ハレンチ/ザ・フォーク・クルセダーズ (Private Press, 1967) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

ザ・フォーク・クルセダーズ - ハレンチ (Private Press, 1967)
ザ・フォーク・クルセダーズ - ハレンチ (Private Press, 1967) :  

Originally Private Released by The Folk Crusaders LM-3163, October 15, 1967
Pressd by 西宮日本マーキュリー
ジャケット・デザイン、選曲・訳詞協力、作詞 (B2) = 松山猛
全編曲 = ザ・フォーク・クルセダーズ
(Side 1)
A1. そうらん節 = Soran Bushi (trad.) - 1:54
A2. イムジン河 = River Imujin (作詞:朴世永・作曲:高宗漢・訳詞:松山猛) - 3:05
A3. ドリンキン・グァード = The Drinkin' Gourd (N. Woods, R. Sparks) - 2:22
A4. ディンクの歌 = Dink's Song (trad.) - 2:30
A5. グァンタナメラ = Guantanamera (Hector Angulo, J. Marti, Pete Seeger) - 2:24
A6. ラ・バンバ = La Bamba (trad.) - 1:17
(Side 2)
B1. ひょうたん島 = Hyotan Jima (作詞:井上ひさし、山元護久・作曲:宇野誠一郎) - 1:45
B2. 帰って来たヨッパライ = I Only Live Twice (作詞:ザ・フォーク・パロディ・ギャング・作曲:加藤和彦) - 3:22
B3. 女の子は強い = Man Smarter (Norman Span・訳詞:北山修) - 2:42
B4. ヨルダン河 = Jordan's River (Gibson, Geraci) - 2:18
B5. コキリコの唄 = Kokiriko-No-Uta (trad.) - 2:47
B6. 雨を降らせないで = Don't Let The Rain Come Down (Bob Bowens, Bryan Sennette, John Madden) - 3:21
[ ザ・フォーク・クルセダーズ The Folk Crusaders ]
加藤和彦 - vocal, guitar, piano, percussion, record engendering
北山修 - vocal, narration, bass, percussion, record engendering
平沼義男 - vocal, guitar, percussion
with
芦田雅喜 - vocal, guitar, percussion (B4, B5, B6) 

(Original Private Press "ハレンチ" LP Liner Cover & Side 1 Label)
 京都の大学生によるアマチュア・フォーク・グループが四年生進級前に解散記念に作った限定300枚の自主制作盤が本作です。1,200円で領布される予定でしたが予約キャンセルが相次いだために200枚が売れ残り、窮したメンバーが全国のラジオ局に送りつけたところB2「帰って来たヨッパライ」とA2「イムジン河」が深夜放送でリクエストの殺到する大反響を呼んだため、東芝のキャピトル・レーベルから「帰って来たヨッパライ c/w ソーラン節」(Capitol CP-1014)が1967年12月25日にシングル・カットでメジャー発売され、最終売り上げ280万枚の特大ヒットになったのは1967年~1968年の日本のポップス界最大の椿事でした。1965年に加藤和彦(1947-2009)のメンバー募集で北山修(1946-)を始めに平沼義男、芦田雅喜、井村幹生ら大学生が集まって結成されたフォーク・クルセダーズは関西の人気アマチュア・グループで、本作収録の他のレパートリーはかねてからの持ち歌でしたが、アルバム制作に当たって曲数が足りずB4~B6にはライヴ・テイクを入れ、それでもAB面12曲に足りないので加藤和彦が即席でグループのブレイン、松山猛(1946-)と共作、自宅録音した追加曲がテープ回転操作とSEを多用したノヴェルティ・ソング「帰って来たヨッパライ」でしたが、大学生の宅録、しかも「死をテーマにした日本初のポップス」(北山修、また次作のアルバム『紀元貮阡年』は「生と死」をテーマにしたトータル・アルバムになります)が280万枚のシングル・ヒットになるなどおそらく空前絶後でしょう。メンバー全員大学三年生の秋に制作された解散記念アルバム『ハレンチ』時には芦田雅喜、井村幹生はすでに学業優先のために脱退しており、創設メンバーの加藤・北山と一度脱退して戻ってきた平沼義男の三人になっていました(ライヴ・テイクのB4~B6のみ芦田雅喜在籍時の四人編成の歌・演奏が聴けます)。フォーク・クルセダーズはすでに本作発売の1967年10月には解散していましたが、「帰って来たヨッパライ」の大ヒットによって東芝から再結成とメジャー契約を勧誘され、乗り気になった北山修が加藤和彦を口説き、当時は大学紛争で大学ではまともに授業さえ行われず、出席しなくても単位が下りて進級できるような状態だったため加藤も承諾し、学業のため脱退した平沼の代わりに交友のあったグループから端田宣彦(1945-2017)を迎えて1968年10月までの1年間限定再結成でメジャー・デビューします。

 以降1968年いっぱいまでにフォーク・クルセダーズはテレビのレギュラー番組「メイト7~フォークルとともに~」(第2回のゲストは来日中のホリーズだったそうです)を持ち、殺人的なスケジュールをこなしながら6枚のシングル、1枚のスタジオ盤アルバム『紀元貮阡年』(Capitol CP-8417, July 10, 1968)、アルバム化前提のコンサートから作品性の高い2枚のライヴ盤『当世今様民謡温習会(はれんちりさいたる)』(Capitol CPC-8001, November 1, 1968)、『フォークルさよならコンサート』(Capitol CPC-8003, February 10, 1969)、大島渚監督による主演映画『帰って来たヨッパライ』(松竹, 昭和43年3月公開、併映『進めジャガーズ!敵前上陸』)、助演作としては市村泰一・長谷部利朗共同監督によるコメディ映画『昭和元禄ハレンチ節』(松竹, 昭和43年8月公開)を残し、そのいずれもが(『昭和元禄ハレンチ節』以外は)驚くべきものでした。特に日本初のアンダーグラウンド・フォーク/ロックの自主制作盤(厳密には先立つアマチュア・フォーク・グループの自主制作盤の前例はありましたが)『ハレンチ』と、日本初のフォーク・ロックのコンセプト・アルバムと呼べるスタジオ盤『紀元貮阡年』の先駆性・独創性と高い完成度は同時代のグループ・サウンズをはるかに抜くもので、『ハレンチ』は東芝からのシングル第二弾に予定され再録音されながら朝鮮総連からの抗議(著作権侵害、原曲から日本語訳詞への改竄問題)によって発売中止になった「イムジン河」の初出テイクを含みます。サウンド面でのみ英米ロックのドメスティック化に専念していたグループ・サウンズがなし得なかった、カウンター・カルチャーとしてのフォーク・ロック、オルタナティブ・ロックを軽々とやってのけたのが平均年齢21歳、大学四年休学中のメンバーによるフォーク・クルセダーズでした。

 日本のホリー・モーダル・ラウンダースと言うべきフォーク・アルバム『ハレンチ』に対して、東芝からのスタジオ盤『紀元貮阡年』は日本の風土に突然登場したビートルズの『ラバー・ソウル』『リヴォルヴァー』や『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』的作品となり、フォーク・クルセダーズの成功によってジャックスのアルバム・デビューも決定し、ブルー・コメッツやスパイダース、タイガースやテンプターズら(おそらくゴールデン・カップス以外の)第一線のグループ・サウンズのバンドのコンセプト・アルバム制作に直接的影響を与えることになります。フォークルのコンセプトはもともと世界中の面白い曲を聴かせることにあり、本作自体は歌謡曲メドレーを含む「雨を降らせないで」の遊び心ともども全体的にはアマチュア・フォーク・グループの習作的作品ですが、この一見素朴なアルバム、しかし清新なプロテスト・ソング「イムジン河」を含み、「帰って来たヨッパライ」だけは明らかに突然変異的なアマチュア・フォーク・グループの自主制作盤『ハレンチ』が、日本のポップス界を塗りかえたフォークルの活動の起点になったのです。

(旧記事を手直しし、再掲載しました。)