翼ある蛇(v)~ヘンリー・ダーガー、魯迅、ロレンスへのオード | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

Henry Darger's Drawing for "In the Realms of the Unreal".



ヘンリー・ダーガー(Henry Darger, 1892-1973)
魯迅(Lǔ Xùn or Lu Hsün, 1881-1936)
D・H・ロレンス(David Herbert Lawrence, 1885-1930)
Henry Darger's Room & Books

Darger's Typewriter
Darger's handmade Novel, "In The Realms of the Unreal"


翼ある蛇 (v)
ヘンリー・ダーガー、魯迅、ロレンスに

 「それが
この先60年間続くダーガーのライフワーク
『非現実の王国で』の
始まり。」で
先に述べたヘンリー・ダーガーの
生い立ちは尽きている。
あとにつけ加えるのはほんの数語しかない。
今日も教会病院の仕事を終えたダーガーは
コートの襟を立てて足早に
夕闇のウェブスター通りに帰ると、
851番地のアパートの3階の階段を
上った。
彼はそこに40年間住んだ。

アンリ・ベール(1783-1842)は墓碑銘に
「書いた 愛した 生きた」
と彫らせた。ナポレオン戦争に従軍し
軍人として挫折した後、確かにスタンダールは、
書いた、『恋愛論』『赤と黒』『パルムの僧院』、
「ヴァニナ・ヴァニニ」「カストロの尼」「チェンチ一族」、その他
もろもろ。生前にスタンダールが書いて
発表したものはほとんど理解されなかった、
軍人から転じた政治家の余興としか
見られなかった。
今日スタンダールを「書いた 愛した 生きた」と
疑う人はいない、
彼は誰よりも書き、愛し、生きた人だった
ことを。

ロマン主義の理想は
真実または信望・善性・美の一致を目指した、
だからスタンダールは本当はロマン
主義者ではなかったかもしれないスタンダールの現実
認識はもっとたそがれていたから
そこからたそがれを拭うと
ロマン主義が現れる、
八木重吉が「うつくしい 秋のゆふぐれ
恋人の 白い 横顔(プロフアイル)」と書いた「『キーツ』の 幻(まぼろし)
が現れる。
この「ゆふぐれ」はスタンダールのたそがれのように
くたびれてはいない。
この頃多くの詩人は肺病病みで、肺病で
病んでいたからたやすく夭逝し、
その魂はまっすぐ天国へ行った。

ロレンスも肺病病み、おそらくロレンスは
ロマン主義者と言われれば怒ったに違いないが
理想主義に生きようとしたロレンスは
20世紀版のキーツ、労働者階級のキーツ、
精神医学と性愛の世紀のキーツだった。彼はとりわけ
カンガルーを愛した、それは詩集
『鳥・獣・花』1923と同年の
長編小説『カンガルー』にも書いてある。
ロレンスはまた蛇を愛した、象徴ではなく、
現実に茂みや巣穴から出て目の前を這う蛇を。
のちにロレンス最悪の失敗作と
悪評高い長編小説『翼ある蛇』1926を書くロレンスだが
『鳥・獣・花』の蛇の詩は
20世紀最高のイギリス詩と名高い扱いを受けている、
ロレンスの没後になってから。

魯迅もまた書いた、愛した、生きた人
だったことを疑う人はいない。
魯迅は1920年から1926年、北京大学・北京女子師範学校の講師時代に
2キロ離れて北京女子師範大学宿舎に住む
女弟子の恋人、許広平と膨大な恋愛往復書簡『両地書』を書いた。
さかのぼれば明治34年(1904年)、医学生として仙台に
留学した魯迅は、藤野先生という恩師を得たが、
民族的自覚のもとに医学よりも文芸運動による
革命を目指すようになる。

「愚鈍な国民は、たとえ体格がよく、
どんなに頑強であっても、せいぜいくだらぬ見せしめの材料と、
その見物人となるだけだ。病気したり
死んだりする人間がたとえ多かろうと、
それらは本質的な不幸ではない。むしろ
最初に果たすべき任務は、
かれらの精神を改造することだ」
だが魯迅は生前のうちに
その限界を痛切に悟ることになる、
まさに自分がそうしたように上から
物を言うしかなく
上から言われたことを渋々聞くだけの
同国人の心性に。

魯迅に賛同できない、ロレンスに感動しない読者でも
その真摯さと
巨大な予見的才能と
人並みならない生涯の努力と
その業績には威圧される。
世紀に数人、という選ばれた役割に
魯迅は自分が魯迅であることも、
ロレンスは自分がロレンスであることも、
ほとんど茫然として勤めるしかなかっただろう、
彼らはいつの間にかその位置にいた。

 ダーガーもまたいつの間にかそれに近い位置にいた、
誰も知らずに、必要とされずに
今日も収穫を求めてゴミ箱をあさる。
古雑誌、カタログ、ダーガーには理解できない
古新聞の映画スターのピンナップ。
でも使えるものは取っておく、
背中の開いたドレス、乳房の谷間を
寄せた成人女性や
股間にぴったりしたタイツをはいた
ダンサーの写真に眉をひそめる。
ダーガーの求めるのは少年少女のイラストや写真、
彼の王国に必要な素材(だが
ダーガーが成人女性に
興味を示さなかったという証拠も
単純な引き算では得られない。
少なくともダーガーは成人女性には
膨らんだ乳房があり、ダーガーの
思うような小児の
ペニスはすでにないと知っていた。)

ドラッグストアに寄ったダーガーは
雑誌から切り抜いた切手大の少女の写真からインター
ネガに複写してもらい
10倍の引き伸ばし写真にしてもらって受けとる。
それらがダーガーの乏しい小遣いでは年に数点しか作れない、
貴重なトレース素材。
ドラッグストアの小僧はこの奇妙な客にいかぶるが、
店主は気にしないでおけという。
どこの街にも変わった人はいるものさ、
猥褻写真でない限り黙って引き受けておけばいい
(だからダーガーは慎重に、あまり少女たちの肌の
露出した写真は身体の線のわかる程度に
服を描きこんでから引き伸ばし写真の注文に
出していた)。

「書いた、愛した、生きた」のいずれも
満たさない、あるいは
「真実・善・美」
に触れさえもしなかったダーガーは、今、
「愚鈍で体格の良い屈強な」子孫たちのなかで、
「せいぜいくだらぬ見せしめの材料」となって、
「その見物人」にさらされる。豚の
餌のように、蠅のたかる
糞便のように、研究者や愛好家が
群がる。芸術家の
苦悩と不幸は大衆の愉悦。
挫折や欠落を代償とした芸術を大衆は尊ぶ。

綴じきれないほどの書物は
ますますページをふくらませる。
矢印はおのれ自身に向かう。
炎は咲きほこる花や翼を焼きはらう。
豊満な乳房は悪夢となってのしかかる。
左右から牽く綱がぎりぎりに張りつめるとき、

老いて磔りつけにされたダーガーのなかで
すべては滝となって流れ落ちる。

(未定稿の旧作を整理してまとめました。半年前に一度 載せましたが、再掲載いたしました。)