ゴールデン・アワー・ウィズ・ザ・ジャガーズ! | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

ザ・ジャガーズ - ヒッツ・アンド・モア!(TV Broadcast, 2000's)
ザ・ジャガーズ - ヒッツ・アンド・モア!(TV Broadcast, Live at 千葉ココモ, 2000's) :  

1. 君に会いたい (作詞作曲・清川正一)
2. ダンシング・ロンリー・ナイト (作詞・漣健児/作曲・鈴木邦彦)
3. マドモアゼル・ブルース (作詞・橋本淳/作曲・筒美京平)
4. エメラルドの伝説 (作詞・なかにし礼/作曲・村井邦彦)
5. オール・マイ・ラヴィング (作詞作曲・ジョン・レノン、ポール・マッカートニー)
6. ツイスト・アンド・シャウト (作詞作曲・フィル・メドレー、バート・バーンズ)
7. スロー・ダウン (作詞作曲・ラリー・ウィリアムズ)
8. ルシール (作詞作曲・アルバート・コリンズ、リチャード・ペニマン)
9. カンサス・シティ (作詞作曲・ジェリー・リーバー、マイク・ストーラー)~ヘイ・ヘイ・ヘイ (作詞作曲・リチャード・ペニマン)
10. のっぽのサリー (作詞作曲・
リチャード・ペニマン、ロバート・ブラックウェル、エノトリス・ジョンスン)
11. キサナドゥーの伝説 (訳詞・なかにし礼/作詞作曲・ケン・ハワード、アラン・ブレイクリー)
[ ザ・ジャガーズ ]
岡本信 - lead vocals
沖津ひさゆき - lead guitar, lead vocal on 7
宮崎こういち - guitar, lead vocals on 6, 
森田巳木夫 - bass guitar, vocals
宮ユキオ - drums

 フィリップス・レコードから昭和42年(1967年)6月に、若手バンドのザ・カーナビーツ(デビュー曲「好きさ好きさ好きさ」)とともに売り出されたザ・ジャガーズは、もともと六本木の遊び人仲間「野獣会」の中から昭和38年(1963年)に集まり(つまりビートルズの全米ブレイクに先立ちます)、昭和39年(1964年)から「宮ユキオとザ・プレイ・ファイブ」名義で活動していたベテラン・バンドでした。カーナビーツのデビュー・シングルが「日本のフォーク・ポップス界に遂に登場!カーナビー・ビート・サウンド・エージのアイドル!」と名うたれてリリースされたのと同様に、ジャガーズのデビュー曲「君に会いたい」は「カーナビー・ビート・サウンド・エージのエース!」としてリリースされましたが、この「カーナビー・ビート・サウンド」とは両バンドの楽曲版権を取得していた当時のシンコー・ミュージック(「ミュージック・ライフ」)が両バンドを売り出すために考案した和製英語で、リヴァプール・サウンドより新しいロンドン風俗(いわゆる「スウィンギング・ロンドン」)をイメージしたシンコー・ミュージック取締役・草野昌一(漣健児)氏によるキャッチ・フレーズでした。実際にスウィンギング・ロンドンを代表するザ・フー、スモール・フェイセスらは本国イギリスでは「モッズ」(Modernsの略)のバンドとされており、いわばジャガーズとカーナビーツはモッズの日本的誤解から生まれたバンドと言えます。先にポリドール・レコードからは当時最大手の芸能プロダクション、渡辺プロが総力を上げたザ・タイガースがデビューしており(「僕のマリー」昭和42年2月、「シーサイド・バウンド」5月)、タイガースは昭和42年のうちに先輩格のベテラン・バンド、ザ・スパイダーズやザ・ブルー・コメッツを抜いたアイドル人気を獲得します。旧名「ロビンズ」だったバンドをカーナビーツと改名させたのは当時の「ミュージック・ライフ」編集長・星加ルミ子さんだったそうですが、六本木で結成されたジャガーズは、大阪出身のタイガースに対抗して名づけられたものでした。

 人気の点ではタイガースに追いつかなかった両バンドですが、「日本のジョージ・マーティン」とすら呼ばれるフィリップス・レコードの本城和治ディレクター(音楽的プロデューサー)が手がけたジャガーズやカーナビーツのシングル、アルバムはもともと高かったバンドの実力、個性にさらに磨きをかけた魅力的なものでした。先にフィリップス・レコードでスパイダーズを手がけていた本城氏はレコードにバンド自身の演奏を刻むことにこだわり、カーナビーツやザ・テンプターズ(昭和42年10月デビュー)ら若手バンドの場合は録音1曲ずつが難航したそうですが、テレビ出演、取材、ライヴとレコーディングの時間が取れずスタジオ・ミュージシャン(主に渡辺プロの先輩、アウト・キャストのメンバー)が演奏を勤め、メンバーはヴォーカル入れだけだったタイガースの一連のシングルより確かなサウンドの一貫性のある、優れた録音を送り出しました。特にデビュー時に結成5年目だったジャガーズの場合は、フィリップスの先輩スパイダーズと並んで円熟した演奏力・アレンジ力を誇りました。ジャガーズのレパートリーも多くは外部の専業作詞家・作曲家の書き下ろし曲でしたが、 歌われる世界はタイガースのような架空のヨーロッパ調のメルヘン的なラヴ・ソングではなく、もっとアダルトで刹那的なムードを湛えたものでした。リード・ヴォーカルの岡本信はメンバー中最年少ながらすでにファッションの先端地六本木で揉まれた大人の色気があり、また高い演奏力を誇るメンバーの中でもラーガ奏法的なギター・ワークで切り込む沖津ひさゆきのリード・ギターは同時代の日本のロック・ギタリストとしては屈指の存在でした。デビュー前からクラブの箱バンで鍛えたジャガーズには独特の黒い乗りがあり、岡本信の甘い魅力や一連のキャッチーなシングル・ヒットでタイガース以降のアイドル系バンドに位置づけられながらも、海外ロックの独自カヴァーを得意としたザ・ゴールデン・カップスやザ・モップス、ザ・ダイナマイツら実力派バンドとされたバンド勢に勝るとも劣らない洋楽センスの本格的な消化力がありました。それはフィリップス・レコードの先輩スパイダーズや若手のカーナビーツ、テンプターズ、アルバム制作まで至らなかったリンド&リンダース、ザ・ヤンガーズらにも同様に言えて、いわゆるグループ・サウンズの中でフィリップス系GSは日本の'60年代ロックの最良の達成を見せています。

 ジャガーズはシングル「君に会いたい」(昭和42年6月)、カーナビーツとのスプリット・アルバム『ジャガーズ対カーナビーツ』(昭和42年8月)、シングル「ダンシング・ロンリー・ナイト」(昭和42年10月)、最初のフル・アルバム『ザ・ジャガーズ・ファースト・アルバム』(昭和43年2月)を経て、主演映画『進めジャガーズ!敵前上陸』(監督・前田陽一, 松竹・昭和43年3月)とシングル「二人だけの渚 c/w キサナドゥーの伝説」(昭和43年6月)の頃には昭和43年3月末の宮ユキオから浜野たけしへのドラマー交代を経るも人気絶頂に達しますが、「キサナドゥーの伝説」大ヒット中に移動車によるメンバー全員の交通事故でキャンセルせざるを得なかったスケジュールを大阪からの究極の新進アイドルGS・オックス(昭和43年5月デビュー)が代役出演し、そのまま大ブレイクしたオックスに人気を奪われてしまいます。ジャガーズの続くシングル「星空の二人」(昭和43年9月)、「恋人たちにブルースを」(昭和44年1月)、「二人の街角」(昭和44年5月)、アルバム『ザ・ジャガーズ・セカンド・アルバム』(昭和44年6月)も優れたものでしたが、グループ・サウンズ・ブームの退潮には勝てず、ソフト・ロック調の「いつか誰か c/w フェニックス」(昭和45年4月)をラスト・シングルにレコード会社の契約を失ったジャガーズは、「自分の曲の売り込みばかりしてバンドの仕事を取ってこない 、やる気のない若手マネージャー」をつけられ(沖津氏証言、ちなみにそのマネージャーはのちに作詞家の夫人と組んで自分のバンドで大ヒットを放ち、山口百恵への専属作曲家コンビとして夫人ともども歌謡界で大成功します)、頻繁なメンバーの脱退によって実体を失い、そのまま自然消滅してしまいます。

 ここでご紹介したのは、デビューから40年あまりを経た、ジャガーズ2000年代のライヴ映像です。ジャガーズは昭和46年(1971年)に解散後、岡本信さんのソロ活動を経て昭和56年(1981年)には創設メンバーの宮ユキオさん、キーボードの佐藤安治さんを含むオリジナル・メンバーで再結成し、以降佐藤さんは脱退するもセッション・ミュージシャンをキーボードに迎え、岡本信さんが急逝した2009年(享年59歳)まで30年近くに渡って活動しました。バンドの顔と言える岡本さんの逝去とともに再結成ジャガーズは解散し、ドラムスの宮ユキオ氏(1937年生まれ)は2013年、サイド・ギターの宮崎こういち氏(1942年生まれ)は2014年に亡くなっています。このライヴ映像は岡本信さん生前のほとんど最後期のジャガーズのステージをとらえたもので、32分弱のセットリストの中で初期4枚のシングル「君に会いたい」「ダンシング・ロンリー・ナイト」「マドモアゼル・ブルース」「キサナドゥーの伝説」を冒頭とエンディング曲に、後輩テンプターズの最大ヒット曲「エメラルドの伝説」のカヴァー、ビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」、ビートルズによるカヴァー・ヴァージョンを下敷きにした「ツイスト・アンド・シャウト」(宮崎こういちさんのリード・ヴォーカル)、「スロー・ダウン」(沖津ひさゆきさんリード・ヴォーカル)、「カンサス・シティ~ヘイ・ヘイ・ヘイ・ヘイ」「のっぽのサリー」にリトル・リチャードの「ルシール」を加えた、ジャガーズの代表的ヒット曲にビートルズへのオマージュ色強いカヴァー選曲を織りまぜた贅沢なセットリストになっています。60年代後期のジャガーズはヴァニラ・ファッジらのニュー・ロックに足をかけており、ラスト・シングルでは70年代的なソフト・ロックに転換していたので、このステージは中期の「キサナドゥーの伝説」(デイヴ・ディー・グループの日本語カヴァー、昭和43年6月)が最新曲だった頃に戻ったようなセットリストとも言えますが、ジャガーズにとっては後期のニュー・ロック路線、ラスト・シングルのソフト・ロック路線は必ずしも本意ではなく、原点は前身バンド「宮ユキオとザ・プレイ・ファイブ」結成年に世界的ブレイクを果たしたビートルズだったことを強調したものになっています。

 専任ヴォーカリスト、岡本信さんの存在からジャガーズは和製ローリング・ストーンズを標榜していましたし、'60年代のアルバムも当時のバンドにあっては粘り気のある黒さと独特な都会的感覚を感じさせるものでした。またキャッチーなシングル曲の「ダンシング・ロンリー・ナイト」や「マドモアゼル・ブルース」なども和製R&B歌謡色の色濃いものでしたが、キャッチーな楽曲でもタイトなリズム・セクションの上にヤードバーズ時代のジェフ・ベックを意識したと思われる意外性に富んだ沖津さんのサイケデリックなリード・ギターが絡み、岡本さんの甘いヴォーカルが乗ると、ミリタリー・ルックに象徴される良い意味での日本的なモッズの誤解から生まれた、最上の和洋折衷感覚が光ります。ゲスト・プレイヤーのキーボード演奏もオリジナル・メンバーだった佐藤さんにひけを取らない好演です。全曲フル・コーラス、32分で11曲のセットリストもクラブの箱バン的によくまとまっており、「エメラルドの伝説」は観客サーヴィス的なカヴァーですが、ビートルズ関連のカヴァー曲(「ルシール」だけはビートルズのカヴァーがありませんが)が6曲並ぶ中盤以降は'60年代色を強く感じさせる、2000年代になってもなおバンドの初心がうかがえる好演です。「カンサス・シティ~ヘイ・ヘイ・ヘイ・ヘイ」のメドレーもビートルズ・ヴァージョンを下敷きにしており、ジャガーズほどの力量のバンドで聴けるこのビートルズ・カヴァーの連発は感動的です。また一連のシングル曲もフィリップス時代のスタジオ・ヴァージョンとは違いバンドのみの演奏で、もともとジャガーズのスタジオ録音はバンド自身のアレンジ力と演奏力が高いため、最小限のオーケストラ演奏しか被されていませんでしたが、ここでは完全にメンバーのみの演奏でシングル曲の再演を聴くことができます。六本木のクラブの箱バンで始まったジャガーズが45年あまりを経て再びクラブの箱バンとして演奏している姿がここにあり、グループ・サウンズ全盛の1967年~ブーム衰退によって自然消滅した1972年までの実質5年間の活動に較べ、1981年の再結成以降のジャガーズはもはや往年のファンとグループ・サウンズ再評価以降の少数のファンのためにのみ、もはや何の名利も栄光も求めず、ほぼ30年間もの再結成時代の余生を矜持を持ったライヴ・バンドとして過ごしました。そのステージがどれほど美しく清々しかったか、ぜひ映像でご確認ください。またビートルズに憧れるアマチュア~セミプロ・バンドは今なお世界中、日本中に存在するでしょうが、ご自分でバンドを演っている方こそ、ここで観られるジャガーズのビートルズ・カヴァーの質の高さは、日本が世界に誇り得たバンドと認められると思います。