陣屋町 足守(あしもり)の町並み保存地区を歩く(岡山市北区足守) | のぼるの街歩きブログ

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陣屋町 足守(あしもり)の町並み保存地区を歩く(岡山市北区足守)・4月10日

足守は豊臣秀吉ゆかりの木下家代々によって陣屋町として栄え、現在も武家屋敷や土蔵など当時の面影を色濃く残す建物が軒をならべる「町並み保存地区」や緒方洪庵や木下利玄などの文化人を輩出した町として知られています。



 



足守プラザ→備中まちなみ館→乗典寺→旧足守商家藤田千年冶邸→足守藩侍屋敷→大光寺→陣屋跡→木下利玄生家→近水園→足守歴史庭園→緒方洪庵生誕地を歩いた。


足守プラザ
木工芸や陶芸などの製作体験ができるほか、観光情報のスペース、レストランや物産品の展示販売などがあります。各種の作品展示やミニコンサートなどにも利用できる米蔵ギャラリーも開設。足守・吉備路観光の拠点として親しまれている。レンタサイクルもある。



 




 



 


洪庵茶屋
江戸時代の町並みにマッチした茶屋。
地元産の新鮮な食材を使った郷土色豊かな料理が味わえます。


 


足守プラザ付近の町並み


 


足守の町並み保存地区
豊臣秀吉の正室北政所(ねね)の実兄を藩祖とする木下家2万5千石の陣屋町。保存地区は陣屋町のうちの町人町に当たる。間口の広い平入の民家が並ぶ落ち着いた町並み。



 


備中足守まちなみ館
もともとはこの地にあった商家。現在は改修され観光ボランティアが在中する、観光情報センターの役割をはたしています。




 


緒方洪庵ゆかりの地を訪ねる
の案内図があります。


 

足守藩紋所も展示したありました。
木下藩は主に3種類の紋章を使いました。
1 丸の内切菊中に左三つ巴
2 五七の桐
3 立沢潟(たちおもだか)


 



緒方洪庵ゆかりの寺「乗典寺」
緒方洪庵の先祖のお墓と洪庵のお位牌をお祀りしています。



 


旧足守商家 藤田千年冶邸
江戸時代末期に建築され、明治以降、本瓦葺き入り母屋二階造り、漆喰塗りの豪壮な造りの建物。内部には往時の醤油工場が再現されています。


 


帳簿類


 



仕込み樽



 


搾り機


 


「備中あしもり 緒方洪庵生誕の里」碑
足守観光駐車場に立っています。



 




足守藩侍屋敷
足守藩家老の杉原氏の住居。江戸時代中期頃の武家屋敷。
長屋門、母屋、御成門、内蔵、土蔵などがそろい、ほぼ完全な形態で残っています。書院前には遠州流と伝えられる庭がある。御成門は藩主が来邸の時に使用した。



 


御成門


 



御成門にある足守藩主木下家の家紋
五七の桐



 




 



玄関正面



 


奥の間


 


一の間


 

お殿様の書 「鶴雲」
左側に「豊臣利徳書」とあります。木下利徳(1789~1821)は足守藩第十一代のお殿様です。豊臣姓は豊臣秀吉から名乗ることが許されています。初代足守藩主木下家定は秀吉の正室北政所(ねね)の実兄。



 




大光寺の説明



 
 

 
大光寺山門



 
 
  
木下家墓所への道。



 
 

大光寺 木下家墓所
 足守藩四代目 木下利当が創建した木下家の菩提寺
 木下家6,7,10,13代の藩主、14代当主の各墓所のほか一族の墓塔が30基、石造燈籠が22基ある。



  
 
 

 
 


旧足守藩木下家陣屋跡の碑
陣屋は足守小学校の北隣にあった。現在は公園になっている。
陣屋を取り囲む堀と石垣が残っています。



 
 


 堀と石垣です。


 



利玄みちを歩いて木下利玄生家へ行きます。


 


木下利玄生家
木下利玄 明治19年(1886)~大正14年(1925)
白樺派の代表的歌人。最後の足守藩主木下利恭の弟、利永の二男で、5歳で養嗣子となり木下宗家を継いだ。長屋風の建物は大正時代に建てられたもの。



 
 




 
 



 
 




近水園(おみずえん)
江戸時代中期に築庭された足守藩木下家の庭園。
小堀遠州流と伝えられる池泉回遊式庭園


 




 



吟風閣

数寄屋造りの建物。京都の仙洞御所を普請した際の残材を用いて建てられた。



 



足守歴史庭園
この場所はもと足守藩医をつとめた山田元珉とその子山田貞順の屋敷跡。昭和2年緒方洪庵生誕地の記念碑建立に奔走した吉備郡医師会長の浦上三四が開業していた所。和風の庭園と木下利玄、緒方洪庵、北政所など足守にゆかりのある人の銅板が掲示してある。




 



 



緒方洪庵生誕の地入り口


 


緒方洪庵生誕地
緒方洪庵(1810~1863) 江戸時代後期の蘭学者、医学者、教育者。文化7年(1810) 足守藩士佐伯惟因の三男としてこの地に生まれた。生家跡の中央に顕彰碑が建つ。この顕彰碑下には洪庵の臍の緒、元服の時の遺髪が埋められていると言われています。