八木重吉遺稿詩集『貧しき信徒』昭和3年(13)・手稿小詩集の成り立ち | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

八木重吉・明治31年(1898年)2月9日生~
昭和2年(1927年)10月26日没(享年29歳)
長女桃子満1歳の誕生日に。重吉26歳、妻とみ子19歳
 八木重吉没後55年を経た昭和57年(1982年)に初めて刊行された全三巻の『八木重吉全集』によってようやく八木の残した詩の全貌が詳細な書誌とともに明らかにされましたが、昭和2年(1927年)10月の逝去の半年前の同年春に病床で編集され、出版は没後4か月後の昭和3年(1928年)2月になった八木重吉の第二詩集『貧しき信徒』は生前発表詩篇を中心に編纂されており、
 
・大正14年(1925年)4月~12月=62篇
・大正15年(1926年)1月~3月=28篇
・大正15年3月~昭和2年(1927年)の病床ノオトより=11篇(3月分6篇・12月分5篇)
・年代不詳(詩集書き下ろし?)=2篇
 
 ――となり、全103篇中90篇が生前に各種の詩誌・新聞雑誌に発表されていたのが判明しました。詩集『貧しき信徒』収録詩篇の制作時期は第一詩集『秋の瞳』編纂完了後に始まり、晩年2年間の八木重吉の手稿は小詩集(病床ノオト)32冊分に及び、これに1~32と番号を振ると、小詩集25、26は未整理分で、32は生前発表された詩篇中小詩集に出典がないもので、総数では確認されただけでも1,215篇(小詩集17は全編重複により除外)に上ります。以上を再度一覧にしてみましょう。

[ 詩集『貧しき信徒』収録詩篇初出小詩集一覧 ]
1○詩稿 桐の疏林(大正14年4月19日編)詩48篇、生前発表詩4篇、『貧しき信徒』初稿1篇初出
2○詩稿 赤つちの土手(大正14年4月21日編)詩39篇、『貧しき信徒』初稿なし
3○春のみづ(大正14年4月29日編)詩8篇、生前発表詩5篇、『貧しき信徒』初稿なし
4○詩稿 赤いしどめ(大正14年5月7日編)詩32篇、生前発表詩1篇、『貧しき信徒』初稿2篇初出
5○詩稿 ことば(大正14年6月7日)詩67篇、生前発表詩9篇、『貧しき信徒』初稿7篇初出
6○詩稿 松かぜ(大正14年6月9日)詩18篇、『貧しき信徒』初稿なし
7○詩稿 論理は熔ける(大正14年6月12日)詩37篇、『貧しき信徒』初稿なし
8○詩稿 美しき世界(大正14年8月24日編、「此の集には愛着の詩篇多し、重吉」と記載)詩43篇、生前発表詩10篇、『貧しき信徒』初稿11篇初出
9○詩・うたを歌わう(大正14年8月26日)詩27篇、生前発表詩1篇、『貧しき信徒』初稿7篇初出
10○詩・ひびいてゆこう(大正14年9月3日編)詩21篇、生前発表詩3篇、『貧しき信徒』初稿3篇初出
11○詩・花をかついで歌をうたわう(大正14年9月12日編、「愛着の詩篇よ」と記載)詩34篇、生前発表詩6篇、『貧しき信徒』初稿8篇初出
12○詩・母の瞳(大正14年9月17日編)詩24篇、生前発表詩5篇、『貧しき信徒』初稿5篇初出
13○詩・木と ものの音(大正14年9月21日編)詩24篇、生前発表詩1篇、『貧しき信徒』初稿1篇初出
14○詩・よい日(大正14年9月26日編)詩41篇、生前発表詩2篇、『貧しき信徒』初稿なし
15○詩・しづかな朝(大正14年10月8日編)詩40篇、生前発表詩3篇、『貧しき信徒』初稿2篇初出
16○詩・日をゆびさしたい(大正14年10月18日編)詩34篇、生前発表詩7篇、『貧しき信徒』初稿6篇初出
17○雨の日(大正14年10月編、自薦詩集、推定約20篇・現存10篇、既出小詩集と重複)
18○詩・赤い寝衣(大正14年11月3日)詩43篇、生前発表詩5篇、『貧しき信徒』初稿6篇初出
19○晩秋(大正14年11月22日編)詩67篇、生前発表詩3篇、『貧しき信徒』初稿3篇初出
20○野火(大正15年1月4日編)詩102篇、生前発表詩7篇、『貧しき信徒』初稿7篇初出
21○麗日(大正15年1月12日編)詩32篇、生前発表詩6篇、『貧しき信徒』初稿4篇初出
22○鬼(大正15年1月22日編)詩40篇、生前発表詩2篇、『貧しき信徒』初稿2篇初出
23○赤い花(大正15年2月7日編)詩54篇、生前発表詩5篇、『貧しき信徒』初稿3篇初出
24○信仰詩篇(大正15年2月27日編)詩115篇、生前発表詩9篇、『貧しき信徒』初稿9篇初出
25○[欠題詩群](大正15年2月以後作)詩29篇、生前発表詩3篇、『貧しき信徒』初稿3篇初出
26○[断片詩稿](推定大正14年作)詩15篇、『貧しき信徒』初稿なし
27○ノオトA(大正15年3月11日)詩117篇、生前発表詩6編、『貧しき信徒』初稿6篇初出
28○ノオトB(大正15年5月4日)詩19篇、『貧しき信徒』初稿なし
29○ノオトC(大正15年5月)詩5篇、『貧しき信徒』初稿なし
30○ノオトD(大正15年6月)詩24篇、『貧しき信徒』初稿なし
31○ノオトE(昭和元年12月)詩29篇、生前発表詩2篇、『貧しき信徒』初稿5篇初出
32○歿後発表詩篇(原稿散佚分)詩38篇、『貧しき信徒』初稿なし
●貧しき信徒(昭和3年=1928年2月20日野菊社刊)詩集初出詩篇2篇

 この詩集収録作品分布を見ると、詩集『貧しき信徒』の大半は小詩集8「詩稿 美しき世界」(大正14年8月24日編、「此の集には愛着の詩篇多し、重吉」と記載)から始まるのがわかります。大正14年(1925年)8月は同月1日に公刊第一詩集『秋の瞳』が刊行された月でした。八木にまだ健康不安がなかったのが大正14年いっぱいであり、小詩集19「晩秋」(大正14年11月22日編)までがそれに当たります。大正15年(1926年)1月からしばしば風邪をひいて勤めを休みがちだった八木は、3月には正式に結核発症の診断を受け、5月には入院、7月からは中学校の英語教師を休職して逝去までの茅ヶ崎の自宅療養が始まりますが、10月からは発熱の続く絶対安静の重篤状態になり(この年12月に昭和改元)、翌昭和2年春には病床で夫人の手伝いのもと第二詩集『貧しき信徒』を編纂しますが、詩集の刊行を見ず10月26日に逝去します。小詩集20「野火」(大正15年1月4日編)の頃には身体不調を感じ始めたと手稿詩集の内容からもうかがわれ、タイトルつきの小詩集は23「赤い花」(大正15年2月7日編)が最後になり、24「信仰詩篇」(大正15年2月27日編)は115篇もの収録からも当時すでに翌月の結核発症宣告以前に診察を受け、発症宣告の覚悟からそれまでの小詩集未収録詩篇をまとめたものと思われます。

 その後の手稿は25「[欠題詩群]」(大正15年2月以後作)、26「[断片詩稿]」(推定大正14年作)に無題のまままとめられたあと、27「ノオトA」(大正15年3月11日)から31「ノオトE」(昭和元年12月)までで、生原稿が失われているために詩集書き下ろしかどうか確認できない2篇を除くとこれが絶筆になっています。大正15年10月からすでに寝返りも打てないほど絶対安静の重篤状態になっていた八木には、翌昭和2年春までの詩集『貧しき信徒』の収録詩篇(全103篇中90篇が詩誌発表済みでした)の手入れと編纂がせいいっぱいだったでしょう。また八木没後に『貧しき信徒』をみずから自費出版したのは、第一公刊詩集『秋の瞳』を新潮社から刊行(八木の自費出版)するのに口利きをし、『秋の瞳』に序文を寄せた又従兄弟の加藤武雄(小説家・編集者)の尽力によるものでした。結核闘病中の八木にも教育者としての将来性を見込んで、有給休職(勤務中と同じ全額)の厚遇をとった柏中学校校長・吉成翁介とともに、八木の人望がいかに篤かったかが知られるエピソードです。


 手稿詩集としては、24「信仰詩篇」(大正15年2月27日編)から31「ノオトE」(昭和元年12月)はほとんど発表の意図はなく、詩篇として発表し得るもののみが詩集『貧しき信徒』に収録され、また没後に詩誌発表されたものと思われます。そこで、これらの手稿詩集のうちでも、もっとも注目される時期のものが、結核罹患直前から結核発症宣告直前の、

19○晩秋(大正14年11月22日編)詩67篇、生前発表詩3篇、『貧しき信徒』初稿3篇初出
20○野火(大正15年1月4日編)詩102篇、生前発表詩7篇、『貧しき信徒』初稿7篇初出
21○麗日(大正15年1月12日編)詩32篇、生前発表詩6篇、『貧しき信徒』初稿4篇初出
22○鬼(大正15年1月22日編)詩40篇、生前発表詩2篇、『貧しき信徒』初稿2篇初出
23○赤い花(大正15年2月7日編)詩54篇、生前発表詩5篇、『貧しき信徒』初稿3篇初出

 以上の五冊の手稿小詩集になると見なせます。「晩秋」(大正14年11月22日編)からを晩年詩篇の劈頭に置くのは、同小詩集に八木重吉の最高傑作と多くの評者が認める「素朴な琴」を含めた生前詩誌発表・詩集『貧しき信徒』収録の3篇、

 
 
日がひかりはじめたとき
森の中をみてゐたらば
森のなかに祭のやうに人をすひよせるものをかんじた

 素朴な琴
 
この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美くしさに耐へかね
琴はしづかに鳴りいだすだろう
 
 (ひびき)
 
秋はあかるくなりきつた
この明るさの奥に
しづかな響があるようにおもわれる

 --が含まれているからに尽きます。第一詩集『秋の瞳』以降、もっとも充実した詩作が見られるのは小詩集8「詩稿 美しき世界」(大正14年8月24日編、「此の集には愛着の詩篇多し、重吉」と記載)から、小詩集19「晩秋」(大正14年11月22日編)で、この間の手稿小詩集はいずれも八木の後期詩作の佳作を多く含みますが、そのまま全編を刊行してもいいほど安定した優れた詩篇が並び、また『貧しき信徒』に選出された詩篇も多く含む小詩集8「詩稿 美しき世界」(大正14年8月24日)、9「詩・うたを歌わう」(大正14年8月26日)、10「詩・ひびいてゆこう」(大正14年9月3日編)11「詩・花をかついで歌をうたわう(大正14年9月12日編、「愛着の詩篇よ」と記載)や12「詩・母の瞳」(大正14年9月17日編)16「詩・日をゆびさしたい」(大正14年10月18日編)、18「詩・赤い寝衣」(大正14年11月3日)の時期の詩篇は、詩集『貧しき信徒』の中でも第一詩集『秋の瞳』の延長上にある作風を示していると言えます。それが発症直前最後の手稿小詩集「晩秋」には、4行詩「素朴な琴」とともに、第一詩集『秋の瞳』には採られなかった初期の習作期以来の90行もの長詩「明日」も含まれており、同作は八木生前には発表されず没後の遺稿整理によって見出された詩篇ですが、「晩秋」自体が、八木自身の家庭生活を題材とした「明日」以外にも生な信仰告白詩と見なせる、八木の詩としては抽象度の低い、告白性の強い詩篇も目立つ手稿詩集となっています。八木の書き入れによると結核発症宣告の4か月前、大正14年11月22日に編纂されていることになりますが、大正15年1月~2月編纂とされている「野火」から「赤い花」の手稿詩集5冊には明らかに発症宣告に言及した詩篇が混在しており、八木自身による編纂年月日の記載は小詩集をまとめるに際して、詩篇創作時よりも発想時にさかのぼって序列されたと見る方が妥当です。大正14年11月22日編の記載を持つ手稿詩集「晩秋」は、実際には大正14年晩秋の出来事や心境を、大正15年3月の発症宣告前後に創作した詩篇が混在していると推定され、何しろ収録詩篇詩67篇のうち生前詩誌発表詩=『貧しき信徒』収録詩篇が3篇しかありませんから、手稿詩集に収録された作品の実際の執筆時期は作者の八木重吉しか知り得ません。また手稿小詩集18「詩・赤い寝衣」(大正14年11月3日)がまだ健康不安のない時期の八木重吉らしい作風を示しているのに対し、19「晩秋」(大正14年11月22日編)では病状悪化の予感を示して自分の生涯を顧みる傾向の詩篇が現れ、その作風が受診中でほぼ結核発症宣告を受けとめた小詩集23「赤い花」(大正15年2月7日編)まで引き継がれ、24「信仰詩篇」(大正15年2月27日編)以降は明らかに来る死を覚悟した、生々しい告白詩が書かれるようになります。

 詩集『貧しき信徒』は本文の推敲・詩篇の配列とも未定稿に終わっており、必ずしも創作順に配列された詩集ではありませんが(八木の意図ではもっと詩想によってシャッフルされ、刊行時には未編集部分が創作順に配列し直されたと思われますが)、『貧しき信徒』内でも手稿小詩集18「詩・赤い寝衣」(大正14年11月3日)までの『秋の瞳』の作風を受けつぐ作風、手稿小詩集19「晩秋」(大正14年11月22日編)から23「赤い花」(大正15年2月7日編)までの不安と動揺に揺れていた時期の作風、24「信仰詩篇」(大正15年2月27日編)以降の晩年作品の三部に作風が分布していると考えられます。多くは手稿小詩集では無題詩の多かった『秋の瞳』時代の作品に対して『貧しき信徒』では手稿詩集段階でタイトルがつけられた作品がほとんどを占め、これはすでに詩誌発表を意図して創作された詩篇が多いことでもあれば、ことに小詩集19「晩秋」(大正14年11月22日編)から23「赤い花」(大正15年2月7日編)の時期には一篇ごとが絶筆の予感を圧し殺した集中力が働いていたと思われ、24「信仰詩篇」(大正15年2月27日編)から31「ノオトE」(昭和元年12月)までの晩年詩篇ではもはや一篇ごとの完成度よりも告白性が上回って、八木自身の自己観照が生身の形で表れている手稿になっています。それは「晩秋」から表れていた傾向でもあります。手稿詩集19「晩秋」(大正14年11月22日編・詩67篇、生前発表詩3篇、『貧しき信徒』初稿3篇初出)、20「野火」(大正15年1月4日編・詩102篇、生前発表詩7篇、『貧しき信徒』初稿7篇初出)、21「麗日(大正15年1月12日編・詩32篇、生前発表詩6篇、『貧しき信徒』初稿4篇初出)、22「鬼(大正15年1月22日編・詩40篇、生前発表詩2篇、『貧しき信徒』初稿2篇初出)、23「赤い花(大正15年2月7日編・詩54篇、生前発表詩5篇、『貧しき信徒』初稿3篇初出)はこの5冊で詩集『貧しき信徒』収録詩篇103篇の三倍近い289篇を収録し、生前発表・詩集『貧しき信徒』収録詩篇は14篇におよびますが、この5冊の小詩集を手稿型のまま読むことで詩集『秋の瞳』から詩集『貧しき信徒』への作風の転換、また詩集『貧しき信徒』がいかなる底流を秘めていたかを知ることができると思います。次回以降この5冊の手稿詩集を読んでいきたいと思いますが、今回は以前にもご紹介した八木の最長の詩篇に当たる90行もの「明日」(手稿詩集「晩秋」収録)を、再度読み直して、手稿詩集への入り口にすることにします。

 八木としては異例の長詩「明日」が初めて単行詩集に収められたのは草野心平を中心とする「歴程」同人の尽力による昭和17年・山雅房版『八木重吉詩集』で、同書は『秋の瞳』から27篇、『貧しき信徒』から63篇、未発表手稿詩集から110篇が生原稿によって編まれた八木没後初の総合詩集で、裕に2,500篇を越える膨大な手稿詩集から「明日」が収められたのは遺稿の中でも際立った長詩だったからでしょう。この詩篇が書かれたのを大正14年秋とすれば八木重吉は27歳、登美子夫人(1905-1999)は21歳、長女・桃子(1923-1937、享年14歳)は2歳半の幼女、長男・陽二(1925-1940、享年15歳)は生後半年の乳児でした。八木未亡人・登美子は自伝『琴はしずかに』(昭和52年・彌生書房刊)で「私たちの生活はこの通りでした」と、この「明日」を全文引用しており、確かにこれは数行の短詩では書けなかったことを書こうとした、告白的な側面の強い生活詩です。しかしよく読むと、この詩は時制がどんどん進むため一読すると見落としてしまいますが、1行目の「まづ明日も目を醒まそう」からも明白なように、この詩篇は就寝時に八木が夢想した理想の家庭像を描いたものであり、告白的ではあっても決して写実的・日常的な生活詩ではないのです。これを自然に読ませてしまう八木の技巧の冴えにこそ、この詩の真髄はあるでしょう。そしてこの詩篇には明らかに来たるべき日常の崩壊への予兆が不吉な影を落としています。

 明日
 
まづ明日も目を醒まそう
誰れがさきにめをさましても
ほかの者を皆起すのだ
眼がハッキリとさめて気持ちもたしかになったら
いままで寝ていたところはとり乱してゐるから
この三畳の間へ親子四人あつまらう
富子お前は陽二を抱いてそこにおすわり
桃ちやんは私のお膝へおててをついて
いつものようにお顔をつっぷすがいいよ
そこで私は聖書をとり
馬太伝六章の主の祈りをよみますから
みんないっしよに祈る心にならう
この朝のつとめを
どうぞしてたのしい真剣なつとめとして続かせたい
さお前は朝飯のしたくにおとりかかり
私は二人を子守してゐるから
お互ひに心をうち込んでその務を果そう
もう出来たのか
では皆ご飯にしよう
桃子はアブちやんをかけてそこへおすわり
陽ちやんは母ちやんのそばへすわって
皆おいちいおいちいいって食べようね
七時半ごろになると
私は勤めに出かけねばならない
まだ本当にしっくり心にあった仕事とは思はないが
とにかく自分に出来るしごとであり
妻と子を養ふ糧も得られる
大勢の子供を相手の仕事で
あながちに悪るい仕事とも思はれない
心を尽せば
少しはよい事もできるかもしれぬ
そして何より意義のあると思ふことは
生徒たちはつまり『隣人』である
それゆえに私の心は
生徒たちにむかってゐるとき
大きな修練を経てゐるのだ
何よりも一人一人の少年を
基督其人の化身とおもわねばならぬ
そればかりではない
同僚も皆彼の化身とおもわねばならぬ
(自分の妻子もそうである)
そのきもちで勤めの時間をすごすのだ
その心がけが何より根本だ
絶えずあらゆるものに額(ぬか)づいてゐよう
このおもひから
存外いやなおもひも霽(は)れていくだらう
進んで自分も更に更に美しくなり得る望みが湧こう
そうして日日をくらしていったら
つまらないと思ったこの職も
他の仕事と比べて劣ってゐるとはおもわれなくもなるであらう、
こんな望みで進むのだ、
休みの時間には
基督のことをおもひすごそう、
夕方になれば
妻や子の顔を心にうかべ乍ら家路をたどる、
美しいつつましい慰めの時だ、
よく晴れた日なら
身体(からだ)いっぱいに夕日をあび
小学生の昔にかへったつもりで口笛でも吹きながら
雨ふりならば
傘におちる雨の音にききいりながら
砂利の白いつぶをたのしんであるいてこよう
もし暴風の日があるなら
一心に基督を念じてつきぬけて来よう、
そしていつの日もいつの日も
門口には六つもの瞳がよろこびむかへてくれる、
私はその日勤め先での出来事をかたり
妻は留守中のできごとをかたる
なんでもない事でもお互ひにたのしい
そして、お互ひに今日一日
神についての考へに誤りはなかったかをかんがへ合せてみよう
又それについて話し合ってみよう、
しばらくは
親子四人他愛のない休息の時である、
私も何もかもほったらかして子供の相手だ、
やがて揃って夕食をたべる、
ささやかな生活でも
子供を二人かかえてお互ひ夕暮れ時はかなり忙しい、
さあ寝るまでは又子供等の一騒ぎだ、
そのうち奴(やっ)こさん達ちは
倒れた兵隊さんの様に一人二人と寝入ってしまふ、
私等は二人で
子供の枕元で静かに祈りをしよう、
桃子たちも眼をあいてゐたらいっしよにするのだ
ほんとうに
自分の心に
いつも大きな花を持ってゐたいものだ
その花は他人を憎まなければ蝕まれはしない
他人を憎めば自ずとそこだけ腐れてゆく、
この花を抱いて皆ねむりにつこう、
 
(手稿小詩集「晩秋」大正14年11月22日編より)

(書誌・引用詩本文は筑摩書房『八木重吉全集』により、かな遣いは原文のまま、用字は現行の略字体に改めました。)
(以下次回)