翼ある蛇(xiii)~ゴジラとアンネとヘンリー・ダーガー | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

『ゴジラ』東宝、昭和29年(1954年)


Henry Darger's Drawing for "In the Realms of the Unreal".


ヘンリー・ダーガー(Henry Darger, 1892-1973)
アンネ・フランク(Annelies Marie Frank, 1929-1945)
魯迅(Lǔ Xùn or Lu Hsün, 1881-1936)
D・H・ロレンス(David Herbert Lawrence, 1885-1930)
Henry Darger's Room & Typewriter

Darger's grave at All Saints Cemetery
A portrait from the Chicago Daily News from May 9, 1911: a five-year-old murder victim, named Elsie Paroubek.
Darger's Novel, "In The Realms of the Unreal".

翼ある蛇 (xiii)
またはゴジラとアンネとヘンリー・ダーガー
ヘンリー・ダーガー、魯迅、ロレンスに

「それはしばしば皮肉を帯び、遊戯的で、ブラック・ユーモア趣向があり、
引用や贋作性、パロディを好み、
しばしば自己言及的で、寓話性を持ち、
非個性的指向と、歴史観の改変傾向があり、
首尾一貫せずスタイルは不統一、しばしば断篇的・偏執的で、
歪んだテクノロジーと偏向した文化への指向によって、
神秘的なものと現実的なものが等価に混交され、
極端に長いか、または極端に短い」、それが、
スコットランド出身の大学教授で古典から現代文学に通じた
イギリス学士院フェロー、大英帝国勲章学士の、
文芸批評家、アレステア・ファウラー(1930-)による、
ポスト・モダン文学の定義だ。
一般的にはポスト・モダン文学の起源は『ドン・キホーテ』や
『紳士トリストラム・シャンディ』で
すでに始まり、ロマン主義文学の時代を通って、
象徴主義文学時代に現代的モダニズムに転じ、
モダニズム文学の頂点を示したジェイムズ・ジョイスと
ヴァージニア・ウルフの亡くなった1941年以降、
1940年代からがポスト・モダニズムの時代、という
ことになっている、そしてファウラーのポスト・モダニズムの定義は、
モダニズムに遅れて登場した魯迅、
非モダニズム的資質のロレンスが1920年代にすでに、19世紀ロシア文学の隔世遺伝のように、
予見していた人間性の解体、文化の崩壊に立脚した、
芸術の不毛性の認識と、ぴったり符丁を合わせてもいれば、
19歳のヘンリー・ダーガーがシカゴの下町で教会病院
清掃夫として働きながら、書き始めた(そしてその後60年間をかけて、
未完に終わった)「極端に長い」大長編絵本『非現実の王国で』
とも、定義の上では
一致している。

ダーガーは師を持たなかった、
文学の師も、絵画の師も、
またおそらく、ダーガーの意識にあっては、
生涯取り憑いたカトリック信仰の師も(ダーガーは、
直接神と向きあい、信仰し、礼讃し、請願し、
呪詛することはあっても、4歳の時に死別した実母、生後すぐ
生き別れた妹、15歳の時に亡くした実父以外には
自分と神の間に介在する人間、つまり教父や
神父、伝道師など、顧慮しなかった
に違いない)なかった。ましてや
文学や芸術たるや、ダーガーを育てた父や、小学校、児童施設で習った
読み書き、知識以外は独学の人だったダーガーは、
知的障害児施設育ちの孤児ダーガーは、
勤め先の教会病院図書室や、清掃夫の仕事で
ゴミ箱から広い集めた新聞、雑誌、それだけを知識のみなもと
とした、極端に貧しく、極端に孤独で、
貧しさや孤独以外に頼るもののなかったダーガーの
創造物、そしてようやくゴミ捨て場から拾ってきたタイプ
ライターで、寝る間もなく打ちつづけた
清書原稿(ダーガーがベッドで寝た痕跡がなかったのは、
教会養老病院に退居したあとで、
ベッドに山積みされた古雑誌や古道具の山によって、
確認されている)、多くは三幅対(トリプティーク)に肉屋用の
もっとも安い包み紙に描かれた水彩画の(ダーガーの最低賃金の
収入は、生涯の愛読書だった『不思議の国のアリス』絵本と
『オズの魔法使い』絵本、アパート代と食費の他は、
いちばん安い薄紙と、水彩画用の絵の具と、新聞・雑誌の切り抜きを
絵画の下絵用に、ドラッグストアで引き伸ばし写真に
焼いてもらう)ために
費やされた。

貧しいこと、孤独であること、社会的にもっとも
底辺の人間であること、存在すら
無視されていること
は他者からの干渉を受けない、芸術家にとって最上の
条件だ、何の権威も権力も持たず、敬意すら払われず、
着た切りの白い体操着が薄汚れるまま、立ちすくむしか
ないということは。アンネ・フランクとその一家ですら
ファン・マーレン、ミープ・ヒースと密告者容疑が転々としたのち
公証人アーノルト・ファンデンベルフに密告された
と特定されつつある。
ぼくは捨てられた新聞・雑誌の記事からでも
アンネ・フランクを知っただろうか、ユダヤ人少女アンネも
また文学や芸術の外にいた、彼女の永遠のモノローグは、
ガス室送りの前に、不衛生な収容所に蔓延したチフスによる、
15歳の死によって、不朽の文化遺産となった。
『アンネの日記』の前にどのような文学的尺度も
芸術的尺度も通じない、ダーガーにとってエルシー・パルーベック、
5歳で発電所脇の水溝に、扼殺死体となって発見された
少女のように、
アンネの生涯は人類史の罪障感に半永久的に根づいて
人々を圧倒する。世界史の過ち、アンネ・
フランクを殺したのはわれわれすべての
あやまちとつり合う、取り返しのつかない傷みとして
歴史に傷跡を残したように。だが、

ヘンリー・ダーガーにとっては
どうだっただろうか、ダーガーは
拾った新聞・雑誌から『ゴジラ』を知っただろうか、
(もっともアメリカ公開版は水爆実験への言及を削除して、アメリカ人
レポーターを視点人物とした、アメリカ
独自編集版だったが)
平田昭彦演じる隻眼の芹沢博士は、化学兵器オキシジェン・
デストロイヤーの使用を、女子学生の乙女たちによる
「平和への祈り」の斉唱のテレビ中継を見て、使用の際のみずからの死とともに
決意したが、ゴジラという制御不能な
モンスターの脅威に直面して、
乙女たちの「平和への祈り」の斉唱ほど日本人的
心性を表したものはあるまい、
アメリカの海上水爆実験によって目覚めた古代生物
ゴジラは、当時の日本では、天変地異による大規模天災として
描かれた、それはもちろん
つい二年前まで行われていたGHQ下の日本占領の
延長による自主規制だったが、

仮にもし、占領国アメリカへの顧慮がなくても、芹沢博士の
決意は、やはり乙女たちの斉唱だったに
違いない、だからこそ
ダーガーの『非現実の王国で』と、アンネ・フランクと、
『ゴジラ』は三角形をなして、永遠に交わらない。ダーガーに、そしてアンネ・フランクにとって
『ゴジラ』に描かれた恐怖は理解しがたい種類の
ものだっただろう、
またダーガーとアンネ・フランクにあっても、その立場は
重ならない、ダーガーはおそらくアンネを可哀想な少女と
は思えても、アンネの死の真の過酷さを
社会的・歴史的視野でとらえることは、できなかった
に違いない、ましてやアンネ・フランクが
ダーガーという偏執的人間の心性を、理解できたとは
思えない、アンネにとっては、
ダーガーですら自由なアメリカ社会の人間と
思えただろう、そのように
ダーガー、アンネ・フランク、『ゴジラ』、この三つの
悲劇は(古典的な意味で、ハッピーエンドで終わる
『ゴジラ』を悲劇と呼べれば、だが)は、
その訴える本質において、
交わらない。

ゴジラを蘇らせ、殺したのは誰か、
アンネ・フランクを殺したのは誰か、
ダーガーを生ける屍にしたのは誰か、おそらく『ゴジラ』の作者たち、
『アンネの日記』の作者たち、そして
『非現実の王国で』の作者は、その回答を用意していた、その点では、
生涯回答にたどり着けず、回答にたどり着けないことを
終生の課題にしていた魯迅、ロレンスよりも、
結論はすでに出ている、それがどんなに
傷ましいものであろうと、

おそらくそこに通俗性と脆弱さがある、
たやすい共感と、既知の経験の範囲から出ない
想像力の貧困がある、迫真の演出と演技を見せる『ゴジラ』の
被災者たち、エキストラが
大空襲の記憶を再現していたように、
またアンネ・フランクが、キティーと名づけた日記に
報告する出来事が、日が夜を、夜が日を、分断する
隠れ家での日毎だったように、
共感はたやすい、経験はたやすい、
そして経験の創作化はくだらない、
それはもっとも安易に他者とつながる
手段でしかなく、一種の共犯関係で消費されていく
ものでしかないから、それはどんなに悲痛で悲しくても
徹底的に通俗だ、そしてその通俗さによって
広く、薄っぺらに、引きのばされて
語りつがれる。

本質的にはダーガーのライフワーク、『非現実の王国で』も
それと同じものを、そなえている
立脚点によって重ならないが、『アンネの日記』と、また
『ゴジラ』と、同じ通俗性と脆弱さを
そなえている、作者と創作がぴったりと
重なるところに、はっきりと限界を
かかえている、ただひとつ、ダーガーの狂気が
あまりに自閉的、かつ持続的で、
途方もなくふくれあがり、
作者の意図も越えた、巨大で偏執的な、
異様な景観を獲得した、それは
人知れず、自分でも知らず、ポスト・モダンの網に
かかって営為をつむいでいた
ダーガーにとって創作者の幸福だったのか、

創作者の生涯そのものを押しつぶす
因業だったのか、孤独をつらぬいた生涯のおわり、
すべてを徒労として、
遺品の焼却を頼んだこの老人には、

そしておそらくそれこそが
かれの本質だったから、

もはや何の望みもなかった、
もはや自分にも他者にも
神にも
何も訴えることは、
なくなった。


(未定稿の旧作を整理してまとめました。お恥ずかしい代物ですが、公開いたします。)