グルジア映画の鬼才セルゲイ・パラジャーノフ(1) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

Sargis Hovsepi Parajanyan (1924-1990)

 旧ソヴィエト連邦、グルジア出身の映画監督セルゲイ・パラジャーノフ(Sergei Parajanov, 1924-1990)はスターリン独裁体制前のソヴィエト映画黄金時代の大監督オレクサンドル・ドヴジェンコ(1894-1956)が教鞭を執る全ロシア映画大学に学んでドヴジェンコに師事し、初期の長編第一作『アンドリエーシ』'55(ヤーコフ・パゼリャンと共同監督)と長編第四作『石の上の花』'62(アナトリー・スラサレンコと共同監督)は2014年の日本でのパラジャーノフ生誕90周年映画祭で本初紹介されましたが(初の単独監督作品『村一番の若者』'58と第二の単独監督作品『ウクライナのラプソディー』'61は未紹介)、国際的に注目を集めたのは野心作の単独監督の長編劇映画作品『火の馬』'64でした。それまでのパラジャーノフはドキュメンタリーの監督作品が主で、共同監督の長編劇映画2作、単独監督作品2作もソヴィエト政府の推奨する社会主義リアリズムを顧慮したものでしたが、故人の師・ドヴジェンコと同郷のウクライナの民族主義的郷土作家ミハイル・コチュビンスキー生誕100周年を記念し、コチュビンスキー晩年の代表作『忘れられた先祖たちの影』を映画化したパラジャーノフ初の国際上映作になった単独監督長編『忘れられた祖先の影』は、国外の映画祭のプレミア上映で高い評価を受け数々の賞を受賞するも、ソヴィエト本国では社会主義体制上好ましくない作品として冷遇されてしまいます。同作はもともと原作小説と同じタイトルでしたがフランスで'66年に『火の馬』と改題され評判を呼び、欧米諸国や日本への紹介はフランスでの好評を受けてのことでした。パラジャーノフはさらに民族主義的な題材を実験的な手法を大胆に用いた「キエフのフレスコ画」'66に着手しますが、製作中止命令によって同作は短編に終わります。次にアルメニアの撮影所に移ったパラジャーノフは「キエフのフレスコ画」で頓挫した手法で18世紀のアルメニアの吟遊詩人の生涯を描いた『サヤト・ノヴァ』'69を完成・試写しますが、同作は『火の馬』「キエフのフレスコ画」以上の当局の不興を買い、限られた公開だけで事実上上映禁止作品にされ、改訂版が『ざくろの色』'71と改題されてようやく上映解禁されるもパラジャーノフは危険人物としてマークされることになり、映画の仕事を干されるばかりか反政府活動の嫌疑の冤罪をかけられ、数次に渡って逮捕・入獄(強制労働)の仕打ちにあいます。『サヤト・ノヴァ』はのち、極力'69年版に復原したプリントが『ざくろの色』のタイトルで定着してヨーロッパ諸国で反響を呼び、現役ソヴィエト最高の映画監督の一人と評価の高まって欧米諸国の映画人からパラジャーノフ弾圧へのソヴィエトへの抗議運動が起こり、ソヴィエトのペレストロイカによってようやく表現の自由の自由を得たパラジャーノフはグルジア製作の『スラム砦の伝説』'85で長編劇映画に復帰しますが、続いてアゼルバイジャンで製作した『アシク・ケリブ』'88のあと、'90年に自伝的作品『告白』の準備中に逝去しました。'17年のロシア革命と'22年の連邦建国から75年間続いたソヴィエト連邦の解体が翌1991年ですから、パラジャーノフはソヴィエト連邦時代に生まれてキャリアを終えた生粋のソヴィエト監督にして、ウクライナ、アルメニア、グルジア、アゼルバイジャンと、もともと中央政権には属していない地方、現在では共和国化している地方のみで地方民族に材を獲た作品ばかりを作ってきた特異な映画監督です。幸いパラジャーノフの『火の馬』からの長編劇映画全4作は日本劇場公開もされており、今回はご紹介しませんが、日本劇場未公開・未DVD化の初期4長編もサイト上で視聴可能ですので、いずれも英語字幕さえついていない原語版ですが、ご参考までに上げておきます。
◎『アンドリエーシ』Andriesh (Studios Dovjenko, Kiev, Ukiana'55) (Full Movie, No Subtitle)*59min, B/W :  

 アメリカの古典映画復刻会社Kino Video社のセルゲイ・パラジャーノフ(Sergei Parajanov, 1924-1990)作品4作品を収めたボックス・セット『The Films of Sergei Parajanov』の外箱には一文がパラジャーノフへの讃辞として印刷されています。"In The Temple of Cinema, There are Images, Light and Reality. Sergei Parajanov was The Master of that Temple." Jean-Luc Godard……「映画の神殿の中には、イメージ、光そしてリアリティがある。セルゲイ・パラジャーノフはその神殿の主だった」ジャン=リュック・ゴダール、と、ゴダールは昔から惚れこんだ映画監督は最上の讃辞で褒め上げる、そうでなければばっさりと斬り捨てる人でしたが(ゴダールは、まだ20代の映画批評同人誌寄稿家時代に「溝口健二はグリフィス、ルノワール、ロッセリーニに匹敵する世界最大の映画作家だ。黒澤明などどこにでもいる二流の娯楽映画監督でしかない(大意)」と書いています)、今回『火の馬』以降の長編4作を観直して、初めて初期長編4作を観ると、初期4長編は英語字幕もなく万全な視聴ができなかったので映像ソフト化されたらしっかり観直して感想を書きたいと思いますが、どうもパラジャーノフはファンタジー作品の長編第1作『アンドリエーシ』'55(ヤーコフ・パゼリャンと共同監督)と現代劇の第2作『村一番の若者』'58(単独監督)、第3作『ウクライナのラプソディー』'61(単独監督)、やはり現代劇の第4作『石の上の花』'62(アナトリー・スラサレンコと共同監督)とオーソドックスながら堅実で感じの良い作品のあと第5長編『火の馬』'64で野心作を成功させ、そこまでが良かったんじゃないかという気がしてきます。『ざくろの色』'69で妙な方に行ってしまい、ほぼ15年を経たカムバック後の2作『スラム砦の伝説』'85、『アシク・ケリブ』'88(ともにダヴィッド・アバシーゼと共同監督)では本職は俳優であるアバシーゼに俳優の演出を任せているのではないか。その分『火の馬』までの劇映画らしさはかなり戻りましたが、映画全編のムードの統一や一定の均質感、めりはりといった要素では一旦極端な絵画的作品『ざくろの色』でもまだやり残した感があったらしく、どこか方向性を模索中に未完成のまま放り出したような仕上がりになってします。パラジャーノフが弾圧を受けて映画を撮れなかった15年の期間は年齢では45歳~60歳ともっとも充実した仕事ができたはずの時期に当たるので、逝去時に準備中だったという『告白』も自伝的作品だったそうですから弾圧期間の空白を埋める作品を意図していたと思われ、『アシク・ケリブ』を捧げた4歳年少のアンドレイ・タルコフスキイ(1932-1986)がもっと早逝ながら生前の名声と完結感の高いキャリアを築いたのに較べると、同時代の同国の映画監督ながらパラジャーノフの境遇の不遇には判官贔屓したい気持にもさせられます。『ざくろの色』も続く作品に良い成果を見せればまた見方も変わってくる面があり、15年の空白が生じたせいで単発の試みになってしまったのが『ざくろの色』を特殊な映画にしてしまったとも思え、また『スラム砦の伝説』『アシク・ケリブ』は明快なドラマ性では『火の馬』のフォークロア性を継いでいますが映像文体は『ざくろの色』の手法を持ちこもうとしてどっちつかずな結果になっているのも前述の通りで、1作ごとの完結感が薄いとまでは言いませんが、パラジャーノフの本格的国際公開作4作は1作だけ観ても力量の全容が見えない、他の作品も観ないと感想を保留したい作品ばかりで、初期4長編も一応観たので長編8作はすべて観たのですが、むしろまだパラジャーノフらしい特色の発揮されていない初期4長編の方が狙いと仕上がりに無理のない均衡のとれた映画です。『火の馬』以降の4長編について言えば『火の馬』から『スラム砦の伝説』『アシク・ケリブ』『ざくろの色』と発展していった方が自然で、一足飛びに『ざくろの色』に向かってしまったのがパラジャーノフの鬼才たるゆえんでもあるのですが、パラジャーノフ自身の創作力からではなく外部からの圧力によってキャリアに空白が生じることになったのにパラジャーノフの不運がありました。地方民族伝承土着文化への着目とその映像化にパラジャーノフのオリジナリティが『火の馬』で尖鋭的に現れ、その資質を以降極端に圧縮・分断されたかたちでしか展開できなかったのが惜しまれ、ゴダールのパラジャーノフ讃美も実現されなかったパラジャーノフの可能性全体へのはなむけと思えるのです。幸いパラジャーノフの『火の馬』からの長編劇映画全4作は内外の映像ソフトで入手が比較的容易であり、また日本劇場公開もされていますので、次回からはキネマ旬報の紹介記事も参照して1作ずつ感想文を書いてみます。なお文字ソフトの都合上ロシア語・ウクライナ語他の原綴はローマ字表記に代えました。ご了承ください。