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東日本大震災による福島原発事故について事実に基づいた映画。
決死の覚悟で事故対応する現場作業員50名の奮闘を映し出している。
【あらためて確認した恐ろしい事実】
あまり詳しくはないので正確ではないが、私のザックりとした理解は以下のようなものだ。
福島原発は、津波で水をかぶり予備電源まで使えなくなってしまった。
これにより、原子炉を冷やすことが出来ずに内部の圧があがった。
原子炉はそのものを覆っている内部領域とそれを更に覆っている外側の領域の二層になっている。
外側の圧を下げるために、ベントと言われる圧抜きを行ったのだが、溜まらず第一号機、第三号機が水蒸気爆発を起こし、放射能を空中にまき散らした。
最後に二号機も圧が上がるのだが、放射能の値が高くなり人手でベントなどをすることが出来ないため、内部領域の原子炉の融解(爆発)が非常に心配された。
最後に、偶然にも外側が爆発しなぜか内部の原子炉爆発するまでに至らなかった。
もし、内部の原子炉が爆発した場合、福島原発から半径250km、東京都内も含む東日本全滅の恐れがあった。
未だに、なぜ内部の原子炉爆発にならなかったのかわかっていないという。
ただ、ただ、ラッキーだったと言える。
【映画を見て語り継ぐものとは】
福島第一原発1・2号機当直長の伊崎(佐藤浩市)が、
「我々は何を間違っていたんだろうか?」
と福島第一原発所長吉田(渡辺謙)に問うシーンがある。
事故後の吉田所長の手紙でそれに回答した。
「自然をなめていた、思い通りにできるという慢心があった。」
事故後、防波堤を過去にあった最大津波の高さに数メーター足りない設計をしていた、などと責任問題が問われている。
数メーターの議論なのだろうか?と思う。
過去の津波より大きい津波がこないという保証はあるのだろうか?
安全基準とは何なのか?
安全基準をこのくらいと設定すること、そのこと自体が自然をなめていることなのではないのか?
数百年に一度だけの確率で、発電所だけが崩壊して済む、ということならばその可能性含みの安全基準もあるのだろう。
しかし原発の場合、人的被害が甚大で、広範囲の土地が長期にわたって住めなくなるところまで行ってしまう。
また、テロのリスクもある。
責任とは何なのか?
政府も東電も現場も誰もがとれる責任の大きさをはるかに超えている。
つまり、原発は、決して人間には扱えないモンスターなのだ。
映画の中の、福島原発(現場)、東電本社、官邸のやりとりを見ても、原発というモンスターを前にした人間の無力(微力)ぶりが見事に映し出されていた。
この映画のスタッフ陣は後世に語り継ぐためにこの映画を製作したのだと思う。
多くの人が見て、第二次世界大戦のことを語り継ぐように、それぞれの思いを語り継ぐ必要があると感じた。
少し前に原発の問題について伝えている映画があった。
ドキュメンタリー映画「原発と日本4年後」2015年公開
のレビューはこちら
【映画評価について】
この映画はネット上でも高い評価だが、評価の低い人には現場の努力と勇気、涙で美化していて、それが原子力発電をどうするか?や本当に責任をとるべきものとは?などの本質的な追求に対して、目くらましになっている、というような感想がある。
確かにその通りだと思う。
しかし、原発をどう捉えるとか?をしっかり考えるために、事実に基づいたこの映画を見る必要があると思う。
現場の彼らの勇敢さと原発の是非について分けて見る必要があるだろう。
彼らは日本を救った英雄だとも見れるが、危険な原発の推進者でもある。
両方の見方が必要だと思う。
彼らは原発に騙されて心酔した人とも言えるし、日本全体がこんなことが起こるとは誰も思わず容認していたとも言える。
こんなことが起きたとしても原発のメリットの方が大きいと思っている人もいるのだろう。
今の生活の便利さと数百年後の日本壊滅との天秤。
どちらを優先させるのか?
この点では地球温暖化への対応の選択とよく似ているとも思う。
先の話は自分が生きていないから知ったこっちゃないのか?
原発問題は同様に人間に問われている課題なのかもしれない。
最後に重ねて言いたいのは、原発は被害がその場だけで済まないことからも、人間がコントロールできないモンスターであるということだ。