六ヶ所村立郷土館には、縄文時代のジオラマがありますが、
これは三内丸山遺跡に展示されていたものよりも、リアルで
印象的でした。
この郷土館で特に印象深かったのは、赤ちゃんの手形を土器に
遺したものでした。
赤ちゃんの手を何かに遺すということは、現代でも普通にあること
ですが、数千年前も今も変わらないものだと感じました。
現代のように便利なもので溢れている世界でなく、何も無かった
縄文時代に、彼らは自分たちで生きるための道具を作り、狩りを
して、その瞬間瞬間の幸せが、やがて深い精神性を育み、あの
ような宇宙の進行、生と死と再生の世界を土器に投影していた
と思うと、私などはモノという一過性の鎮静剤を常に打ち、それは
写真を撮る行為ですら、自分のためにやっているわけでない、
そこにカメラがあるから、使いたくないモノに使われる、そんな貧
しい日々を送っているものだと、自嘲してしまうのです。
基本は、生きるということは食べるということ、煮炊きに使う土器は
食材を変容して、新たな命の源へ変えていく、その行為がやがて
受胎、出産の象徴として土器が命の器となり、更には減殺し、また
満ちていく月の運行にまで、その思いを縄文人達は馳せていた
のでしょう。
そんなことを思いながら、六ヶ所村郷土館を後にしました。