シュルツェが認めた日本のバンド~ファー・イースト | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

 日本の'70年代のプログレッシヴ・ロックのバンドはサディスティック・ミカ・バンド、ファー・イースト・ファミリー・バンド、コスモス・ファクトリー、四人囃子の4バンドを代表バンドとするのが日本国内では'70年代以来、世界的にも'80年代後半以来定説になっています(progarchives.com参照)。この4バンドのうちミカ・バンドは'90年代、2000年代に一時的再結成があり、四人囃子も'80年代と2000年代の再結成と未発表音源集の発掘発売がありますが、バンド存続中にこの4バンドが発表したアルバムをリストにしておきましょう。

●サディスティック・ミカ・バンド
1. サディスティック・
ミカ・バンド (東芝音楽工業/
Doughnut, 1973.5.5)
2. Sadistic Mika Band (Harvest Records UK, 1973) *イギリス独自編集盤
3. 黒船 (東芝音楽工業/
Doughnut DTP72003, 1974.11.5)
4. Black Ship (Harvest Records US, 1974) *アメリカ独自編集盤
5. Black Ship 
(Harvest Records UK, 1974) *イギリス独自編集盤
6. Sadistic Mika Band (Harvest Records US, 1974) *アメリカ独自編集盤
7. HOT ! MENU (東芝音楽工業/
Doughnut, 1975.11.5)
8. HOT ! MENU (EMI Electrola Germany, 1C 062-82 017, 1975) *ドイツ独自編集盤
9. HOT ! MENU 
(Harvest Records UK, 1975) *イギリス独自編集盤
10. ミカ・バンド・ライヴ・イン・ロンドン (東芝音楽工業/
Doughnut, 1976.7.5)
●ファー・イースト・ファミリー・バンド
1. Mioと11ぴきの猫 (Warner Bros. Records, 1972) *羽仁みお(1964-2014)の企画アルバムの全面バックアップに前身バンド・ファーラウト(Far Out)名義で参加
2. 日本人 Nihongin (日本Columbia/DENON, 1973. 3) *前身バンド・ファーラウト(Far Out)名義
3. 地球空洞説 "The Cave" Down To The Earth (日本Columbia/MU-Land, 1975 .8. 25)
4. NIPPONJIN - Join Our Mental Phase Sound (Phonogram Germany/Virtigo, 1975) *他イタリア、ブラジル、ニュージーランド盤あり(同内容)
5. 多元宇宙の旅 PARALLEL WORLD (日本Columbia/MU-Land, 1976. 3. 25)
6. ニッポンジン NIPPONJIN (日本Columbia/MU-Land, 1976. 8. 25) *3と同内容
7. 天空人 Tenkujin (日本Columbia/MU-Land, 1977. 11. 25) *他アメリカ、ドイツ盤あり(同内容)

●コスモス・ファクトリー
1. トランシルヴァニアの古城 (日本Columbia, 1973. 10. 21)
2. 謎のコスモス号 (東芝音楽工業, 1975. 8. 5)
3. Black Hole (東芝音楽工業, 1976. 8. 5)
4. 嵐の乱反射 Metal Reflection (東芝音楽工業, 1977. 7. 5)

●四人囃子
1. ある青春~二十歳の原点 (サントラ) (東宝レコード, 1973. 10. 25)
2. 一触即発 (東宝レコード, 1974. 6)
3. ゴールデン・ピクニックス(CBS Sonny, 1976. 4. 21)
4. PRINTED JELLY (Canyon/See Saw, 1977. 10. 25)
5. '73四人囃子 ('73 幻ライヴ-俳優座ロック・コンサートより) (東宝レコード, 1978. 1. 25)
6. 包 (bao) (Canyon/See Saw, 1978. 7. 25)
7. NEO-N (Canyon/See Saw, 1979. 11. 28)

 このうちミカ・バンドは独力でイギリス進出に成功し、もっとも世界的に早く知られた日本のスペース・ロック・バンドになりました。しかしミカ・バンドは日本本国では加藤和彦をリーダーとした一流セッションマンによるプロジェクト的性格が強い、グラム・ロックやファンクからジャズ・ロック、歌謡ポップス何でもござれの万能プロフェッショナル集団と見なされたので、プログレッシヴ・ロック(もっと正確にはスペース・ロック)的な側面には欧米のリスナーほど着目されなかったのです。日本国内でもっとも清新なプログレッシヴ・ロックの新人バンドと見なされ、高い人気を誇ったのは平均年齢20歳でデビューした四人囃子で、むしろミカ・バンドよりも直接にプロコル・ハルム、ピンク・フロイド、キング・クリムゾンやイエスらイギリス流の正統的プログレッシヴ・ロックを日本的に消化したバンドとされました。その点では、より徹底して英米流のアート・ロック~プログレッシヴ・ロックの直輸入的サウンドに取り組んでいたのはコスモス・ファクトリーでしたが、'60年代末のグループ・サウンズ時代から名古屋で活動していたメンバーたちによるバンドだったため、5歳以上年少の四人囃子と較べてセンスの古さが指摘されがちで、またサウンドの消化も四人囃子より洗練において遅れを取り、またメロディアスなセンスにおいてはもっとも耽美的でしたがそれも垢抜けない印象に輪をかけることになりました。しかし'70年代の日本のロック・バンドは良くて1作か2作のアルバムを残せればまだしもだったので、ミカ・バンドですら別編集の海外盤を除けば純粋なオリジナル・アルバムは『サディスティック・ミカ・バンド』『黒船』『HOT!  MENU』『ミカ・バンド・ライヴ・イン・ロンドン』の4作、四人囃子も『一触即発』『ゴールデン・ピクニックス』『Printed Jerry』『包』『NEO-N』の5作と匹敵するスタジオ盤4作(後述のファー・イーストも純粋なオリジナル・アルバムは前身バンド・ファーラウトで1作、ファー・イースト発展後は3作です)を残したコスモス・ファクトリーは、SRCを思わせる'60年代オルガン・ロック的センスの古さ、オリジナリティの弱さ、ヴォーカルや楽曲・アレンジのすべてにおいて指摘できるサウンド全体の鈍重さを相殺しても、なお健闘したバンドと言えます。
ファー・イースト・ファミリー・バンド - 地球空洞説 "The Cave" Down To The Earth (日本Columbia/MU-Land, 1975 .8. 25) :  

 しかし同時代の日本において、もっとも類を見ない異色のプログレッシヴ・ロックを演っていたのは、1970年にはライヴ活動を始めていたファー・イーストの前身バンド、ファーラウトで、当初ファーラウトは「日本のMC5」と呼ばれるほどの徹底したヘヴィ・サイケデリック・ロックを演奏するバンドとして出発しています。リーダーの宮下フミオ(のち文夫、富実夫, 1949-2003)は生粋の日本ヒッピーであり、やがてヒッピーイズムの徹底によって精神世界を追求するサウンドにたどり着きました。映画監督・文化人の羽仁進の長女でサブカルチャー層のアイドル少女・羽仁みお(未央)の企画アルバムのバックバンドを勤めたあと、本格的なファーラウトのデビュー作『日本人』は日本コロンビア/DENONの現代音楽部門から発表され、ヘヴィ・ロック的側面は効果的に残したまま、AB面各1曲、ムーディー・ブルース(特に『夢幻 (On The Threshold Of A Dream)』1969)とピンク・フロイド(特にアルバム『おせっかい (Meddle)』1971)の影響は感じられますが、日本のサイケデリック・ロック~スペース・ロック~プログレッシヴ・ロックの大傑作になりました。楽曲こそ古典的な「朝日のあたる家」「朝日のようにさわやかに」「ウォーク・ドント・ラン」「サテンの夜」系の単純な短調の4コード循環ですが、英語詞のヴォーカルによるヘヴィなサイケデリック・ロックにスペーシーなエフェクト、夭逝の天才ギタリスト左右栄一の万華鏡のようにフリーキーなギター、声明や読経のパートまでがAB面とも各20分近い大曲の中で展開する、目眩感にあふれ緊密に構成された完璧なアルバムです。バンド名もタイトルもなし、シアンをバックにロープに洗濯ばさみで吊された軍手のジャケット、しかもぶっ飛び(Far Out)と言う名のバンドの『日本人』というアルバム・タイトルも、ロックのレコード・ジャケットとしてはヴェルヴェット・アンダーグラウンドのバナナ、ピンク・フロイドの見返り乳牛、ロキシー・ミュージックの年増美女、デイヴィッド・ボウイの公衆電話、ジョイ・ディヴィジョンのパルサー電磁波に並ぶ最高のポップ・アートです。しかし当時このアルバムの真価はほとんど認められず、ファーラウトは解散を余儀なくされ、宮下は臨時編成の「宮下文夫グループ」で2年間コンセプトを温めながら、専任キーボード奏者二人を含み11台のキーボードを駆使する「Mental Phase Sound」を標榜したスペース・ロックの究極的バンド、ファー・イースト・ファミリー・バンドを世界的活動を視野に入れて立ち上げました。オリジナル・メンバーは宮下文夫(ヴォーカル、ギター、キーボード、エレクトリック・シタール)、福島博人(ギター)、伊藤明(キーボード、ギター)、高橋正則(キーボード)、深草彰(ベース)、高崎静夫(ドラムス)の6人です。この頃には宮下はファーラウト時代からの「日本人」を意識した原初日本のオリエンタリズムを最新テクノロジーを駆使したスペース・ロック組曲で実現するという、やはりムーディー・ブルースの『童夢 (Every Good Boy Deserves Favour)』1971やピンク・フロイドの『狂気 (The Dark Side of the Moon)』1973の組曲構成に倣った作風ですが、宮下はより先鋭的な電子音楽との融合を求めて西ドイツの電子音楽系ロックに着目します。ファー・イーストとしての再デビュー作のトータル55分の力作『地球空洞説』は日本コロンビアの大々的バックアップでファー・イースト専門レーベルの「MU-Land」レーベルの設立と潤沢な予算、豪華な変形ジャケットで国際進出を狙って制作・発表され、バンドはアルバムの発表前の1975年春にドイツでの配給元であるドイツ・フォノグラムのジャーマン・ヴァーティゴ・レーベルとの契約のために西ドイツに渡り、ドイツの聴衆の反応を知るために小規模な西ドイツ内ギグを行い、ハンブルグ公演の際にフォノグラムを通してドイツ電子音楽系ロックの立役者クラウス・シュルツェ(1947-)と出会います。


ファー・イースト・ファミリー・バンド - ニッポンジン NIPPONJIN - Join Our Mental Phase Sound (Phonogram Germany/Virtigo, 1975 : 日本Columbia/MU-Land, 1976. 8. 25)

 シュルツェはフランスで大ヒット作となるソロ・アルバム第5作『タイムウィンド (Timewind)』のリリース直前にあり、シュルツェ・フォロワーのバンドから次々とデモ・テープを寄せられ、そのうちのイルリヒト(シュルツェのソロ第1作からバンド名を採っていました)を前座に『タイムウィンド』発売に伴うフランス・ツアーを計画していたところでした。つまり宮下文夫は、まだシュルツェの人気が本国西ドイツとフランスにとどまっていた1974年のソロ第3作・第4作の『ピクチャー・ミュージック (Picture Music)』『ブラックダンス (Blackdance)』の時点で、早くもプロデューサーとしてシュルツェに目をつけていた、ということになります。この慧眼とそれを実現させた宮下には驚嘆します。フォノグラムからすでにファーラウトの『日本人』とファー・イーストの『地球空洞説』のテープをデモ・テープとして渡されていたシュルツェは、おそらく宮下の意図通りオリエンタリズムとスペース・ロックの融合にヒッピー的な共感とシュルツェ自身は不可能なスペース・ロックの日本的展開に瞠目し、この「Great Japanese Band」(とシュルツェ自身がプロデュース後に自作の自筆ライナーノーツで書いています)の「First Album」(シュルツェが『日本人』とまだ日本でも未発売だった『地球空洞説』をデモ・テープとして聴かされていたか、ファーラウト時代の『日本人』をインディー・レーベル作品と認識していたことを示します)、西ドイツ盤『NIPPONJIN - Join Our Mental Phase Sound』のプロデュース(実際には宮下との共同プロデュース)、再録音の協力と最終的リミックスのために、『タイムウィンド』、また『地球空洞説』発売直前の1975年8月に東京にやってきます。『日本人』のB面曲と『地球空洞説』からヴォーカル曲2曲を割愛し、全編日本語詞の『地球空洞説』の一部を新たに英語詞に差し替え、ファー・イーストの現メンバーとシュルツェによって再録音され、全面的にシュルツェのリミックスに仕上げを任せた、やはりトータル55分もの大作『NIPPONJIN』は西ドイツ・フォノグラム傘下のジャーマン・ヴァーティゴ盤をオリジナルとし、イタリア、ブラジル、ニュージーランドの各国ヴァーティゴ盤も同時リリースされ、宮下文夫の、またのちに喜多郎と改名してソロ活動に転じるキーボード奏者高橋正則の、国際デビュー作になりました。この国際デビュー作の成功と手応えから、宮下はさらに潤沢な予算を日本コロンビアから勝ち取り、1975年の11月から12月にかけてバンドのメンバー、家族、スタッフと自前の機材すべてとともにロンドンに渡り、アイランド・レコーズやヴァージン・レコーズら当時最先端を行くアーティストが使用する設備を備えたマナー・スタジオで、ロンドンに招いたクラウス・シュルツェの全面的プロデュースの下、純粋なファー・イーストのオリジナル・アルバムとしては2作目、再録音とリミックスによる『日本人』と『地球空洞説』からの国際デビュー作『NIPPONJIN』を入れれば3作目、ファーラウト時代から数えれば4作目(全面的にバックバンドを勤めた羽仁みおの企画アルバム『Mioと11ぴきの猫』を加えれば5作目)の畢生の大作『多元宇宙の旅 PARALLEL WORLD』を、1975年11月15日~12月5日の20日・三週間をかけて録音します。


ファー・イースト・ファミリー・バンド - 多元宇宙の旅 PARALLEL WORLD (日本Columbia/MU-Land, 1976. 3. 25) :  

 当初からシュルツェの全面的プロデュースによって制作された『多元宇宙の旅 PARALLEL WORLD』はシュルツェのアルバムのようにヴォーカル・パートがほとんどなく、またシュルツェ自身の作品と較べても音色の多彩さ、バンド編成ならではのパーカッシヴなアプローチによるトータル80分・LP2枚組相当のマスターテープが完成されましたが、ここで日本コロンビア側が2枚組アルバムとしての発売に難色を示したために、止むなくAB面各30分・トータル60分とシングル・アルバムとしては収録時価の限界の分量(これはシュルツェやファー・イーストのほとんどのアルバムもそうでした)まで短縮再編集されて日本国内リリースされました。LP3面分の豪華カラー・ポスターつきの贅沢な仕様でしたが、イギリス本国ヴァーティゴ盤での同時リリースとさらなる本格的国際進出を期待されていたこのアルバムは、ヴァーティゴ・レーベル自体の経営難と縮小から国際リリースを見送られてしまいます。シュルツェにとっては第6作『Moondawn』1976の構想と並行して進められ(『Moondawn』はシュルツェが始めて専任ドラムス奏者を起用したアルバムになり、『多元宇宙の旅』のプロデュース経験を活かしたアルバムになりました)、また『Moondawn』からシュルツェ作品のイギリスでの配給元がそれまでのヴァージン・レコーズ傘下のキャロライン・レーベルからアイランド・レコーズに移ったため、『多元宇宙の旅』の制作中にシュルツェを訪ねてきたアイランドの国際的日本人アーティスト、ツトム・ヤマシタによる「GOプロジェクト」への参加要請を受けて引き続き1976年初頭からイギリスで『GO』の制作に参加することになります。しかしファー・イーストにとってもプロデューサーのシュルツェにとっても渾身の勝負作『多元宇宙の旅 PARALLEL WORLD』は、あまりに潤沢な予算にもかかわらず国際的リリースが見送られたばかりか、おそらく誇大広告が裏目に出てしまいセールス的にも批評的にも日本コロンビアの期待した成功に届かなかったので、ファー・イースト/MU-Landレーベル自体が予算を縮小されてしまいます。バンドは日本国内でのライヴ活動も縮小を余儀なくされ、伊藤明(キーボード、ギター)、高橋正則(キーボード)、高崎静夫(ドラムス)の3人が脱退し、宮下文夫(ヴォーカル、ギター、キーボード、エレクトリック・シタール)、福島博人(ギター)、新ドラマーに原田裕臣(元ミッキー・カーチス&サムライ、ガロ、P.Y.G.、井上尭之バンド、ミッキー吉野グループ、ゴダイゴ)を迎え、深草彰(ベース)はサポート・アクトとしてのみ残留します。
ファー・イースト・ファミリー・バンド - 天空人 Tenkujin (日本Columbia/MU-Land, 1977. 11. 25) :  

 ファー・イーストの最終作『天空人 Tenkujin』は宮下自身の尽力でジャケット・アートをヴァージン・レコーズと並ぶプログレッシヴ・ロックのレコード会社カリスマ・レコーズでジェネシス、ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレーター、リンディスファーン、ピーター・ハミルなどのアートワークを手がけてきたポール・ホワイトヘッドに依頼し(ホワイトヘッドはファー・イーストの盟友バンド、クロニクルの国際発売盤『今は時のすべて (Like A Message From The Stars)』1977のジャケット・アートも同時に手がけました)、さらに宮下夫人のリンダ宮下の作詞・マネジメント協力の元リンダ夫人の郷里のロサンゼルスに活動の拠点を移します。『天空人』はAB面トータル34分と、アナログLP時代のアルバムとしては十分ながら、これまでのファーラウト~ファー・イーストのアルバムではもっともコンパクトなアルバムになりました。キーボード奏者がヴォーカリストの宮下一人になったため、このアルバムではシンセサイザー・シークエンサーがリズム・トラックに全面的に押し出された点にシュルツェから学んだ新たな展開が見られます。同作のシークエンサー使用はイギリスのニューウェイヴやエレクトリック・ポップに先駆けた、しかしアルバム全体の充実感や完成度ではこれまでの宮下のアルバムでは創作力の低下を感じさせるものでした。ロサンゼルスに拠点を移したことで同作はアメリカのインディー・レーベルAll Ears Recordsから、また西ドイツのアリオラ・レコーズからの国際発売を果たし、おそらく翌1978年にジャーマン・アリオラからデビューしたイギリスのバンド、JAPANのデイヴィッド・シルヴィアンのシークエンサー使用は直接本作にヒントを得たものと推測されます。
ファー・イースト・ファミリー・バンド - 未知の大陸~時代から (Live, 1976) :  

ファー・イースト・ファミリー・バンド - 時代から~氷神~心山河~地球空洞説 (Live at 増上寺, 1976) :  

 ファー・イーストのアルバムは、日本ではYMOのブレイク以降テクノポップの先駆としてジャケットを改竄され新装再発売されましたが、おそらくテクノポップを期待して購入したほとんどのリスナーはレコード会社に欺された思いだったでしょう。日本コロンビアとの契約を『天空人』で終了した宮下は、1979年のアメリカ盤『天空人』の新装リリースまでクロニクルのメンバーと合流しながらファー・イーストの活動を続けましたが、1978年以降はすでにニューエイジ・ミュージックへの傾斜が見られ、1980年のテレビ出演を最後にバンドを解散し、以降は帰国して宮下富実夫と改名してソロ・アーティストとなり、琵琶湖湖畔に自宅スタジオを構え、没後発表のアルバム、コンピレーション盤を含めて2003年の逝去まで140枚以上ものヒーリング・ミュージック=ミュージック・セラピーの音楽家になりました。宮下逝去後の2007年、イギリスのミュージシャン・音楽批評家ジュリアン・コープによって1970年代までの包括的な戦後日本のロック史『ジャップロック・サンプラー (Japrock Sampler)』が刊行され、コープは『多元宇宙の旅』を日本のロックのベスト・アルバム4位(1位・フラワー・トラベリン・バンド『SATORI』、2位・スピード、グルー&シンキ『イヴ -前夜-』、3位・裸のラリーズ『Heavier Than A Death in The Family』、5位・J.A.シーザー『国境巡礼歌』)、ベスト50内にファーラウト~ファー・イーストの(『天空人』を除く)全アルバムを選び、ベスト5のアーティストにはすべて詳細な一章ずつを割くとともに宮下・ファーラウト~ファー・イーストを日本のロックを総括する最終章に位置づけました。同書の刊行以来欧米ではコープによる再評価が日本の'60年代~'70年代ロックの決定的評価として定まり、すでに200枚以上の発掘音源が流通している裸のラリーズ~水谷孝とともにロック時代の宮下文夫の発掘音源はもっとも期待されていますが、宮下の遺族側も日本国内のリスナー、レコード会社もファーラウト~ファー・イーストの発掘音源のリリースの動きはありません。初期ファーラウトから後期ファー・イーストまでの全時期の未発表スタジオ音源、ライヴ音源が発掘されるのを望んでいるのはむしろ欧米のリスナーです。せめて今日'70年代ロックの決定的名盤として世評の高い『多元宇宙の旅』のオリジナル80分マスター、またサイケデリック的評価ではファー・イースト時代より人気の高いファーラウトの未発表スタジオ音源・ライヴ音源が発掘されたら日本より欧米での反響が期待されるだけに、宮下の54歳の早逝が惜しまれます。筆者は1989年のファーラウト『日本人』、ファー・イースト『地球空洞説』の初CD化以来ジャックス、ドアーズ、キング・クリムゾンも色褪せ、この2枚ほど飽きることなく聴き続けてきたロックのアルバムはラヴ、ザ・シーズ、13thフロア・エレベーターズ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、トラフィック・サウンド(ペルー)、オザンナ、カンとSPKの初期作品くらいしかありません。今日ファーラウト~ファー・イーストのアルバムは、日本盤CDよりもヨーロッパ製の輸入盤復刻CDの方がロングセラーを続けて入手しやすいほどなのです。
ファー・イースト・ファミリー・バンド・ライヴ (Live in Los Angeles, 1978) :