今日「富山で実刑判決を受けて2年9ヶ月服役した男性が、真犯人が見つかり、実は無実だった」という冤罪事件が判明した。本人が、国家賠償請求でもしない限り冤罪事件が起きても、富山県警、犯罪を成立させようとした検察、判決を下した裁判所には特にお咎めはない。
凶悪犯罪が多く発生しても、死刑廃止論を唱える人は多い。その一番の理由は「冤罪」が起きやすいという日本独特の司法の問題がある。
この間も、神奈川で同じような事件が起きているし、再審を待っている死刑囚は未だにたくさん居るのが日本の現状。ちょうど、明日から、『シャルウィーダンス』で知られる映画監督周防正行さんの痴漢冤罪事件を扱った『それでもぼくはやっていない』http://www.soreboku.jp/index.html が公開される。
痴漢行為は卑劣であるが、当事者同士しかわからない犯罪。証言や状況証拠で成立してしまう。また何よりもどんなにまじめにがんばってきた人間でも社会的信用は全て失墜してしまう。勘違いだったとしても、途中で容易に被害届を下げることは出来ない、混んでる電車には絶対乗りたくないと思った。
しかし映画は、そういった一つの事件よりも、日本の裁判制度のおかしさをテーマにしたと、インタビューで聞いた。
司法試験に合格すると、弁護士、検察、裁判官のいずれかの道が開ける。刑法犯の場合、検察が事件の立証と求刑を。弁護士が、事件の無効、または酌量、減刑を求めて被告の味方につく。双方の言い分を見極めて、事件を決定し、刑を確定するのが裁判官(判事)。
しかし、裁判官は実は、組織として判断を下すのではなく、個人の権限として判決を下すと言うのを最近知った。ニュースを聞けばわかるだけど、「広島地方裁判所が・・・・・被告人に、○○の罪として○○年の実刑判決を下した。」とは言わない。「広島地方裁判所。○○裁判官は、被告人に、○○の罪として○○年の実刑判決を下した。」と必ず個人名を言う。つまり、組織として判断するのではなく、あくまでも自分ひとりの判断と言うことになる。もちろん、事件に関する調査は事務官や、判決に当たって、先輩や同僚判事にアドバイスを請うことはあろうが、最終的には一人、自身の名において判決を下す。最高裁判所だって、15人全員で協議して、一つの結論を出すのではなく、15人それぞれが、各々の信条に基づいて結論を出すのである。
ということは、同じ事件でも人によって違う判決が出るということになる。へんちくりんな裁判官に当たったときは。いい怪訝な判決が出てしまうかもしれない。
昨年、千葉市の公園のベンチから転落した幼児が植え込みの枯れ枝に刺さり死亡した事件。両親が公園を管理する千葉市を訴えたが、裁判では千葉市には過失はないとし、さらに、親に対して、ベンチに座らせる時ちゃんと見る責任があった。と言う判決がでた。一審とは逆の千葉市無罪判決だった。詳しい現状はわからないのだけど、子どもがベンチから落ちてもまず死ぬことはない。植え込みに殺傷する可能性がある枯れ枝が、放置されているとは目を離した親にも想像できなかっただろう、しかし、この裁判官では親のほうに過失があったということになった。詳しい状況は、私にはわからないので、本当、何も言ってはいけないのだけど、私が裁判官なら、"目を離した親”でなく、”植え込みの手入れをしてない千葉市”に焦点がいく。多分違う判決を下すだろう。つまり、裁判官が違えば、全く180度違うことにもなる。元ドリームカムトゥルーのメンバーが覚せい剤所持で有罪判決を受けたときの裁判官は、自身ドリカムのファンで、ファンに成り代わって被告を叱ると言う変わった判決をした人もいる。三菱ふそうの役員は有罪を覚悟していたと思うけど、無罪、お咎めなし。
裁判官の資質によって、事件そのものが作られることもあるし、なくなることもある。刑の軽重も裁判官次第。そこへ持ってきて、一般の人が裁判官になるアメリカの陪審員制度のような裁判員制度が2年後の5月からスタートする。
世の中が複雑になり、価値観、個人の考えが多様化し、どの世界も大変な状況、政治家も、超有名企業も、岐阜県も、大阪市も、厚生労働省も、お役人も、県知事も、学校も、マスコミも、どんどん壊れて行っている。最後の砦、裁判所も、えっ!と思うことがある。一般の人が、裁判制度の救世主になるかどうか誰か判決を下してください。