小野十三郎「フォークにスパゲッティをからませるとき」昭和64年(1989年) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

小野十三郎・明治36年(1903年7月27日生~
平成8年(1996年)10月8日没、享年93歳
(1990年『小野十三郎著作集』刊行時・87歳)
詩集『いま いるところ』
浮遊社・昭和64年(1989年)7月7日刊
『小野十三郎著作集』全三巻・筑摩書房
(平成2年=1990年)9月・12月・平成3年=1991年)2月刊
第二巻(平成2年=1990年12月刊)所収

フォークにスパゲッティをからませるとき
小野十三郎

時間がたつのがおそい。
言葉が先に進む。
そこで時間が来るのを待つ。
また、詩を書いている。
やってきた友は
病気は治らないなと云う。
治そうとは、おれは思わない。
病気だから書ける。
健全な詩を書いている人はたくさんいる。
その仲間入りをしようとは思わない。
第一、健全な詩はない。
みな、病気である。
持っているものは、なにだろう。
たぶん、それはあなたにも関係がある。
うまい朝食を食っておれはいま帰ってきた。
今日はスパゲッティだった。
あなたもどこかで
いま、うまい朝食を食っているだろう。
フォークにスパゲッティをからませる感覚が
おれは好きだ。

(詩集『いま いるところ』浮遊社・1989年7月刊より)

 93歳の長老をまっとうした大阪生まれの詩人・小野十三郎(1903-1996)晩年の第21詩集『いま いるところ』(1989年7月刊)より。この詩は以前にもご紹介しましたが、大好きな詩なので、今回は八木重吉の詩はお休みして再度ご紹介したいと思います。前詩集『カヌーの速度で』'88(昭和63年7月刊)と本詩集の間、1988年12月に、小野十三郎は昭和6年(1931年)に結婚し60年あまりをともにした夫人を亡くし、寡夫となりました。夫妻には6人の子息子女がおりましたが、すでに成人して独立した家庭を築いていたので、夫人の逝去後に小野十三郎は老齢の一人暮らしを始めることになります。夫人は亡くなる四年前から言語と歩行に支障を来し、晩年一年は夫の十三郎が介護をやむなくされたので、『いま いるところ』は夫人の逝去前後半年を中心にした80代半ばの寡夫となっ小野自身の一年間の生活の変化と夫人への喪失感、その一年間に相次いだ小野と同世代の50年来の友人たちの逝去を追悼する回想と哀悼の詩を中心に編まれています。

 この時期に亡くなった同年輩の詩友、草野心平(1903-1988)、秋山清(1904-1988)、藤沢桓夫(1904-1989)らは小野がまだ20代のプロレタリア詩人だった頃からの、半世紀あまりの交友になる旧友でした。『いま いるところ』の跋文は詩集刊行の前月(1988年6月)に逝去した藤沢桓夫の遺稿になったものです。長生きも寂しいもので、小野は晩年まで後輩の詩人たちからの敬愛を受け続けていましたが、小野よりやや若く20代からの詩友だった天野忠(1909-1993)、永瀬清子(1906-1995)、田木繁(1907-1995)らも小野より先に亡くなり、同年輩の旧友では伊藤信吉(1906-2002、三好達治とともに萩原朔太郎の秘書を勤めていたとんでもない長老詩人でした)だけが小野の最晩年までを看取ることになりました。80代を越えてなお最晩年まで現役感を誇った現代詩の詩人は西脇順三郎(1894-1982)、金子光晴(1895-1975)、北川冬彦(1900-1990)、岡崎清一郎(1900-1986)、高橋新吉(1901-1987)、草野心平(1903-1988)がおりますが、西脇は80歳で新作の詩作を辞めて事実上引退しましたし、金子光晴は未完詩集の途中で逝去し、北川冬彦は寡作に、草野心平は作風の転換はなく、高橋新吉は例外的な詩人とされ、もっとも奔放な作風の岡崎清一郎は郷土詩人としていまだに見過ごされがちです。いずれも全詩集が読み継がれてしかるべき詩人ですが、20世紀の日本の現代詩を最後まで代表した詩人こそが大正・昭和・平成の三代に渡って新作詩集を創作・発表した小野十三郎(と、戦後詩では鮎川信夫、石原吉郎と吉岡実)という見方をしてもいいでしょう。

 小野が数年来の禁煙を止めて気ままに夜間外出を始めたのも夫人逝去後で、相次ぐ旧友たちの逝去もあり、おそらく開放感と晩年意識が一気に詩人に訪れたのでしょう。この間の詩作への切迫力と創作力の高まりは85~86歳の高齢にして前詩集から1年の間に60篇もの新作からなる詩集を上梓したことにも表れています。小野十三郎の単行詩集は大正15年(1926年)10月刊の第1詩集『半分開いた窓』から、既刊21冊の詩集に詩集未収録詩編を多数集成した全3巻の全集『小野十三郎著作集』1990-1991のあと生前最後に編まれた平成4年(1992年)7月刊の第22詩集『冥王星で』(伊藤信吉が跋文を寄せています)まで68年に及びますが、正味1年間に集中して書かれた詩作からなる詩集は『いま いるところ』が唯一です。
 
 全集刊行完結後の1992年から老齢の小野は要介護者になり、90歳を迎えた翌1993年からは寝たきりで年1度車椅子で外出できる程度になり、1995年1月の阪神大震災では難を逃れましたが、翌1996年10月に老衰で逝去しました(享年93歳)。90代にはさすがに詩作も途絶えましたが、夫人逝去後から数年、80代後半の詩人は毎朝の散歩がてら喫茶店で朝食をとるのを楽しんでいた様子が詩集中数篇の詩にうかがえ、この「フォークにスパゲッティをからませるとき」は二十歳の時から70年近く詩を書いてきた老詩人だからこそ重みのある円熟した詩でもあれば、詩人86歳の作とは思えないくらいしなやかで生々しく、簡潔で無駄も余剰もなく、いつ読んでも(たとえ憂鬱な月曜の朝であっても)みずみずしい詩です。詩作そのものを詩のテーマにしながら理に落ちず、大正時代から優れた詩を書いてきた小野十三郎の詩が平成改元直前にあってもまったく古くさくなく、この詩の発表から30年あまりを経ても最新の現代詩として読んでもまったく遜色ないのは、現在の詩の実作者の方々にもぜひ(30年経っても古びない詩を85歳を越えて書けるか、と)注目していただきたいところです。同詩集から、やはり朝の喫茶店に材をとった次の詩も同趣向の詩ですが、「フォークにスパゲッティを~」には及ばずとも、やはり鮮やかな一篇です。凡手の詩人ならこの二篇を一篇にまとめて語り尽くしてしまい、過剰になるところですが、「フォークにスパゲッティをからませる感覚が/おれは好きだ。」と「レモンのすっぱさから/おれの一日がはじまるのである。」はどちらも一篇の詩を支える強さがあるので、一篇の詩に同居させるとかえって焦点を散らしてしまいます。効果的な一篇の詩には焦点はひとつあればよい、という例としてもご参考いただけるのではないかと思います。

レモンのすっぱさ
小野十三郎

夜が明けて
七時半過ぎに
近くの喫茶店に行く道。
おれは、その時
雑念から解放された気分になる。
言葉はいつも、おれについて廻っているが
いままでになかった
言葉と言葉の関係を
ふいに見つけられそうな気がする。
喫茶店では
おれはいつも最後に
トマトジュースを飲むが
レモンのすっぱさから
おれの一日がはじまるのである。
道はかぎりなく遠い。
そこを歩いているのはおれひとりだ。
世界の果てである。
果てには道がないが
おれの歩いている時間には
それがある。

(詩集『いま いるところ』浮遊社・1989年7月刊より)

※以前掲載した記事を書き直し・再掲載しました。