オレクサンドル・ドヴジェンコ(1894-1956)の「ウクライナ三部作」(3) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

『大地』Zemlya (Vse-Ukrains'ke Foto Kino Upravlinnia'30.Apr.8)*78min, B/W, Silent : (with English Subtitles) : 日本公開昭和6年7月 :  


 ドヴジェンコの「ウクライナ三部作」中もっとも広く観られ、エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』やプドフキンの『母』に匹敵するサイレント時代のソヴィエト映画の最高峰とされている公然の名作の評価を得ているのがこの『大地』です。三部作でも『ズヴェニゴーラ』『武器庫』はロシア語字幕でしたが本作はウクライナの農村と農民の話なのでオリジナル版はウクライナ語版が作られ、ロシア全土公開版はロシア語版に字幕が差し替えられましたが、'71年の再公開レストア版に当たって再びオリジナル版に復原され、輸入盤(イギリス盤)DVDなどではウクライナ語の台詞は英語字幕がつくが帝政ウクライナ官僚の使うロシア語の台詞は英語字幕がつかない(つまりウクライナ農民視点では支配層は外国語をしゃべっている)処理がなされており、字幕がつかなくても帝政ウクライナ官僚が高圧的な命令を発しているのは映像で見当がつくのでドヴジェンコの意図をくんだ処理だと思います。本作は『ズヴェニゴーラ』でも『武器庫』でも見られた、固定ショットのみによる静謐で美しい映像と落ち着いたモンタージュで全編が統一され、前2作では映像文体の意図的な混淆でこの映像文体は対比的に用いられていたのに対して本作は映像文体の統一によってリアリズム映画としての劇映画らしさが一貫しているので、観やすさ・親しみやすさでも三部作中群を抜いています。また映画冒頭やエンディングのシークエンスでじっくりと映される田園の自然描写の美しさは神秘性すら感じさせる輝かしいもので、これに匹敵する現代映画というと、のちのヴィクトル・エリセのスペイン映画『ミツバチのささやき』'73や『エル・スール』'83くらいではないかと思わせられます。三部作の前2作が実験的手法・政治的性格からもいかにもアヴァンギャルド映画らしい作風(2作はそれぞれ異なる指向性の実験性も大きな特徴でしたが)だったので、サイレント時代のソヴィエト映画の名作として『大地』からドヴジェンコに入るのは観やすさや率直な感動からはいいですが、ドヴジェンコは素朴な社会主義リアリズムの映画監督なんだな、と了解して他の作品も似たようなものなのだろうとたかをくくってしまいかねないような難があります。『ズヴェニゴーラ』『武器庫』はタイトルだけでも『大地』のような農本主義的自然讃美の素朴リアリズム映画監督とは思えないのですが、日本盤の映像ソフトも出ていなければ上映の機会もめったにないので、ドヴジェンコがどんな監督で『ズヴェニゴーラ』『武器庫』がどれほどとんでもない映画かあまり日本では知られていませんし、実はYouTubeで手軽に観られるといってもあまり食指がのびる人はいないでしょう。文化会館類で稀に上映されたとしてもそれなりに映画好きの友人を誘っても「ソヴィエトのサイレント映画?」で一蹴されてしまいかねない。「ウクライナ三部作」の輸入盤DVDは3枚組で1,500円の廉価版で入手できますし買えば一生もののお宝ですが、よほどのサイレント映画マニアでなければ手を出さないでしょうし、しかしこれが限定部数の日本盤発売されれば廃盤即数万円単位の高プレミアになるだろう逸品と思うと、この紹介がドヴジェンコ「ウクライナ三部作」へのご案内になれば幸いです。さて『大地』は戦前日本公開された数少ないソヴィエト映画でもあり、それは直接ロシア革命を題材にしていないからでもありますが、『戦艦ポチョムキン』や『母』が1905年の民衆蜂起とその弾圧を描いて帝政ロシア打倒の正当性を主張した映画だったように本作『大地』もモデルになった1906年のウクライナの農村開拓事件があり、帝政ウクライナ政権下の農民たちの農業改革運動とそれをめぐるブルジョワ豪農層との対立を描いています。農民たちの間から自然に起こった労働団結運動が描かれているので本作も『戦艦ポチョムキン』や『母』のように税関で検閲を通らず日本未公開、という可能性もあったでしょうが、主題が農本主義的なものだったため「赤色革命」的な危険性はないとされ、また本作では殺人事件が起こり、クライマックスの葬送では全裸でベッドに身を投げ出し乱れ悲しむヒロインの姿が現行ヴァージョンでは乳房や乳首まではっきり映りますし、労働運動リーダーの葬儀は遺族の意志によってウクライナ共産党の主催で無宗教主義で行われますが、多少まずい場面は戦前の日本公開ではカットされたと思われます。戦前の日本の映画検閲は相当に厳重で、時代劇の剣戟映画でも検閲によるカット率は多い場合原盤の30%あまりにおよんだそうですし、アメリカ映画やヨーロッパ映画でも猥褻・暴力・反社会的描写は遠慮会釈なくカットされましたから、今日観られるヴァージョンがそのまま戦前日本公開された可能性の方が低いと考えた方がよさそうです。それでも本作の日本の戦前初公開は貴重なので、幾分修正して(修正箇所はあとで言及)日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。

[ 解説 ]「兵器庫」「スヴェニゴラー」の製作として知られているアレクサンドル・ドヴジェンコが自ら脚色し、監督に当った映画で、撮影はダニー・デムツキーが受持ち、L・ボディック、U・ソルンツェワ両人がアシスタントとしてドブジェンコを助けている。農場の協同化の勝利を主題としたウクライナ・キエフ撮影所作品である。無声。
[ あらすじ ] ソビエト・ウクライナの農村。実った穀物が風に波を見せて動き、向日葵の大輪が咲いている。林檎は水々しい淡紅色の顔を枝の繁みから窺わせ農場は見渡すかぎりの豊作である。一人の老人ペーテル(ミコラ・ナディムスキー)がこの農場の片隅、果樹の樹陰に横っていた。彼は七十五年の鍬と鋤の生活から今や永遠の眠りに就こうとしているのだ。老人は林檎を噛った。だがその老顔に微笑が浮んだと思った瞬間彼の体は忽ちがくりと崩れた。死!併し彼のあとには甥オパナス(ステバン・ジュクラート)夫婦がいる。それに孫の若者ワシーリー(セミョーン・スヴァシェンコ)がいる。ワシーリーはソビエトの国策たる農場協同化の先頭に立って、働く若者だ。農場にはトラクターが是非とも必要だ。そこでワシリー達はトラクターを村に使用することにきめる。今日はそれが村に着く日である。が、その機械の来るのを喜ばない奴が村にもいた。富農の息子コーマ(ペートロ・マソカ)だ。彼等は共同耕作を拒んで飽くまでも個人的利益を主張した。このソビエトの害虫の行為に憤激した一人の農民は富農の馬をやっつけようとまでする。俄かに村に人が集まった。そして何かを見張る。遠い地平線、曲折しこ道の彼方にトラクターが現われたのだ。群衆は一斉にそこへ突っ走ると機械はどういうわけか突然止まった。コーマの顔に冷笑が浮かぶ。農民は必死となって機械を押そうとする。原因が知れた。水がないからだ。そこで隣村から水が持って来られる。再びトラクターの行進。村に歓声があがる。トラクターが村の仕事を昂め出した。ワシーリー等の努力が酬いられた。だが或る夜ワシーリーは恋人ナターリャ(ユーリア・ソーンツェワ)の許をたずねて間もなく何者かに殺される。彼の家の戸口に村の僧侶が訪れるが、若きコムミュニスト、村のソビエトの指導者の体が彼等の手に委せられるが。ワシーリーの叔父は甥の葬いをソビエトの委員等に頼んだ。農民達は胸に若い指導者のための復讐を誓うため集まった。棺は彼等の歌声につつまれながら墓地に運ばれていく。この時、野原を走って来る者がある。富農コーマだ。働く農民はみな葬列に参加してしまったのだ。富農に今更何の用がある。遂いに富農は屈した。おれが殺したのだと喘ぐように叫んで彼は農民達の前に告白し哀訴する。だが農民は新しい生活に関する指導者の言葉に傾聴している。やがて雨が降ってきた。そしてそれは一滴ごとに果実や樹々や穀物を銀鼠色に濡らして行く。それはとりも直さず前進するソビエト農村の姿なのだ。

 ――キネマ旬報の紹介で修正した箇所は人名と姻戚関係で、これは日本公開がアメリカ公開ヴァージョンのフィルム経由だったことで生じたものと思われます。つまりアメリカ公開ヴァージョンで字幕の差し替えやカットが行われたものが日本公開ではさらにカットされた可能性があるとも、アメリカ公開ヴァージョンの時点でロシア特有のコルホーズ農業労働運動色は柔らげられていたとも考えられます。キネマ旬報の紹介ではオパネスは人名は上げられずペーテル老人の甥ではなく息子夫婦となっており、よって主人公は老人の孫なのはオリジナル版通りですが夫婦の息子ということにもなっています。主人公ワシーリーの名前は元々のキネマ旬報記事ではヴァージル、恋人ナターリャはナタリーであり、また主人公に嫉妬する豪農の息子コーマはクラークという姓で、いずれもアメリカ版でつけられた名前でしょう。サイレント時代のヨーロッパ映画同様おそらく字幕タイトルそのものが英語タイトルに差し替えられた版での公開されたと思われ、それを言えば一部のフランス映画、ドイツ映画を除いてサイレント時代の外国映画は一旦アメリカ公開版を経てから英語映画として日本公開されたのです。本作はドヴジェンコの長編映画第三作でサイレント作品としては最後の作品になり、次作『イヴァン』'32からはサウンド・トーキー作品になりましたが、同作が第2回ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を獲得したのも『大地』の国際的な大好評による振り替え受賞の意味が大きかったのではないかと思われ、イタリアを始めとするラテン諸国は農業国でもありますから20世紀初頭のトラクター導入による農業改革を描いた『大地』は普遍的なテーマを備えており、本作はソヴィエト本国でも(やや「反革命的」という留保つきながら、コルホーズ運動映画としての条件は満たしているとして)絶讃されればアメリカやヨーロッパ諸国でも絶讃される、農業国とは言えないイギリスやドイツでも映像美の高さで絶讃されると、まあ世界各国都合の悪いところはカットしたり字幕タイトルを差し替えたりしたでしょうが、農業改革映画の名作、しかも村いちばんの美女を恋人に持つ農業改革リーダーに対する豪農の息子の嫉妬が殺人事件がらみの犯罪メロドラマ展開もするという適度な艶っぼさと下世話さ込みで端正で格調高い映像美の素晴らしさ、共感しやすいキャラクターの配置と人間性の的確な描出、それらすべてを包みこむ神秘性さえ感じさせる農村の自然美とつけ入る隙すらない仕上がりで、「ウクライナ三部作」3作を通して観ると露骨な実験性があえて抑制されている点で異色の作品です。それにはエイゼンシュテインやプドフキンら中央政府モスクワの映画監督らが'29年には映画省に干渉されるようになったのが、ウクライナ共和国のドヴジェンコにも警戒がおよんだからかもしれません。しかし一方、劇映画としての構成では異なる次元の物語を異なる映像文体に振り分けた『ズヴェニゴーラ』、話法の解体を目指した『武器庫』に較べても本作はストレートなセミ・ドキュメンタリー作品=劇映画による実話の再現と見まがうほどドラマ性が稀薄な作品であり、農業改革と変わりゆく農村の姿の描出が大半を占めています。『ズヴェニゴーラ』『武器庫』とは違ったかたちでの話法の解体、一見オーソドックスなリアリズム映画のなりをしてハリウッド映画流の作劇術や映画技法からは決して出てこない、クライマックスぎりぎりになってからしかドラマティックな展開が起こらない大胆な映画作りをしているのに気づきます。ゴダールの「ソヴィエト映画は技法の本質はハリウッド映画と同じではないか」という指摘はエイゼンシュテインやプドフキンには当てはまっても「ウクライナ三部作」のドヴジェンコには当てはまりません。丹念なフィックス・ショットによる穏やかなモンタージュ、と『武器庫』とは正反対な行き方で『大地』を作ってもハリウッド映画と似たものにはなっていません。サイレント時代のアメリカ映画にも田園映画の系譜がありますが基調は自然を背景にしたロマンス映画であって、ドヴジェンコは本作についてはっきりと物語に主眼はない、と言い切っています。ウクライナ三部作は主演俳優も同じセミョーン・スヴァシェンコが起用されていますし、三部作がせめぎ合ってドヴジェンコの描きたかった映画が実現されていると見るべきでしょうし、完成度も3作ともがずば抜けた仕上がりです。それだけに何度観てもまだ映画監督ドヴジェンコの真価は底が知れない気がしてくるのです。