ベストセラーの実売部数について | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

イラストbyまりeさん、『夜ノアンパンマン』より

 職業柄知っている方は当たり前に知っている、そうでない方には以外と知られていないことですが、新刊書やシリーズ物の書籍の「10万部突破!」「50万部達成!」「100万部突破!」「初版400万部!」「シリーズ累計1,000万部突破!」などは、あくまで印刷・発行部数であって、実売部数ではありません。雑誌の「5万部」「10万部」「100万部」などもそうです。新刊雑誌・書籍の場合には販売店での掛け率(採算点)が7割ですので、もともとの売価が7割が売れれば採算が取れるように価格がつけられているので、印刷・発行部数の7割が実際の売り上げの分岐点になります。3割は発行部数そのものが広告費みたいなもので、版元在庫や店頭在庫になり、店頭在庫は雑誌なら毎月・単行本も期限までに東販や日販などの流通業者経由で版元に返品され、版元在庫も雑誌のバックナンバーや旧刊の単行本はあまり大量に抱えこむと現在では2年を目安に裁断廃棄されます。つまり「10万部突破!」の場合は3万部が在庫分(実売7万部)、「100万部突破!」の場合は30万部が在庫分(実売70万部)、「初版400万部!」に至っては120万部が在庫分(実売380万部)になります。「シリーズ累計1,000万部突破!」(実売700万部)や「累計1億部達成!」(実売7,000万部)などは悪夢のような店頭・版元在庫で成り立っているのです。CDや映像ソフトなどもそうで、よく発売週のチャート順位が最高順位になりがちですが、これは発売元が初回プレスをどれだけ流通網に乗せて出荷したかで決まるので、実際の実売部数が反映されるのは発売からほぼ三か月後(売り上げが掛け率に反映されるのが三か月かかるため)になります。「10万部突破!」の実売9万部台と「50万部達成!」の実売35万部は購買者への浸透度ではそう大差なく、売れれば売れるほど古書店への放出率も高くなるので、「100万部突破!」などは在庫分だけで30万部(実売70万部)と、部数が増えるほど無駄な部数も増えてしまう、さらに古書店チェーンなどに売られると古書市場でも余剰在庫になってかえって叩き売りになる、という現象が起こります。大ベストセラーになるほど余剰在庫の割合が増大し、本としての市場価値は低下する、という仕組みです。

 筆者は学生時代のアルバイトから新刊書店員、古書店員、雑誌編集者、雑誌ライターと本に関わりのある経歴があり、この「3割は余剰」という出版・流通形態に、特に雑誌編集者時代に「7割以上は確実に売れる内容と価格」「3割は店頭・版元在庫」に悩まされました。古書店員時代にもしみじみ感じましたが、本当に質実な読者に恵まれた文学書(特に詩歌書)などは、300部~500部といった刊行部数でも、出版社は返品分も廃棄しないので2~3年かければ完売します。そして新刊なり古書なりで購入した人は手放さずに大事に所持しますし、稀に事情があって手放しても欲しい読者に恵まれているので、すぐに発売時の価格より数倍~十数倍の価格で取引されます。大衆小説や実用書(自己啓発書や時事解説本)などは万単位の部数で刊行されますが、内容はすぐに古くなるので、新刊書店では目新しい新刊書に押し流されて、古書相場では古書店チェーンの均一価格本コーナーに並びます。「7割売れて採算点」という点では新刊段階では大衆小説や実用書と純文学や専門書では変わりがないので、同じ300ページ前後のハードカヴァーなりペーパーパックでも印刷部数の多い方が価格帯が下げられるので、大衆書の初版3万部と専門書の300部では単価に数倍~10倍以上の開きが出ます。

 芥川龍之介が豪胆奔放な性格・私生活で知られる岩野泡鳴を追想したエッセイで、先輩作家の泡鳴と芥川が駅の構内でばったり出会った時のエピソードを披露しています。先輩作家の泡鳴は出版社からの帰りか自分の新刊の売れ行きに上機嫌で、「○○部出たよ。君はどうだい?」(芥川も部数はぼかしています)と芥川に尋ね、芥川は少し困りながらも正直に答えると泡鳴より一桁上でした。泡鳴は「そうか」と一瞬絶句しましたが、「ぼくの本は難しいからなあ」と呵呵快笑して、それがほどなくして亡くなった泡鳴との最後の出会いだったそうです。「僕の知る岩野氏は爽快な楽天家であった」と芥川は追想文を結んでいますが、泡鳴の逝去は大正9年(1920年)なのでおそらく2,000部~5,000部、芥川は2万部~5万部といったところだったのでしょう。しかし当時の本は物価指数からも高価なものだったので、返品率3割といった事態はなく、出版社も在庫が売り切れるまで大事に流通していましたし、一人が買った一冊は家族や友人が回し読みするといった具合に大切に扱われました。500部や1,000冊単位でも実際はその10倍以上の読者を得ていたのです。1,000部の本を10冊以上送りだせば、実際には100万人の読者に届いたということになります。逆に部数が多いほどそれらは回し読みされないので、泡鳴の著書の発行部数と芥川の著書の発行部数は実際の読者数では十分拮抗していたでしょう。

 本は本当に欲しい人の手に十分に渡って、かつ内容が古びずいつまでも手許に置いておきたい内容であるに越したことはないでしょう。これはCDや映像ソフトなどでも同じです。『ハート・クレイン詩集』や『左川ちか詩集』、アルフレート・デーブリーン『ベルリン・アレクサンダー広場』やカルロ・エミーリオ・ガッダ『悲しみの認識』、巴金『寒夜・憩園』、アレクサンドル・ドヴジェンコ『ウクライナ三部作』や成瀬巳喜男『妻よ薔薇のやうに』、溝口健二『愛怨峡』、ジョン・カサヴェテス『アメリカの影』、モンテ・ヘルマン『断絶』、レニー・トリスターノ『オン・キーノート』、ジュニア・ウェルズ『フードゥー・マン・ブルース』やジャックス『ジャックスの世界』、トラフィック・サウンド『ヴァージン』、オザンナ『パレポリ』などはこの先100年、200年経ってもひっそりと手渡されていく文化遺産です。しかしそれが数万、十数万という集中的な人気を博すことはないので、最小ロットのプレスのまま本来渡るべき人の手にすら十分には渡りません。1,000部がプレスされても返品率3割の流通事情から高価格になるか余剰在庫にされるかで、よほどの版元の覚悟がないと在庫分の売り切りまで余剰在庫を抱えこめないからです。また新刊があまりに多いので、配本分を売り切っても旧作には新刊書店やCD・DVD店、通販サイトが版元在庫から補充しないということになりがちです。

 次々と新刊書を消費していく読者には、本当に価値のあるもの、持っていて古びないものということ自体がすでに無意味なのかもしれません。筆者などは読み捨て前提の雑誌業界にしか通用もせず居場所はなかったので、著書は偶然1冊、日本の某映画監督と某フランス人写真家氏の対談をまとめた『L'Empire des Plaisir』が(このタイトルはロラン・バルトの『表象の帝国 (L'Empire des signes)』と『テクストの快楽 (Le Plaisir du texte)』からの露骨な流用です)、対談の司会者として雑誌連載したものが某フランス人写真家氏の著書として突然フランス語訳で単行本化されたきりでした。原文や註釈も筆者の雑誌連載記事をそのままフランス語訳されたもので、写真家氏は代表作しか観ておらず、筆者は同監督のほとんどの作品を観ていたため、筆者はその映画監督に詳しいライターとして対談の梶を握る司会と原稿作成を一任されました。おそらくフランス語版で最初の同日本人映画監督の単行本文献となったフランス語版対談では、筆者は編集者と思われており、文中には「Rédacteur (編集者)」として出てくるだけで、編集部経由で後から「Monsieur le rédacteur (親愛なる編集者へ)」と署名した献呈本が贈られてきました。それでもその仕事はフランス人写真家氏、ロマン・スロコウブさんの自費出版ではあってもフランス語初の映画監督・若松孝二氏の全貌を示すモノグラフィーにはなったので、対談時時点での若松孝二作品フィルモグラフィー、単行本1冊分に価するだけの内容(若松氏の発言はほとんどダゲレオ出版・昭和57年の自伝ロング・インタビュー『俺は手を汚す』の丸ごとのくり返しでしたが)を紹介した意義はあったと思います。実際は司会・原稿作成の筆者が梶を握ったスロコウブさんと若松監督との長篇対談『L'Empire des Plaisir (快楽の帝国)』もおそらく数百部の自費出版でしょうが、手にしたフランス語圏読者には他に替えの効かない本になったと思います。部数の多寡は問題ではなく、買い切り原稿料が幾らだったか(たぶん1万円にも満ちません)とは関係なく、また何の栄誉とも関わりなしに残した仕事です。そして本来、文章家の仕事というのはそうした、多少の手間賃だけで何の功利性をも持たない、作者の手を離れるとともに書き手が生きていようと死んでいようと、誰のものでもなくなるものではないかとも思えます。ちなみに筆者は、もう時効だろうと思えるので触れますが、千葉真一さんの初監督・オリジナル脚本・主演作(キアヌ・リーブスとのダブル主演!)、室田日出男さん晩年に企画された主演作、町田康さん主演作『熊楠』がいずれも企画・制作段階で幻の作品になった現場に携わってきました。ことに映画の世界には1割の実現の裏に9割の頓挫があり、それも映画史の裏面なのです。出版の世界でも同様です。なかったかも知れない物への想像力を働かせることができるかどうかで、試されているのはわれわれ自身であることを、常に第一にしてこそ未知への想像力は働きます。そしてベストセラーという現象に惑わされないこと。本当に自分自身にとって必要で価値あるものを見分けられずに、大切なものは得られません。それは採算点7割という市場原理では計れないものです。 しかし一方、それだけの価値しかないなら当座の知識や楽しみだけの役割と割り切って、片っ端しか忘れていくというのも理にかなっていることは否定できません。

※本ブログの記事『左川ちか全集』を、『左川ちか全集』編者の島田龍氏にツイートいただきました。