アルチュール・ランボー対小川未明! | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

小川未明 (明治15年/1882年4月7日生~
昭和36年/1961年5月11日没、享年79歳)
 海と太陽
 小川未明

海は昼眠る、夜も眠る、
がうがう、いびきをかいて眠る。

昔、昔、おお昔
海がはじめて、口開けて、

笑つたときに、太陽は、
目をまはして驚いた。

かわいい花や、人たちを、
海がのんでしまおうと、

やさしく光る太陽は、
魔術で、海を眠らした。

海は昼眠る、夜も眠る。
がうがう、いびきをかいて眠る。

(大正8年/1919年6月「おとぎの世界」発表、原文総ルビ)

Arthur Rimbaud (1854.10.20 - 1891.11.10)

「錯乱  II - 言葉の錬金術」より
 アルチュール・ランボー

見つかったぞ!
何がだ? 永遠。
太陽にとろけた
 海。

おれの永遠の魂よ、
おまえの願いを守れ、
孤独の夜だろうが、
燃えあがる昼だろうが。

そうすりゃおまえは自由だぞ、
世間の奴の同意からも、
声をあわせた逆上からも!
思いのままに飛んでゆく……

--けっして希望などはない、
 昇天なんてものもない。
学問と辛抱だ、
この辛苦は本物だ。

もう明日などというものはない、
繻子のような燠火たち、
 おまえたちのその灼熱
 それが義務というものだ。

見つかったぞ!
--何がだ? --永遠。
太陽にとろけた
 海。

(原題"Délires II - Alchimie du verb"、詩集『地獄の季節』1873より、粟津則雄訳)

 東京専門学校(早稲田大学の前身)に学んで坪内逍遥に師事し、在学中の明治末期に小説家として出発、大正15年(1926年)には童話作家専業を宣言した小川健作こと小川未明(1882-1961、師の逍遙命名の雅号「未明」は本来「びめい」という読みでしたが、「みめい」で定着したのでそれでよし、としたそうです)は膨大な作品があり、1970年代に講談社から普通小説全6巻、童話全集全16巻にまとめられています。浜田広介(1893-1973)、坪田譲治(1890-1982)と並んで日本の児童文学を確立した三大大家とされる未明については、短篇童話の代表作選集が各社からの文庫版で広く読まれているので特に説明もいらないでしょう。また、19世紀フランスの象徴主義の天才少年詩人アルチュール・ランボー(1854-1891)の詩集も十種類を越える翻訳で外国の詩人としては例外的なほど親しまれているので、こちらもまた説明を略します。ただしランボーの伝説的散文詩集『地獄の季節』からの、散文詩と自由詩の混交体の「錯乱  II」に含まれた太陽と海の詩篇は、文庫版一冊に収まるランボーの全詩集でも、詩集『地獄の季節』のハイライトにしてクライマックスをなすもっとも人気の高い部分なので、「太陽と海」の取り合わせというとまっ先にランボーのこの詩が浮かんでくる、という読書好きの方も多いでしょう。読書好きかつ映画好きの方ならなおさらで、溝口健二監督作の傑作『山椒大夫』1954のラスト・シーンの太陽と海の水平線の構図をそのまま引用したジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』1965のラスト・カットでランボーのこの詩が主人公のモノローグで重なるのを一度でも観てしまえば、海と太陽の取り合わせでランボーのこの詩以上に記憶に深く刻まれるものはないでしょう。

 たまたま小川未明の童謡集を読み返してみたところ、この「海と太陽」を見つけました。全16巻の講談社版『定本小川未明童話全集』(昭和52年/1977年1月10日刊)では第三巻に収録され、大正8年(1916年)の児童文学誌「おとぎの世界」6月号に発表された童謡詩です。それまで上田敏や永井荷風、堀口大學らによる初期抒情詩の数篇ずつの紹介はあっても、『地獄の季節』を含むランボー詩集全篇が日本で本格的に翻訳紹介されるようになったのは昭和5年(1930年)の小林秀雄訳『地獄の季節』以降ですから、小川未明の「海と太陽」はランボーの「錯乱  II」との関係はないでしょう。

 小川未明の「海と太陽」は二行六連、うち第六連は第一連のくり返しですから実質的に二行五連、くり返しを入れても12行、くり返しを省けば10行と片々たる短詩で、ランボーの「(見つかったぞ!)……」のようにスケールの大きな展開や人生の一段落(青春の終わり)への省察もなければ、子供に愛唱されるための童謡詩としてもあまり上出来とは思えない一篇です。意味だけ取れば穏やかな海の波打ちは太陽が氾濫を鎮めた海のいびきです、というところですが、実際の海は太陽に制御された安心できる代物どころではなく、ボードレールの詩篇「人と海」のように限りある人の生を脅かす久遠で不気味な天然自然でありながら、海浜国にはなくてはならない地学的条件でもあります。ただしこの童謡詩は不出来ながらも童謡詩ならではの擬人法が妙に効いていて、泥くさくて鈍くさい効果があります。小川未明の童謡詩の海と太陽は、鋭角的に射しこんでくるランボーの太陽と海と違って、田子作の間の抜けた対話のようなのんびりした味があるのです。翻訳でも伝わってくるランボーの身の締まるような衝撃性と較べて、縁側でほっこりしている爺さんが語る喩え話のような小川未明の「海と太陽」はまったく冴えたところがありません。しかしそれもまた詩には違いなく、この茫洋としたのんびりとした童謡詩にはランボーとはまるで違う詩情があります。たとえそれが稚拙な童謡詩の見本みたいなものであってもです。