池袋フィールドのブログ

池袋フィールドのブログ

ライブハウス 池袋フィールドです。
アーティストとしても活動中の店長・山石敬之が
日々の出会いやエピソードを語っていきます。

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「終わり」をどうしようか、考えてしまう。

「死ぬまで続けりゃいーじゃん」

そう思う。

「ステージで死ねれば本望じゃん」

そう思う。

でも、上手くステージ上で死ねるかな?

そんな理想的な死に方した人知ってる?

(確か「堺駿二さん(堺正章さんのお父さん)」はそのはす)

でも実際には結構迷惑だよね?

死に方に「上手い下手」は無い。

それは「寿命」た。

別の話しだ。

 

じゃその前に使い切ろう、と思った。

で「ヨンナナ」を企画した。

ただウジウジと「終わりの算段」をするより、

あるモノ全部使い切って、その先に何が見えるのか、

そんな景色が見たかった。

人は置かれてみなけりゃ分からない。

そこに立ってみないと気付けない。

だが、なかなか自分の意思で、裁量で

「あるべき場所」に身を置く事は難しい。

かと言って「いつの日か」とか言ってるウチに

全ては朽ち果てる。

ここは踏ん張りどころだろう、と思った。

今しか無いだろう、と思った。

無謀だろうと何だろうと、やるしか無い時はある。

で、それは「今」だった。

間違いない。

 

私は「日常」に戻ります。

フィールドと共にドタバタと駆け回る日々に。

出演者の為に悩み、怒り、笑う日々に。

それでもやっぱり私自身の旅は終わらない。

ヨンナナを終えて思うのは、

「終わりじゃ無かった」という事。

顔をどっちに向けるか、で全ては決まる。

前を向くか、後ろを向くか。

「次」は作るものだ。

欲しがるものだ。

もちろん歳と共に「諦め」がまとわり付く。

「もう、良いんじゃ無い?」って。

「充分やったよ、ご苦労さん」って。

その声を聞き入れるか、聞かないか。

それが先の人生を決める。

 

ヨンナナに関しては、

30歳の時に解散したバンドの「総ざらい」を考えた。

ちょうどその後30年間過ごして来た、

自分の音楽の歴史を辿る旅のようなものだった。

そしてそれが終わった。

「で、次は?」

ここからはもう「前」しか無い。

「落とし前」は付けた。

60歳を迎え、振り向くのは終わりだ。

正直「一度やってみたかった」って気持ちがあった。

で、それを思い切りやった。

思い切り振り向いてみた。

ここからは新しい地平を目指そう。

池袋フィールドの仲間たちと共に、

どんな景色が見えるのか、作れるのか、

そんな新しい旅に出よう。

ステージは、どんな場所だろうと「夢のアトリエ」だ。

我々は特別な事を演っている。

観る人にとっては特別な存在だ。

「奇跡」を作れる、数少ない存在だ。

道半ばで倒れようと構わない。

前へと向かう推進力だけが、それを可能にする。

 

旅は続く

いつの日も

ここに立てば星は輝く

 

山石敬之

 

 

春を生きよう

春に死のう

春を食べよう

春に喰われよう

 

春を歌おう

春を語ろう

春を描こう

春を記そう

 

春に生まれよう

春に産もう

春を飲み干そう

春を酌み交わそう

 

今日はここだ

昨日は棚の上

明日はもうすぐノックする

「その日」は、まだグズグズしている

 

もしかしたら明日?

もしかしたら昨日だった?

もしかしたら来年?

もしかしたら去年だったのか?

「その日」は、やはりノロノロしている

 

だから

春を生きよう

だからこそ

春に生きよう

 

ありがとう

 

私はこの4月8日で60歳になる。

20代前半から音楽活動を始めたので、

約40年間やって来た事になる。

長いは長いが、ま、そんな人はいる。

凄く珍しい訳ではない。

私が特異なのは、同じ事を長く続けた事だ。

それは物事を諦めない、という側面と、

狭い世界で生きて来た、という両側面を持つ。

つまりこの世界で生きて来た割には、

業界の知り合いが極端に少なく、仕事的には拡がらなかった。

「誰かのおかげで」みたいなのがホントに少ない。(もちろんゼロでは無いが)

ま、それは元々なので、私にとっては普通。

そんな私が取ったやり方は、

「仕事は待つモノでは無く、自分で作るモノ」というスタンスだ。

無いなら、作っちゃえ、という発想。

思い付きの企画を、自分ででっち上げ、

実際それを現実化すれば、仕事になる。

もちろんそこには「人を説得する」という

面倒くさい作業が必ず必要だが。

しかし絵空事では無いので、お金も現実に動く。

IT関係では無いので、さほどのビッグマネーでは無いが。

 

「え、それだけで?」と思うかも知れないが、

それでやって来た。

私はいつも現場に居たかった。

ステージに、スタジオに。

そこで自分が活きるのが分かっていたからだ。

私は元々バンドマンだ。

だが一般的に「バンドマン」と言うと、

「バンドを渡り歩き、音楽で何とか生きてる人」の事だ。

だが私はそうじゃない。

私を起点に、ミュージシャンが集まり、

ステージやスタジオをこなし、お金を稼ぐ、という立場だ。

一見素晴らしく聞こえるかもしれないが、

残念ながら、その「絶対数」が少なかった。

集まった皆んなに、暮らせるほどの環境は作れなかった。

最終的には、ポツンと独り「さあ、どうしよう?」となった。

で、起死回生のプランが「ライブハウス」だった。

 

翻ってみれば、私が20代の頃にまずやったのは「リハスタ」。

SCRAMBLEというバンドを始めて、

障壁だったのは、リハーサルの経費が掛かる事。

自分達でリハスタを持てば、そんな事は解決だ!

思い切り、好きなだけリハが出来る。

で、まずそれを代々木で実現。(もちろんタマタマの産物だが)

そこでリハーサルはもちろん、レコーディングもこなし、

メンバーは、ファンの子を集めて「スクール」をやり、収入源とした。

全ての基地になった。

 

ところが、スクランブル解散後、

代々木が大家さんとトラブり、追い出された。

で、次に取った「手」は、レコーディング・スタジオ。

これはハードルが高かった。

が、それも何故か乗り越え、池袋のマンションの一室で、

事務所兼レコーディング・スタジオを構えた。

ちょうどバブルの頃で、銀行が簡単に融資してくれたおかげだ。

返すアテなど全く無かったが、でもどうにかなるものだ。

32歳の時だった。

レコーディング・スタジオを持つのは、

当時ミュージシャンにとっては憧れだった。

その後、誰もが「マイ・スタジオ」を持つようになるが、

それはレコーディング機材の廉価化のおかげで、

当時はまだまだ高嶺の華だったが、

逆にそのおかげで仕事は作れた。

こうして活動をリスタートした。

 

そしてそれから20年の時を経て「池袋フィールド」を2012年に始める訳だが、

その顛末は、このブログの初期にも書いているので、

ぜひそちらを参照して欲しい。

 

さて皆さん、どうだろう?

これはミュージシャンの歴史、というより、

ある人間の歩いて来た人生の歴史だ。

もちろん迷惑を掛けた人達の事は省いてある。

だが、それでもどうにかここまでやって来た。

ラッキーに彩られてるようでもあり、

アンラッキーに翻弄されたようでもある。

つまりは「プラマイゼロ」だ。

閃き、動き、努力し、諦めなかった結果が、

「今」なのだ、と信じている。

正直「ま、どうにかなるさ」が口癖だ。

ここでもよく「バカみたいに」と書くが、

実際私の歴史は「バカみたいに」を重ねたものだ。

その最大の「バカみたい」が、4月7日だ。

やはり私はミュージシャンなので、

演奏する事で、唄う事で

その「バカみたいに」を形にする。

これ以上無い歌で。

これ以上無い、生き方を。

 

 

 

 

 

 

 

 

音楽とは「音を楽しむ」と書く。

だから楽しまなくちゃ音楽じゃ無いって、

それホント?

ま、ホントなんだろう。

だけどそれは「リスナーサイド」に立っての話しだ。

「音を楽しむ」のは、リスナー、消費者だ。

もし作り手側が楽しくやってりゃ良いだけなら、

何てミュージシャンて幸せな奴らなんだろう。

みーんなで成れば良い。

楽しくやってビッグになって、お金持ちになれるなら、

そんなに良い事は無い。

周りにそんな「楽勝」な人いる?

楽しくやってりゃ成功が勝手に付いて来る、みたいな奴、

会った事ある?

私は会った事無い。

 

「楽しそうに演奏してる人観ると、

こっちまで楽しくなる」

それは、ある。

じゃ、音楽は楽しいはずのものなのに、

何故全員が楽しそうじゃ無いの?

それはね「へたっぴ」だからです。

思い通りに演奏出来ないからです。

上手く行かない演奏中に、楽しそうだったら、

そいつ、アホだよね。

もちろん「下手なりに」ってのもある。

仲間とワイワイ集まっての演奏は楽しい。

でも楽しかったはずの集まりも、

いつしか「温度差」が生まれ、離れる人も出て来る。

しょっちゅう、つっかえたり、変な音出されたら、

少しは文句も言いたくなる。

ちゃんと取り組む人が一人でも出て来れば、

「もっと素敵な演奏を」という欲求が生まれ、

「楽しさ」だけを求める人と溝が出来てしまう。

 

「楽しさ」は危険なのだ。

「楽しい」を行動の理由にするのならば、

楽しくなくなったらすぐ壊れてしまう。

その度に別の「楽しい」を探して彷徨うの?

「楽しい」の賞味期限は短いよ。

集まった全員がずーっと楽しい、をキープするのは、

はっきり言ってほぼ不可能。

じゃ、どうすれば良い?

「楽しい」を「達成感」に置き換えるべきだ。

出来なかった事が出来るようになって、楽しい。

揃わなかった音が揃って、楽しい。

演奏を「凄い!」って褒められて、楽しい。

自分も皆んなも胸が踊る曲が作れて、楽しい。

皆んなが君の演奏を聴きたがるようになって、楽しい。

つまり、上手くなったから楽しいのだ。

じゃ、どうすれば上手くなる?

また言わせちゃう?

 

楽しくやりたいのなら「苦しい」努力をするしかないんだ。

「楽しい」と「楽する」の違いを知るべきだ。

クソつまらない「ハノン」みたいのを

毎日馬鹿みたいに練習しなきゃ、思い通りにピアノは弾けない。

ポテチを好きなだけ食べたけりゃ、食った分鍛えなきゃ。

じゃなきゃブクブク太って別の「楽しい」を失う事になる。

プラスとマイナスは、常に背中合わせだ。

「楽しい」は「苦しい」が作るんだ。

それが無理なら「楽しい」は諦めよう。

「ただ楽しい」は、あっという間に終わっちゃう。

それってホントは皆んなも知ってるよね?

じゃもう「楽しくなけりゃ音楽じゃ無い」なんて、

お花畑的発言は止めよう。

楽しい人生を送りたいのなら、

「苦しい」を買ってでも背負う覚悟が必要だ、

楽しいは、いつもその先にしか無いのだから。

「そんなの無理」なら、平たーい人生で善しとしよう。

楽しくも苦しくもない人生。

いかがですか?

 

 

 

 

 

 

 

2011年3月11日から、8年が過ぎた。

様々な想いを抱え、様々な温度差の中、

月日は流れた。

その間にも、幾つかの震災や事故はあり、

多くの人の人生や生活を変えてしまっただろう。

そして、全くその影響を受けずに済んだ人達もいる。

何事も無い事に、もちろん罪悪感を覚える必要はない。

そして「対岸の火事」を忘れてしまう事にも。

だって2001年9月11日の衝撃は、日本人にとっては、

もはや「風化」した、歴史上の出来事だ。

もっと大変な事があれば、過去の傷は追いやられる。

 

3.11の直後から、約1ヶ月間、

私はまだ私のサイトにあった「掲示板」に

毎日コラムを書き込んだ。

日々身の回りで起こる事、報道された事、

東京という街のあの時の立ち位置、

ミュージシャン、アーティストのあるべき姿、

人間同士の結び付き、などなど、

書く事が絶える事は無かった。

しかしそれは「復興」に貢献したい、という想いでは無い。

身近な人達が大変な状況にあれば、

手を差し伸べる、という単純な発想はあった。

一年間のツアーの収益から、義援金を送ったりもしたが、

それもやはり「ご近所の火事お見舞い」という発想だった。

だから西日本の方々には、リアリティーが無いのも理解出来た。

神戸の震災の時、東京の人間がそうだったように。

それで良いと思う。

温度の違いを、無理やり埋めようとしても虚しいだけだ。

 

ただ残念なのは、原発事故のせいで、

「怒りの矛先」を見つけてしまった事だ。

福島の皆さんの置かれた状況の前に、

主眼が逸れてしまった気がした。

東電や国を責め立てる事で、

どうしたって敵わない「自然の脅威」への

漠とした不安から、逃れたのだ。

そしていつしか福島以外の被災地が置き去りにされた気がした。

少なくとも興味の中心では無くなった。

「タラレバ」ばかりを繰り返し、

「想定外」は許せず、

「責任の所在」を探し、

「早急な対応」ばかり求め、

風向き次第で、どっちでも向く。

そんなマスコミの報道に、

ただただ腹を立てて暮らしていたのを思い出す。

 

そして8年が過ぎた。

日々に追われ、目の前の問題に掛り切りになり、

いつしか「お隣さん」の事を気遣わなくなった。

だが少なくとも、東京より北の人間は、

あの日を忘れない。

あの衝撃を、あの不安感を、

あの暗い街並みを、空っぽのコンビニを、

しょっちゅう鳴り響く携帯のアラート音を。

数千万人が同時に突き落とされた恐怖を、

決して忘れない。

復興は後押ししたい。

だが私は、あの体験を共有出来てる、

ただそれだけでも充分だと思っている。

誰もが自分で一杯一杯だ。

人生の荒波は、個別にも襲って来る。

不幸に大小は無い。

それでももし「次」何かが襲ってきた時、

我々は容易く団結するだろう。

経験したから。

尊さと愚かさを同時に目の当たりにしたから。

人が取るべき行動を、道を学んだのだ。

だから日本人はきっと大丈夫だよ、と

北の海に散った同胞に、そっと告げたい。