和彦とのスーパーグループへの結成を図るも、マネジメント的な問題で頓挫します)。オックスが何を残したか、レコード音源のみを集成した『オックス・コンプリート・コレクション』はその謎の入口にはなっても完全な回答は与えてくれません。オックスとは何だったのか。その最小限の回答は、冒頭のテレビ出演映像からご覧いただく方それぞれが感じ取っていただける通りです。