自分の病気が見つかったのは、2024年の11月だったろうか。2025年に入ってすぐに切ったわけだが、その後、後遺症には見舞われているものの、大元の病気については、今のところ再発の兆候は見られない。発見当時、家族に打ち明けた際は、家内や娘は私の前では感情を露わにしなかったが、おそらく驚き悲しんだことだろう。それまで病気とは縁のない自分が突然、死をイメージする病気を患っていたことが分かったのだから。自分ですら、そのギャップに驚き、激しく動揺した。心優しい娘は、ネットで調べたのだろう、新橋まで行って父の病気にご利益があるという烏森神社の御守りをもらってきてくれた。必ず元気になって戻ってきてねと。


その後、無事戻ってきた自分はというと、落ち着いたら烏森神社へお礼参りに行かなければと、ずっと気にしつつ、なかなか行けないでいた。先日、新橋に行く用事ができたので、ようやくお礼参りをすることができて、「おかげさまで、身体から悪いものは無くなりました」と報告し、お礼を告げたあと、御守りをもらってきてくれた娘に災いが起きないよう祈ってきた。気持ちがすとんと落ち着いた気がした。手術に挑む前には、ここの神社の他にもお願いした神社はあったけど、お礼を伝えていなかった神社はここだけだったので、ようやく気持ちに一区切りがついて、次のステップに進めそうな気持ちが湧いてきた。(さて、次のステップとはなんだろう)


神社だとか、お参りだとか言うと、信心深い人間のように聞こえるかもしれないが、正直なところ、特別、神様を信じているわけではない。それでも困ったことがあったときや、何かを叶えたいときなどは、神社に出向きお祈りをしてしまう。多分、この国では幼いころから近所には神社という神様がいるらしい施設があることを誰しも知っていて、初詣をはじめとして、気軽にお願いをしに行ける環境に馴染んでいるからだろうと思っている。本当に神様がいるならば、困ったときだけ祈りに行くような自分に対して都合のいいやつだと思っているかもしれないが、都合いいついでに言えば、神社の神様って、そういうものだと自分は思っている。罰当たりだろうか。それでも自分の場合、これまで経験してきた幾つもの難局にあたって、お願いする相手がいてくれて、本当に心が救われてきた。本当に助けてもらった。目に見えない何か強大な力(を思わせるなにか)が、何も語らずただ聞いてくれるだけ。そんな相手がるだけで安心感が得られ、暗く深い穴に落ちそうになった時にも気持ちを鎮めることができた。


ついでに言うと、そんな神様には、本当はもっとお賽銭をあげなければならないのだろうが、一番よいお賽銭は五円(ご縁)だと信じ切っているので、なかなかやめられない。これが吉と出ているのか凶と出ているのかは分からないが、おそらく寛大であろう神様はそんな細かなことは気にしてはいないだろう。そう思いたい。