高橋新吉「戯言集」昭和9年(1934年)初版・前編 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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高橋新吉詩集 戯言集
読書新聞社・昭和9年(1934年)3月15日刊
高橋新吉(1901-1987)・21歳、
第1詩集『ダダイスト新吉の詩』刊行の頃
 今回は愛媛県伊方町生まれの詩人・高橋新吉(明治34年=1901年1月28日生~昭和62年=1987年6月5日没)の第4詩集『戯言集』(読書新聞・昭和9年/1934年3月刊)から表題作の連作長編詩「戯言集」をご紹介します。明治34年(1901年)1月に愛媛県で八人兄弟の第七子(兄一人・姉二人は夭逝)に生まれた詩人・高橋新吉は小学校校長の父を持ち、11歳で母と死別し、17歳の年(1918年)に商業学校を退学していくつもの職を転々としながら大阪、東京で放浪生活を送り、19歳の年(大正9年/1920年)に徳富蘇峰主幹の当時の大新聞「萬朝報」に懸賞短編小説が当選、同年新聞記事のヨーロッパのダダイズム芸術運動の紹介記事を読んで強烈な衝撃を受けます。翌大正10年(1921年)に三度目の上京を果たした高橋は同年12月にガリ版刷りの手製詩集『まくはうり詩集・DA1』を60部自費制作し、ニヒリズム思想の紹介者で翻訳家・エッセイストの辻潤(1884-1944)を訪ね、さらに大正11年(1921年)には辻の紹介で当時文壇の寵児だった辻の友人で詩人・小説家の佐藤春夫(1892-1964)に注目され、詩や小説、エッセイを商業誌に発表し、同年9月にはダダイズム宣言「ダガバジ断言」(「週刊日本」、のち詩集収録時に「断言はダダイスト」と改題)、10月には「ダダの詩三つ(ツンボ、メクラ、オシ)」(「改造」)に発表して詩人デビューを果たします(またこの年の年末に弟を亡くしています)。高橋は詩稿を辻潤に託し、大正12年(1923年)2月刊の佐藤春夫序文・辻潤編/巻末解説の公刊第1詩集『ダダイスト新吉の詩』で22歳にしてスキャンダラスなデビューを飾りました。放浪生活を送っていた高橋は詩集刊行時留置場に拘留されていたと言われます。同年9月の関東大震災はかろうじて被災を免れ(この震災で、やはり佐藤春夫と親しかったアナーキストの大杉栄は夫人・甥とともに警察官に危険視されリンチ殺害されています)、以降高橋はボヘミアン生活を送りながら多数の作品発表を経て、第2詩集『祇園祭り』(紅玉堂・大正15年/1926年3月20日刊)、第3詩集『高橋新吉詩集(南宋社版)』(南宋社・昭和3年/1928年9月25日刊)を発表しますが、同昭和3年(1928年)秋から精神疾患を発症、郷里に帰って静養生活を送ります。昭和4年(1929年)9月に病中に父を亡くしたショック(高橋には自殺と受け取られました)もあり、昭和6年(1931年)末まで3年間ものあいだ重篤の慢性統合失調症患者として禅寺の厳重な二畳間の座敷牢への監禁療法が行われました。昭和7年(1932年)1月にようやく退院して上京し再び文筆活動を再開、昭和9年(1934年)3月に6年ぶりの第4詩集『戯言集』(読書新聞社・昭和9年/1934年3月15日刊)、第5詩集『日食』(素人社書店・昭和9年/1934年3月28日刊)を立て続けに発表、敗戦前までに第6詩集『新吉詩抄』(昭和11年/1936年8月20日刊)、第7詩集『雨雲』(昭和13年/1938年4月20日刊)、第8詩集『霧島』(邦畫荘・昭和17年/1942年7月13日刊)、第9詩集『父母』(黎明調社・昭和18年/1943年1月18日)が刊行されています。この間に詩文集『神社参拝』(明治美術研究所・昭和17年/1942年9月20日刊)と『大和根魂』(擁書閣赤門書房・昭和18年/1943年10月)がありますが、戦時下に文学報国会から強要されて執筆した翼賛的作品として高橋新吉自身はその後の全詩集でもこの2冊は抹殺しています。高橋新吉は結婚も昭和26年(1951年)7月、50歳で初婚と晩婚でしたが、前述の通り母を少年時代に亡くし、父子家庭で父親との確執を経て詩人・文筆家となりましたが、昭和3年秋~昭和6年いっぱいまで精神疾患によって帰郷・入院します。高橋の場合は禅寺で、薬学的療法のなかった当時は、精神病院のない地方では禅寺での修養と静養(ほとんどの場合座敷牢への監禁)が精神疾患治療として行われていました。ヨーロッパを始めとする海外諸国でも近世までは宗教施設が精神病院の役割を果たしていました。高橋新吉が禅寺入院中の昭和4年9月、父親は自殺します。敗戦までの高橋新吉の詩が宗教的(禅)指向と父母をモチーフにした作品が多いのはそうした体験により、また戦後にはダダと禅の統一を指向するようになって精神的な安定を得るとともに、日本を代表する禅思想詩人としてアメリカを始めとする諸外国にいち早く紹介される国際的詩人となりました。それはかつての威勢の良い「断言はダダイスト」(『ダダイスト新吉の詩』)とはまったく一新した、苦汁に満ちた詩集でした。
 
 今回は6年間のブランクに高橋に何があったかを語る自伝的詩集『戯言集』から全67篇の短詩の連作からなる表題作の長編詩「戯言集」の前半をご紹介します。同詩集の初版には表題作「戯言集」以外にも12篇の単独詩篇を収録していましたが、高橋は最初の全詩集『高橋新吉詩集 (創元選書版)』(創元社・昭和27年/1952年2月15日刊)以来『定本高橋新吉全詩集』(立風書房・昭和47年/1972年10月15日刊)でも単独詩篇12篇は除いており、また長編詩「戯言集」全67篇は初版詩集では組版(本来行分け詩だったものが追い込み散文表記に改変されました)・表記・編集が個人出版社の都合によって改竄されたため、『現代詩人集・第一巻』(山雅房・昭和15年/1940年5月刊)に再録以来何度も表記の改訂、配列の入れ替えや抄出が行われています。高橋新吉は逝去5年前の『高橋新吉全集』(青土社・昭和57年/1982年刊)全四巻の『第一巻・詩』で全詩集をまとめて、初めて『まくはうり詩集』と『戯言集』を初版通りに収録していますが、高橋にとって『ダダイスト新吉の詩』『祇園祭り』『高橋新吉詩集(南宋社版』と『戯言集』は本来意図しない編集で刊行されたために、全詩集や選詩集の再刊ごとに再編集されています。また『戯言集』も『高橋新吉全集』で初版通りの内容で収録されるまで、各種の全詩集や選詩集では版元による改竄前に高橋が意図した行分け詩に復原されていましたが、ここでは最晩年の高橋の意図通り全編が散文詩に改竄された初版型でご紹介し、のちに高橋が復原したヴァリアントはまた改めてご紹介いたします。

 高橋新吉は実生活上の危機から夭逝ぎりぎりまで迫って復帰した詩人であり、もし夭逝しなかったとしても医学的には通常創作活動はおろか社会復帰すら望めないほどの重篤な病状に陥ってきた人です。高橋の病状は妄想や幻覚など精神的苦痛ばかりか身体的苦痛すら伴うほどで、ジェラール・ド・ネルヴァル(1808-1855)やアントナン・アルトー(1896-1948)のように狂死と隣り合わせのものでした。いわば「戯言集」は夭逝した八木重吉(1898-1927)や宮澤賢治(1896-1933)、中原中也(1907-1937)にはたどり着けなかった、中年までの長い闘病生活で山村暮鳥(1884-1924)がさらされていた地獄をそのまま描いた長編連作詩であり、これを比較することで高橋新吉のみならず山村暮鳥や八木重吉、中原中也の詩の理解にも一助となるのではないかと思われます。この連作長編詩「戯言集」はまとめて1篇の長編詩なので解説は全編ご紹介後に送り、今回は作品紹介にとどめることにします。

 戯言集
 (読書新聞社・昭和9年/1934年初版)

一 生が唯一のものである。
生とは死から發生した黴に過ぎないのであっても。

二 君のやうにあまりに生きる事に熱くなるな、
風が吹いてゐるやうに生きられないか。

三 生きてゐる事は滑稽な事だぞ、馬鹿者共
生きてゐる事は滑稽な事だぞ、馬鹿者共
生きてゐる事は滑稽な事だぞ、馬鹿者共
生きてゐる事は滑稽な事だ。

四 私は掘出された刹那の芋の如き存在でありたい。

五 悲しみを忘れる為の労働、どんな仕事でも好い。

六 私は青い星を見た。その星は青かつた。
其の光りを私は竹藪の竹の根の青い石にも見た。

七 私は淋しくて、生きてよう居らん。
此の寂寥に私は堪える事が出来ない。

八 私はあなたと話しがしたいのです。
話をする事、此の世の中に此れ以上の快楽はないと私は思つてゐる。

九 精も根も尽き果て、私はもう死を待つばかりである。如何に死がつまらないものであり、退屈なものであるかを私は知りぬいてゐる。だのに生きてゐる事は死以上に退屈であり、つまらない事のやうにも思ふ。

十 雨が今日は降つてゐる。私は死んで行つた多くの人達の事を思つてゐる。
雨の水滴の一つ一つに、それ等の人の顔が輝いては土に吸ひ込まれてゐると想像する。

十一 私は花を見ても美しいとは思はない。私は只人間が恋しい。美しい心を持つた人、美しい肉体を持つた人を私は痛切に恋したうてゐる。私が思ふのに美しい肉体の人でないと美しい心を持つてゐる筈はない。しかし美しいとか、きたないとか、人各々主観だ。それで私は根も葉も花も美しいと思つた事はない。

十二 此れから後の私の生活、それもやはり今までの様な苦の連続であらうか。
他人を食ひ物にして生きようとする心、此れが私にもあなたにもある。そして私は今あなたの食ひ物になつてゐる。

十三 手足を動かさないで凝乎してゐるからくだらぬ事を考へるのだ。それで手足を動かしてまめ\/しく働け、働くものには罪悪と思怨が与へられる。

十四 棄てられし白い紙函の悲哀を子供は知らない。

十五 此れほどの悲哀が私を襲ひ、私を打ちのめし、日毎夜毎に私をくさらかしてゐる。此れほどの悲哀が、夢にもあらうとは思ひ及ばなかつた事だのに。

十六 子供を養ひ育てる事、此れは誠に面白い道楽だ。此れ以上に面白い道楽が此の世にあらうとは思へない。

十七 私よりも困難な忍苦に充ちた生活を生きた人間があるであらうかと誰しも思ふであらう。本当にそれは嘘ではないのだ。事実だ。だが楽な生活、朗らかな生活、快ろよい生活も困難な忍苦に充ちた生活と別に違つてはゐないのだ。

十八 涙を流して喜びあふ事、此れ以外に世の中に何がある。或は涙を流して悲しみあふ事でも好い。私は涙の壺の中に居る。そして一人で麦藁が焼けるやうに身を燃やして泣いてゐるのだ。

十九 生まれたばかりに私は生きてゆかねばならない。生まれなかつた方がどれ丈よかつたか知れない。生きてゐる事は叩かれる事であり、圧し潰される事であり、馬鹿にされる事である。

二十 生きてゐる事は死んでゐる事よりも不幸な事だ。それで君は今生きてゐる。
それで此れより以上の不幸が君に起りつこない。生きてゐる事は最大不幸だ。

二十一 私はあまりに甚い無理な生活をしつゞけてゐる。目はかすみ手足は痺れてゐるのだ。私は時に斯う思ふ事がある。二つの目をくり抜いて、そこへ投げて鼠に食はせてやりたいものだ。すると盲目になつた私を恐れるものは無くなるであらう。それで以て私は湯に入つたり、杖をついてでも道を歩いたりする事も出来る。日光に浴する事も、人と話しをする事も許されるであらう。又両手を切断してゞもかまはない。今の此の二畳敷内の牢生活よりは恵まれた報ひられた生活を営む事が出来るであらうと。

二十二 埋められた棺桶の中で目を覚ました男、其の男は私の経験した心を嘗めたであらう。そして死んで行つたであらう。私も此の牢の中で朽ち果つるであらうか。此の牢の中で、今夜にも死ぬかも知れない。しかし死なぬかも知れぬ。それで私は此の牢の中で死にたくないが故に、鉛筆の屑をなめながら之を書く。トーシビの灯をかき抱くやうにして、私は自分の生命をかき抱いてゐる。だが此んな事を書く事は、私を此の牢から出す障害と却つてなるかも知れない。自分の頭が信ぜられぬ程悲惨な事があらうか。自分で自分を疑はねばならない。

二十三 いくらあせつても、もがいても此の二畳敷の牢の中より、一歩も外へ足を出す事も、手を出す事も出来ない。此の苦しみを三年間の間一日も例外なしに、憤懣と汚辱とで精神を摩滅し、骨をケズル思ひで過ごした事は、私の将来に何を持ち来すと云ふのか。早死にと悔恨以外にはあるまい。

二十四 私は父の悲痛なさびしさうな顔を未だに忘れる事が出来ない。お父さん許して下さい。私が生まれ出た事、それはお父さんにとつては死を予定した出来事だつたのです。

二十五 殺しあふ事も憎みあふ事も、みんなさびしいからなんだ。誰もかもみんなじつとして居られないのだ。みんなは一つの塊なんだ。それが割れたり壊れたりするんだ。

二十六 それで私は実につらい口惜しい。それで私は実に恐い情けない。それで私は実に生きて居りたいのだ。

二十七 私は死を考へると、まだたまらない気になる。死ぬのが何うしても厭なのである。しかし之は私の狂つた頭丈の考へる事であつて、私の肉体は日々死を迎えるに急がしく、日々腐りつゝあり、死に達せんとする準備を営みつゝある。

二十八 たとへ何んなに穢いまづいめしでも三度三度欠かさずに食べられる事は重要な原因だ。此れは人間同志が限りなく感謝しあつて好い事だ。

二十九 人間は自分の死を惜しまれ、なげかれ、とてもたまらない事のやうに思はれるやうな人間にならなければならない。

三十 私は今何と言ふ苦しい気持で生きてゐるかを誰も知らない。誰にもわかつて貰へない事だ。私は今何を考へ、何を夢みて生きてゐるかを誰にも知つて貰ふ事の出来ない事だ。私は事実何も考へてもゐなければ、何事も夢見てもゐない。

三十一 人間は苦労をしなければならない。艱難に堪えなければならない。
さうでないとぼや\/と死んで了ふ事になるのだ。

三十二 誰がいつどういふ悪るい事をするか、それはわからない。だから悪るい事を人にせれないやうな立場に身を置きたいものである。

三十三 あなたの考へは凡て死の恐怖から出発してゐる。だから正しいとは言へない。私は何も外に考へて居らない。此の牢の中から出て行きたいのだ。

三十四 あまりに何事も大切に取扱ひ、思ひ過すな、何事も、自分の死も、子供の死も、兄弟の死も、親の死も、それ等の事を蠅のヒツタ糞のやうに、又は曇つた日の音楽のやうに考へろ。

三十五 生きて下さい。命を粗末にとりあつかはないで、とは誰しも思つてゐる事だ。だが他人の命を粗末にないがしろにしないで生きてゐる人は一人も居ない。又生きられるものでもない。我々の智恵も力も凡ての本能も、只自己擁護と永続とに役立ち、分別される丈のものででもあるやうだ。

三十六 死に打つかつてゆく態度、之は好くない。死とよそ\/しくするにも及ばないが、死と常にあまりに接近し過ぎる事も好くない。死に圧倒されて、阿呆になつた男の言つた事だ。死とは私のものぢやない。貴君のものだ。

三十七 私は盲目も同然である。四方は板壁にふさがれた牢屋の中に居る。

(以下次回)