講演「樋口季一郎中将と士魂部隊」2019年8月開催 | 日々是湧日 ヒビコレユウジツ

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2021年までは、主に映画(ドキュメンタリー多、ネタバレ多)・書籍からの感想、2023年からは、映画・書籍にとらわれずにやってます。

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 NPO法人アジアチャイルドサポート代表理事の池間氏の講演。
素晴らしい精神性をもち、また、見事な戦略も実行した樋口季一郎中将の物語である。

【ユダヤ人への虐殺】
ユダヤ人は宗教が異なる、というだけで差別の対象であった。
宗教改革のマルティン・ルターが「ユダヤ人はひどい」と言ったことで、差別に拍車がかかっていった。
差別により職業も制限されており、金融関係に就いていた。
ユダヤ人は持ち前の優秀さで金融業で成功を収めると今度は妬みも生まれた。

ポグロムという言葉はユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を言う。
ドイツのホロコーストは有名だが、ドイツ人だけでなく東欧(ロシア含む)の人の虐殺の方が激しかった。
兵士ならぬ、一般の主婦もむしゃくしゃすることがあったら、ユダヤ人を殺して遊んだりが当たり前だった。
殺す相手が子供でもかまわずであった。

【ユダヤ人を救う】
樋口季一郎中将は、1937年12月 第1回ハルピンの極東ユダヤ人大会に招かれてドイツの反ユダヤ政策を激しく批判する祝辞を行った。
(ユダヤ人虐殺について)
「人道主義の名において、人類の1人として私は心から悲しむものであります。」
前年の1937年11月に日独防共協定を締結したばかりのタイミングであった。

1938年3月オトポール駅(現在のザバイカリスク駅でロシアと中国の国境)に東欧から追われたユダヤ人が集まって、中国への入国を求めた。
入国許可がされなければ、ユダヤ人たちはその場で死を待つしかない状態だった。

樋口は「人間を差別している。これは武士道に反する。人種差別には同意同調できない」として、独断でビザを発給しユダヤ人を上海へ逃がした。
その数は2千人とも2万人言われる。
この上海への脱出ルートはヒグチルートと呼ばれた。

【樋口の責任は?】
独断でビザを発給した樋口であったが、上官の東條英機もこれに賛同し、お咎めはなかった。
ロシアは、日露戦争でも樋口に痛い目に合っており、更にユダヤ人への人道支援によって、樋口に対してはらわたが煮えくり返っていた。
そのため、日本の敗戦後、スターリンは「樋口を殺せ!」と息まいていた。
これに対して、ミハエル・コーガン(株式会社タイトーの創業者)は、樋口に恩義を感じ、世界ユダヤ人大会に働きかけ、それが更にはマッカーサ―をも動かし、樋口は東京裁判出廷することも殺されることもなく80歳まで生きた。

【キスカ島撤退作戦】
樋口は、1943年のキスカ島撤退作戦も成功させている。


アッツ島(2650名)がアメリカ軍に攻撃されたため、キスカ島(5600名)が孤立してしまうことになった。
両方に援軍を送る体力は日本軍にはもはやなく、二者択一となってしまった。

樋口は、キスカ島にのみ援軍を送る決断をした。

霧深いキスカのわずかな間隙を縫って、また、武器を捨てさせ船を軽量にし、迅速に5600名を撤退させた。
キスカの奇跡と言われる。
援軍のなかったアッツ島は玉砕、生存者はわずか28名だった。
樋口は、アッツ島に援軍を送ると言っておいて送れなかったことを80歳まで悔いて過ごした。

【ポツダム宣言受諾後の戦い】
日本が戦争に敗れ、ポツダム宣言受諾によって、大本営より「武器をすべて放棄せよ」の命が各地区に下った。
樋口はそれに対して戦いを指示し、自らも戦った。
戦った南満州では、傷少なく帰還することができたが、指示通り武器を放棄した北満州では25万人の生命が失われ、生きて帰還できたのはわずかだった。

日本軍が指示に正直に従わずに、武器を半分でも残しておいたならば、犠牲者がもっと少なかっただろう、と言われている。

1945年2月ヤルタ会談において、大日本帝国の敗戦後の分割について話し合われた。
白い悪魔たちである。
 

チャーチル(人種差別のひどい人で最後までガンジーと会わなかった)
ルーズベルト(おじいさんが中国で儲けたので中国好き)
スターリン(冷徹、冷酷なリーダーで北海道の分割、更には東北獲得までを視野に入れていた)

日本の敗戦が確実なものになってから、日ソ不可侵条約を破って参戦したソ連。
ヤルタ会談では、樺太や北方4島などの領土が分配されたが、スターリンはそれだけでは不十分だと考えていた。

そして、領土獲得のために実行支配してしまえばよい、と考えた。

占守島(しゅむしゅとう)は、北方四島の先、千島列島の最も北の島である。


終戦をラジオで知らされた8/15の2日後、占守島の軍人は武装を放棄して、酒を酌み交わしていた。
帰還できる日を想像しながら。
午前2時過ぎ、何やら物音がする。
後からソ連軍であることが発覚。
実行支配のために乗り込んできたのだ。

敗戦国においては大本営の指示どおり、武装放棄して降伏するのが通常かもしれない。
しかし、占守島には缶詰工場があり、そこには400名の女性が働いている。
降伏すると、間違いなく女性が暴行されてしまう。

樋口も「戦え!殲滅しろ!」と指示した。
士魂部隊の連隊長池田末男は部下(約1000名)を集めて、
「赤穂浪士となって恥を忍び後世に仇を報ずるか、それとも白虎隊となり民族の防波堤として玉砕するか」と問うた。
部下たちは全員、玉砕を選択した。


池田は軍服を脱ぎ捨て、上半身裸で戦車に飛び乗り、先導して戦い玉砕した。
池田のむき出しの身体には玉が当たりまくって、最後には人の原型をとどめなかったという。
この戦いによってソ連軍は足止めされ北海道の実行支配には至らず、結果的に北海道が分割されることを免れることになった。
池田が上半身裸だったのは、戦うことが「武装放棄せよ」との天皇の命に背いた行動だったため、大日本帝国の軍人としてではなく、池田個人として戦ったのではないか?と推察される。

彼らの戦いがなければ日本は分割され、今の日本はなかったかもしれない。

彼らの戦いに感謝するとともに、彼らの精神性に誇りを持つべきではないかと感じるのである。

ソ連軍上陸時の様子の詳細はこちらにも。
https://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/22081570.html

このような実行支配を進めようとしても、まったく、罪悪感を持たないのがロシアであり、それが海外の常識である、と池間氏は伝えた。
日本人の感覚とは異なるのである。
「卑怯」という言葉を持ち合わせていないのかもしれない。
※と思って調べたら存在していた。「трусость」
日本人は日本人の感覚を当たり前だと思っている。
日本人の多くは人種差別するという感覚がほとんどわからないのではないだろうか?
もっと世界を良く知らないといけないのだ。

【感想】
正確な歴史を知ることは非常に難しい。
教科書にも載ることはなかった。
敗戦国の軍人がいい人であってはいけなかった。
だからかき消された歴史がある。

情報は多方面から集めないと真実とは言えない。
そして、白黒つけられない複雑なものがある。
効率的に一部の情報を認識することは、かえって事実と異なった認識を持つことになってしまい危険だ。
一部だけを認識するよりも、むしろ全く認識しない状態で色をつけないほうがいいのかもしれない。

GHQによるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)。
これによって知らぬ間に、日本人の高き精神性、そして誇りを忘れさせられている面があるのだろう。
自国を思うこと、愛国心と言う言葉、国旗掲揚や国歌斉唱をどこか忌み嫌うようにもさせられてしまった。
こんなことを言うと、また戦争をして侵略しようとするのか?という日本人が増えてしまった。


世界の歴史を見ると侵略、植民地化、支配、殺戮の繰り返しである。
その大きな歴史の中の1ページが大東亜戦争であった。
すこしずつ出てきている事実をインプットしていくことで、多面的な歴史認識をしていきたいものだ。