テレンス・デイヴィス・トリロジー(BFI, 1976, 1980, 1983) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

テレンス・デイヴィス・トリロジー(BFI, 1976, 1980, 1983)
テレンス・デイヴィス・トリロジー The Terence Davies Trilogy (BFI, 1976, 1980, 1983) 



 この短篇映画三作からなるオムニバス映画『テレンス・デイヴィス・トリロジー』は日本劇場未公開作で、日本では1980年代末か1990年代初頭に市ヶ谷のイギリス文化会館(British Institute)で1回のみ上映されました。その上映記録を調べましたがサイト上での文献が見当たらない代わり、日本劇場初公開となったテレンス・デイヴィス(1945-)の監督作品の第一長篇『遠い声、静かな暮らし』(Distant Voices, Still Lives, BFI, 1988)が六本木のシネ・ヴィヴァンで公開されたのはキネマ旬報の映画データベースによると1989年12月9日となっているのを確認しました。しかし筆者は先に『テレンス・デイヴィス・トリロジー』を観てこの映画監督を知り、『遠い声、静かな暮らし』の上映を情報誌による配給会社別外国映画年間上映予定リストで1年前から楽しみにしていたので、1988年には『トリロジー』を観ていたはずです。また文化会館上映された同作は商業映画誌には上映データも批評も載らず、筆者の目についたのは、当時の情報誌「シティロード」に連載されていたゲイ文化の紹介コラムで、ブロードウェイのヒット演劇を映画化したアメリカ映画『トーチソング・トリロジー』との比較で「今日的なゲイの生き方を明るく肯定的に描いた『トーチソング・トリロジー』と較べて、腹立たしいほど暗く自虐的なステロタイプのゲイ像を描いた『テレンス・デイヴィス・トリロジー』」という上映直後の酷評で、同作も筆者は2本立て二番館で観ていますが、こちらはキネマ旬報のデータベースでは東京テアトル1989年12月16日公開となっています。筆者の記憶では『トーチソング~』とテレンス・デイヴィス作品を観たのはほぼ同時期で、それから「シティロード」誌のコラムを読んで「ステロタイプの自虐的ゲイ像」というのは評価の基準が違うだろう(むしろ「ステロタイプのゲイ像」に囚われているのはゲイを自称するそのコラムニストだろう)と反感を感じ、待望の『遠い声、静かな暮らし』を公開初日に駆けつけて観たのはそれからずっと後、と記憶しているので、キネマ旬報データベースに記録された公開日や「シティロード」に載っていたコラム内容ともども時系列的矛盾が生じます。筆者がイギリス文化会館での「日本未紹介監督」テレンス・デイヴィス作品の上映を知ったのも「シティロード」誌の非商業施設上映映画情報なら、先のコラムを読んだのも、配給会社別外国映画年間上映予定リストで『遠い声、静かな暮らし』の日本公開予定を知ったのも「シティロード」誌なので、同誌のバックナンバーを照合するなりイギリス文化会館に問い合わせるなりすれば『テレンス・デイヴィス・トリロジー』の上映年月日が判明するはずですが、何しろ昔のことなので古雑誌も処分してしまっていれば詳細につけていた日記も探し出せず、イギリス文化会館にも記録は残っていないかもしれません。

 しかし筆者の記憶ではアメリカ流の人情映画『トーチソング・トリロジー』(このタイトルのトリロジーは、演劇由来の原作で三部構成であることから来ています)などすっかり忘れ果てていても『テレンス・デイヴィス・トリロジー』は細部まで記憶が鮮やかなので、テレンス・デイヴィスの初期作品はのちに4枚組DVDボックスセット『The Terence Davies Collection』(BFI, 2009)に集成されましたが、観直してみたら短編映画三部作・1時間37分の隅々まで記憶に残っていたのは自分でも驚かされました。この映画を観ることは映画鑑賞にとどまらない、強烈なひとつの体験です。観ることが体験そのものになるほどの強度を持った映画が他にいくつ数えられるかは人によって違うでしょうし、映画にそうした感覚を持たない方もいらっしゃるでしょう。通常映画とは娯楽を目的とした消費物であり、視覚的アトラクションの提供だけに機能を働き尽くしています。それは映画として正当なあり方でもあり、観客にとっても正当でしょう。しかし以前ご紹介したベルギー出身のインディー女性映画監督、シャンタル・アケルマン(1950-2015)、先日ご紹介した西ドイツ出身のインディー映画監督ヴェルナー・シュレーター(1945-2010)の初期作品は観ることが体験そのもの、といった特質があり、シュレーターやアケルマンと同世代のイギリスのリヴァプール出身のインディー映画監督、テレンス・デイヴィスの映画もまた観客をして映画そのものの成り立ちに立ち会ったかのような訴求力を備えます。デイヴィスの優れた作品はいずれも自伝的で地味なリアリズム的内容ですが、その訴求力は共感やメッセージ性、告白的性格とは一見似て非なるもので、見始めた観客はすでに映画が現前するただ中につき落とされるのです。
 デイヴィスの経歴、諸作についてはまた別の作品をご紹介する際に譲ります。1976年に「子供たち」(Children)、1980年に「聖母子」(Madonna and Child)、1983年に「死と変容」(Death and Transfiguration)と自伝的短篇映画三篇に渡って発表されたデイヴィスの処女作『テレンス・デイヴィス・トリロジー』は完結とともに三部作のオムニバス映画としてまとめられました。16mm、B&W、スタンダードサイズと、デイヴィスが就学生となったBFI(British Film Institute)の、すでに30代になってから8年あまりをかけた履修課程作品ですが、この『トリロジー』によってデイヴィスはBFIから第一長篇『遠い声、静かな暮らし』の製作資金を認められます。デイヴィスの映画はほとんど台詞がなく、多くは固定ショットとゆったりとしたトラヴェリングで構成され、キャラクター、プロット、ストーリーも映像だけで伝わってくるものですが、それでも英語の台詞が聴きとれず無字幕で何のインフォメーションもないと初見の観客には取っつきづらいかもしれません。そこで以下はいわゆるネタバレになりますが、三部作の一篇ずつを解説していくことにします。なおデイヴィスがランカシャー州リヴァプール町のケンジントンでカトリックの労働者階級家庭の10人兄姉の末っ子として生まれ育ち、思春期からゲイを自覚して苦しみ無神論者となり、20代いっぱいを一般事務職のかたわら苦学してようやく映画学校に入った経歴は、やはりゲイ(バイセクシャル)ながら裕福な家庭、経済力と周囲の理解者に恵まれ、10代末にはインディー映画界に入ったシュレーターやアケルマンとはだいぶ異なると前置きしておきましょう。





 デイヴィスの『トリロジー』は、ロバート・タッカーというデイヴィス自身をモデルにしたゲイの主人公の思春期(「子供たち」)から壮年期(「聖母子」)、さらに想像上の死(「死と変容」)までを描いた作品です。いわばデイヴィス版「トニオ・クレーゲル」「ヴェニスに死す」でもあれば、『仮面の告白』でもあるようなもう一人のデイヴィスの生涯を三つの短篇を通して描いています。「子供たち」は学校の裏庭で弱々しい少年が同級生たち(12、3歳くらいです)にいじめに遭っている光景から始まります。同じくらいの年齢の少年を主人公としたトリュフォーの『大人は判ってくれない』とは比較を絶するほど残酷です。教師がやってくると同級生たちはそしらぬ顔をし、教師はいじめられていた少年に体罰を下します。そうした学校の情景に、よろよろと歩いて行く中年男の光景が交差します。中年男は医院を訪ね、抗欝剤を処方されていますが、医師は診察しながら「まだ女が苦手なのかね」と尋ねます。再び学校の情景に戻ると、プールの授業を終えてシャワー室でシャワーを浴びる生徒と体育教師が映り、主人公の少年はブリーフ一枚で上半身を洗い、ブリーフに手を入れて股間を洗う体育教師の裸体に目がくぎ付けになり、唇を震わせます。帰宅して母に甘える少年。そしてバスに乗る母子の姿が映ると、母はバスの中で突然号泣します。直後に少年の父らしき男が腹部を押さえて悶え苦しんでいる姿(重篤な末期症状を暗示したものでしょう)が映り、再び学校の情景や、中年男の主人公がよろよろと医院からの帰り道を歩いてくる長いショットが続きます。この短篇の時制は全体が中年男になった主人公の脳裏に映るフラッシュバックか、少年時代の主人公と中年になった主人公の映像を対比・関連させて描いたものか判然としないまま始終するのですが、主人公を抑圧する戦後リヴァプールの陰鬱で荒涼とした雰囲気がひしひしと伝わってきます。デイヴィスは事務員として働きながら「子供たち」の脚本を書き、それを提出してBFIへの入学を果たしたそうで、この短篇では戦後イギリス映画の一方の主流となっていた労働者階級映画の反映が見られます。それにしてもデイヴィスはジョン・レノンより5歳、ポール・マッカートニーより3歳年下ですが、この映画の荒涼としたリヴァプールはとてもビートルズを生んだ町とは思えないほどです。







 デイヴィスがBFIで卒業製作として作ったのが第二部「聖母子」で、ここで初めてカトリック信仰への懐疑と抑圧下のまま成人した主人公の母親依存とホモセクシュアルへの傾倒が明確に描かれます。また音声と映像が異なる次元で交差する手法が導入されます。映画は都市部への事務所にフェリーで通勤する主人公が号泣しているシーンから始まります。主人公は店の前で煙草を吹かす腕一面刺青だらけのマッチョの刺青師に目をとめ、刺青師に勃起した性器に刺青をしてほしいと電話で依頼します。刺青師は勃起した性器に刺青するのは時間もかかる、嫌な仕事だから高くつくと渋りますが、この会話の最中に映像はカトリック教会の祭壇を舐めるように映し、背景にブルックナーのミサ曲が流れます。また主人公は教会に懺悔に行きますが、懺悔は無内容かつ形式的で、「罪深い私を神は救ってくださるでしょうか」とまるで真剣味のない、惰性で行っているような懺悔です。懺悔の声が続く間に映像は公園のトイレに入る主人公の姿に切り替わり、隣り合った小便器で用を足す男と目を合わせ手を握ると、背中姿の男の前に回りひざまずいてフェラチオを始めます(もちろん男の背中にさえぎられて行為自体は見えません)。その間も教会の告解室で懺悔している声は続いています。タイトル通り病床の老いた母に寄り添う主人公の姿もしきりにインサートされ、主人公がひとりぼっちでいるシーンでは主人公はしばしば号泣します。カトリック信仰に救いを求めてもゲイとしての欲求が止むことはなく、職場でも孤立し友人もなく、母の死の予感に絶望する主人公の姿が時系列もシャッフルされ、因果関係の説明的シーンもなく、さらにサウンドと映像の違和が主人公のオブセッション、ジレンマ、母親の喪失への予感をひしひしと感じさせる、映像そのものはリアリズムなのにすでに労働者階級映画の域を越えた痛切な短編になっており、これを暗く自虐的なステロタイプのゲイ像として指弾するのは明らかに筋違いです。どれだけデイヴィス自身の私生活でのエピソードが採りいれられているのかはわかりませんが、デイヴィス自身の精神的危機が冷徹に、切れば血のにじむような切実さを持って描かれている短編として、「子供たち」と連続する強烈で痛切なリアリティがあります。




 BFIを卒業してスタッフとして働いていたデイヴィスの前2作品に目をつけ、外部スポンサーを得てBFIで製作されたのが三部作の完結編「死と変容」です。「子供たち」「聖母子」が断片的ながらも完成度のたかい独立した短篇映画として観ることができるのに対し、「死と変容」は前2作の納得のいく完結編ながら、「子供たち」「聖母子」を観ていないと単独した短篇映画として観るのは困難な作品です。映画はクリスマスの日に老人ホーム兼病院に収容された、すでに死相の出ている老人の長いショットから始まります。おそらく本当に高齢な末期患者を起用していると思われ、タイトル通りその死までを描くのですからキャスティングからして尋常ではありません。観客も見始めてすぐにはこの瀕死の老人が主人公とは気づきません。ベッドに横たわる老人にかぶって少年時代の主人公の声が聞こえ、また眠る主人公の映像からカメラのトラヴェリングで、看護婦が飾りつけるクリスマス・ツリーや天使の衣装を着た少年たちの祝いが挟まれ、再び横たわる老人へと映像は移り、子供たちの歌う聖歌が流れる中、老人の朦朧とした意識に少年時代、中年~壮年時代のさまざまな映像断片(おそらく「子供たち」「聖母子」のラッシュ・フィルムから、完成作では割愛された部分)がたびたび挿入使用され、観客はようやくこの老人の姿を「子供たち」「聖母子」の主人公ロバート・タッカーの臨終なんだな、と悟ります(その前2作からのインサート・ショットの多さが、本作を三部作の完結編にはふさわしくも単独の短篇として観るには難がある作品にしていますが)。また「聖母子」の老母はすでに亡くなっているのが触れられ、老母の死は本来は同作で主人公の母の死が撮影されながらも、テーマの力点・ドラマツルギーの排除から、あえて具体的に老母の逝去が描かれたシーンは割愛されたとわかります。「聖母子」で主人公が号泣する場面が頻出したのは高齢の老母の健康不安だけではなかったのです。そしてこの「死と変容」は、意味の上でも映像とかみ合わない断片的な音声や音楽、リアリスティックであってもあまりに断片的すぎて拡散と集中をくり返すイメージが、ゆるやかなトラヴェリング・ショットとともに過去でも現在でも未来でもなく、またすべてが同時であるような状態が到来し、B&W映像ならではの、露出が徐々に上がり完璧な純白に達する光の中に主人公の姿は消えていきます。デイヴィスは以降の長篇映画でこれらの技法をさらに徹底化していきますが、その出発点として本作『テレンス・デイヴィス・トリロジー』はもっともストレートな情感を湛え、処女作ならではのみずみずしさと、思春期から想像上の死まで描ききった、この一作にこめられた燃焼感において追従を許さない傑作です。唯一難を言えばユーモアの欠如、ブラックでシニカルなエピソードはあっても悲痛さの方が強く、大らかさに欠けることですが、長篇第一作『遠い声、静かな暮らし』ではそのあたりも細やかに配慮されているので、本作にあってはそれを不足とするのは当たらないでしょう。