与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」明治37年(1904年) | 人生は野菜スープ~風博士のブログ、または午前0時&午後3時更新の男

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与謝野晶子・明治11年(1878年)12月7日生~
昭和17年(1942年)5月29日没(享年64歳)

 君死にたまふことなかれ
 旅順口攻囲軍の中に在る弟を歎きて

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
(すゑ)に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刄(やいば)をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

(さかい)の街のあきびとの
旧家(しにせ)を誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ。
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出いでまさね、
かたみに人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ、
もとよりいかで思(おぼ)されむ。

あゝをとうとよ、戦ひに
君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきのなかに、いたましく、
わが子を召され、家を守(も)り、
安しと聞ける大御代(おほみよ)
母のしら髪はまさりぬる。

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかに若き新妻(にひづま)
君わするるや、思へるや、
十月(とつき)も添はで別れたる
少女(をとめ)ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。

(「明星」明治37年/1904年9月、合同詩歌集『戀衣』明治38年1月収録)

 君死にたまふことなかれ
 (旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて)

ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
(すゑ)に生れし君なれば
親のなさけは勝(まさ)りしも、
親は刄(やいば)をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四(にじふし)までを育てしや。

(さかい)の街のあきびとの
老舗(しにせ)を誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家いへの習ひに無きことを。

君死にたまふことなかれ。
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出でませね
(かたみ)に人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、
死ぬるを人の誉(ほまれ)とは、
おほみこころの深ければ、
もとより如何(いか)で思(おぼ)されん。

ああ、弟よ、戦ひに
君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を父君(ちゝぎみ)
おくれたまへる母君(はゝぎみ)は、
歎きのなかに、いたましく、
我子(わがこ)を召され、家を守(も)り、
安しと聞ける大御代(おほみよ)
母の白髪(しらが)は増さりゆく。

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかに若き新妻(にひづま)
君忘るるや、思へるや。
十月(とつき)も添はで別れたる
少女(をとめ)ごころを思ひみよ。
この世ひとりの君ならで
ああまた誰を頼むべき。
君死にたまふことなかれ。

(『晶子詩篇全集』昭和4年/1929年1月刊収録)

 日露戦争(明治37年=1904年勃発~明治38年=1905年終結)時の反戦詩として名高い与謝野(旧姓・鳳)晶子(1878-1942)のこの「君死にたまふことなかれ」は、第一歌集『みだれ髪』(明治34年=1901年8月刊)刊行直後の与謝野鉄幹(1873-1935)との結婚を経て第二歌集『小扇』(明治37年=1904年1月刊)に続く鉄幹との合同詩歌文集『毒草』(明治37年5月刊)を刊行したのち鉄幹主宰の詩歌誌「明星」9月刊行号に発表され、当初から賛否両論かまびすしい、大きな反響を呼び、翌明治38年1月刊の山川登美子、増田(茅野)雅子との共同詩歌集『戀衣』に収録されたものです。「明星」発表時にはタイトルは「君死にたまふこと勿れ」で、詩行に句読点はなく、タイトルの表記や句読点の追加を含む多少の表記の変更(初出では「何事ぞ、/君は知らじな」は「何事か/君知るべきや」、「母のしら髪はまさりぬる。」は「母のしら髪はまさりける」となっていました)をされて『戀衣』に収められたのが先に掲げた型です。のち与謝野晶子は短歌以外の自由詩型詩篇421篇を『晶子詩篇全集』(実業之日本社、昭和4年=1929年1月20日刊)にまとめており、後に掲げたのは『晶子詩篇全集』での改稿版です。のちに講談社から『定本與謝野晶子全集』が刊行された際に第九巻『詩集一』(昭和55年=1980年8月刊)・第十巻『詩集二』(昭和55年12月刊)に『晶子詩篇全集』未収録の詩篇239篇が『晶子詩篇全集拾遺』として収められており、歌人としての業績とともに660篇にもおよぶ膨大な文語詩・口語詩・散文詩の全貌が明らかになりました。自由詩系の現代詩人としても、これは全詩集として一人の現代詩の専門詩人として十分以上の業績で、与謝野鉄幹・晶子の「明星」から出た北原白秋の「朱欒」出身で鉄幹・晶子の孫弟子に当たる萩原朔太郎(1886-1942)は生涯に自由詩225篇、散文詩73篇、拾遺・草稿詩篇117篇と、生前刊行詩集には298篇、拾遺・草稿詩篇を足しても415篇にしかなりません。自由詩だけに限っても与謝野晶子は萩原朔太郎より1.5倍もの詩作を残したことになります。

 この「君死にたまふことなかれ」は日露戦争に出兵した実弟、宗七の身を案じた反戦詩として高名な作品で、発表時に批評家・エッセイストで文壇の大家だった大町桂月が国家主義的立場から批判し、晶子が応酬するなど議論のあった詩であり、当時二児の母でもあった(のち十一児の母になる)晶子は女の身であれば肉親や子供を思い、まことの心情を歌うならそれが当然ではないかと反論しています。また大町桂月が 国家叛逆の危険思想と批判したのは「すめらみことは、戦ひに/おほみづからは出いでまさね、/かたみに人の血を流し、/獣の道に死ねよとは、/死ぬるを人のほまれとは、/大みこゝろの深ければ、/もとよりいかで思(おぼ)されむ。」の連で、確かにこの皇国(権力)批判は大胆な発想で、戦時下にある民間人徴兵の欺瞞的本質を 見抜き、激しく批判しています。しかしのちの与謝野晶子の詩作を見ると、『晶子詩篇全集拾遺』に収録された詩集未収録詩篇では、第一次世界大戦に当たって、

 覇王樹と戦争

シヤボテンの樹を眺むれば、
芽が出ようとも思はれぬ
意外な辺が裂け出して、
そして不思議な葉の上へ
新しい葉が伸びてゆく。

ああ戦争も芽である、
突発の芽である、
古い人間を破る
新しい人間の芽である。

シヤボテンの樹を眺むれば、
生血に餓ゑた怖ろしい
刺はりの陣をば張つて居る。
傷つけ合ふが樹の意志か、
いいえ、あくまで生きる為。

ああ今、欧洲の戦争で、
白人の悲壮な血から
自由と美の新芽が
ずつとまた伸びようとして居る。

それから、
ここに日本人と戦つて居る、
日本人の生む芽は何だ。
ここに日本人も戦つて居る。

(大正3年=1914年作)

 一九一八年よ

暗い、血なまぐさい世界に
まばゆい、聖い夜明が近づく。
おお、そなたである、
一千九百十八年よ、
わたしが全身を投げ掛けながら
ある限りの熱情と期待を捧げて
この諸手をさし伸べるのは。

そなたは、――絶大の救世主よ――
世界の方向を
幾十万年目に
今はじめて一転させ、
人を野獣から救ひ出して、
我等が直立して歩む所以(ゆゑん)の使命を
今やうやく覚らしめる。

そなたの齎(もたら)すものは
太陽よりも、春よりも、
花よりも、――おお人道主義の年よ――
白金(はくきん)の愛と黄金の叡智である。
狂暴な現在の戦争を
世界の悪の最後とするものは
必定、そなたである。

わたしは三たび
そなたに礼拝を捧げる。
人間の善の歴史は
そなたの手から書かれるであらう、
なぜなら、――ああ恵まれたる年よ、――
過去の路は暗く塞がり、
唯だ、そなたの前のみ輝いて居る。

(大正7年=1918年作)

 と国際戦争を積極的に新旧文化の更新運動としてとらえており、「君死にたまふことなかれ」が決して反戦思想によるものではなく肉親への心情詩である限界を露呈しています。晶子は1912年(明治45年)には夫の与謝野鉄幹(寛)とヨーロッパ遊学し、11児もの鉄幹との子のうち五男にアウギユスト、五女をエレンヌと名づけ、また大正詩人としては驚異的に生涯に6度ものフランス留学経験を重ね、フランスでは『青い麦』のコレット(1873-1954)に師事してコレットの日本語訳者となった深尾須磨子(1888-1974)を愛弟子としていた、コスモポリタン指向も持った文学者でもありました。日本は第一次世界大戦では直接戦場にもならず、派兵もせず戦勝国に加わっていたので、そのコスモポリタン志向はかえって戦勝国の大義の礼讃と文化の浄化・更新を寿ぐ戦争讃美に向かったのです。与謝野晶子は大東亜戦争~太平洋戦争勃発の頃には老齢と病苦で寡作になり、戦時中に戦局が激化する前に亡くなりましたが、もし健在で文筆活動を続けていたら弟子だった北原白秋(晶子、白秋、萩原朔太郎は同年の昭和17年に亡くなっていますが、萩原には満州事変の際の戦争翼賛詩1篇、晩年まで盲目を押してまで多作だった白秋には戦争翼賛詩集『新頌』があります)や深尾須磨子(晶子以上にコスモポリタンだった深尾はムッソリーニを讃美し、大東亜戦争における日本軍部とともにヨーロッパのイタリアのファッショ党、ドイツのナチ政権を称え、ドイツ占領下のフランスですら現地を取材旅行しており、戦後には「軍歌を書いた」詩人としての深い傷を背負って詩作を続けることになります)と同様にジャーナリズムの求めによって戦翼翼賛詩の全盛期に戦争詩の多作に巻きこまれていた可能性は大きく(参考作がそのまま大東亜戦争翼賛詩に置き換えられる危うさがあるのは言うまでもありません)、「君死にたまふことなかれ」をそのまま歴史的な反戦詩の古典と受け取れない側面も大きいのです。與謝野晶子の全詩業は質量ともに明治~昭和の三代に渡る女性詩人として歌人の余技以上の突出した業績と認められるものですが、少なくともこの詩人は大東亜戦争~太平洋戦争勃発時にすでに反戦詩を発表することはなく、「君死にたまふことなかれ」もまた反戦詩としての積極的な意図からではない、武家の伝統を継いだ明治女性の刀自的な家庭的発想の詩であり、例外的な機会詩的心情詩として書かれたと見るのが妥当でしょう。またこの詩は軍国主義批判を目的としたものではないからこそ明治女性としての凛とした調子の高さを持って詠われたとも言えるので、当時にあって「国家の大事より家族が大事」と宣言できたのも一代の女性歌人・与謝野晶子以外にはいませんでした。しかし「家族」の「絆」が国民・国家規模にまで拡大された時に起こるのがファッショ(熱狂)であり、ファッショはその偏向した理想主義と排他性からしばしば民族的国粋主義と独裁制に進み、内戦を含む侵略戦争を誘発するのはほとんどすべての戦争国の歴史が示しており、「覇王樹と戦争」や「一九一八年よ」はともにひどい詩ですが、與謝野晶子のコスモポリタン指向が的確にファッショの実態を捉えた詩としてこれも晶子にとっては「まことの心情」だったという意味では與謝野晶子以外の誰にも書けなかった詩であり、コスモポリタン指向の集約点でもあれば消失点でもある詩です。その点でも、「君死にたまふことなかれ」は「家族」以外への無関心を率直に表してもいれば、大東亜戦争~太平洋戦争下の男性詩人にあってもそうだったように、容易に「家族の大事は国家の大事」にもすり替えられる危うさも抱えているのを念頭に置く必要があります。

(旧記事を手直しし、再掲載しました。)