日々是湧日 ヒビコレユウジツ

日々是湧日 ヒビコレユウジツ

日々湧き上がる思いや感じたことを書いてます。
2021年までは、主に映画(ドキュメンタリー多、ネタバレ多)・書籍からの感想、2023年からは、映画・書籍にとらわれずにやってます。

最近世間をざわつかせているものに、松本人志さんの性加害報道がある。

週刊誌の報道を受けてのネットに解説動画がいろいろとアップされていて、勉強になっている。

興味深いのはスキャンダルの中身より、その周りのいろいろなことで、時代の変化、あるいは人間という者について、あらためて感じることがあった。

同時に、自分の無知さ、勘違い、思い込みなどを気づかされもした。

その気づきをいくつか上げてみたい。


①専門家などの話がじっくり聞ける

ネットにアップされる動画は、業界出身の人が解説しているもの、裁判がどう展開するか?を弁護士が解説しているものなどいろいろある。

いろいろな動画の解説をピックアップしてきて、この報道に対する意見まとめをしている動画もある。

しかもかなりリアルタイムで動画が上がっている。

1日に何回もアップされることもある。

時間が限られたTVなんかより、詳細に知ることができる。

新聞・TVだけの時代はどれだけ情弱だったんだろうか?と過去を振り返る。


②TVは両方の見解を公平に取り上げられるのか?

今回の件で、放送法でこのことが決まっていると聞いた。

告発者と被告発者、その意見が食い違っている時に両方の意見を取り上げる、という公平性が必要なのだと。

言われてみればそうなのか・・・。

TVに公平性があるなんてことは、忘れていた感覚だった。

実際にはとてもそんな風になってはいまい・・・。笑。

公平だと言われる判断にも主観と都合が必ず入るものだ。

何をもって公平と言えるんだろうか?

多かれ少なかれ忖度があるものだろう。

ことさら、この事件について公平性が協調されたことに、引っ掛かりを感じて逆に興味深かった。


③人は所詮自分を守りながら生きるものである。

こう書くと当たり前と言えば当たり前のことだ。

一般的に告発者の擁護派と被告発者の擁護派に世論は分かれる。

それは、報道される情報に加えて告発者や被告発者との関係性(好き嫌い、親和性、共感性、恩義など)によって形成される。

告発者あるいは被告発者に親和性も好き嫌いなども何もない人は、フラットに判断して発言ができる。

しかし、それらがある人は、ーそれを利害関係と言ったらいいかー何よりも自分のこれまでも思いや自分のこれまでの環境を守るためにどちらかを擁護する、ということだ。

利害関係があって自分が損をする選択をできる人は極めて少ないものなのだろう。

そういえば「是々非々」という言葉が政治などでもよく使われる。

よく使われるということは、何度もそう言い聞かせないと人間はできないということがわかる。

人間という者は「是々非々」が苦手にできているんだろう。

それは、目の前のモノを、敵か味方かを瞬時に判断して生き延びるというDNAを持っているからだと思う。

人間の本能は瞬時に白黒をつけている。

そしてその瞬時の判断の後、自分を守るために発言するものなのだ。

自分を守るために時に嘘をついたり、複数の自分の思うことの中から、あるものを切り抜いて話す。

まあ、切り抜きはTV、ネットなどのメディアと一緒のことだ。

自分のための発言が後から考えたら偏っていた、ということもあるかもしれないが、その時に自分が守られると思う発言をするのだ。

人は自分を守らなければならないことは間違いない。

あらためて言うことでもないが、人とはそういうものでそれでいいのだ。


これ以外にも、法律の解釈、裁判の進み方など自分が全く知らないことをこのスキャンダルで学ぶことになった。

勉強になったと言っておきながら、今後私個人としては、ここで学んだ法律や裁判の知識について全く使うことなく、何とか生きていきたい、と思うのだった。
 

 

※こちらにも記事を投稿しております。

 

 

「最近、コンプライアンスが厳しくなった」とよく聞くようになった。

「モテるために、あるいは芸能人と結婚するために、お笑い芸人を目指したのに何もできなくなってしまった。」

 

芸人はこの発言すらも笑いを変えていく。

私の方は、芸能人のスキャンダルを上から目線で、「なんてこんなバカなことをするんだ?」と冷ややかに見ている。

さも自分ならばそんなバカなことはしない、自分はバカではない、と自信ありげなのだが、本当に自分はバカではないのだろうか?



なぜだか、車の飲酒運転のことが思い浮かんできた。

30年以上前も飲酒運転は道交法上禁止であったのだが、当時の私は少量であれば平気で運転していた。

周りもなんとなくそうだった。

見つからなければ大丈夫だろう、という感覚があった。

その後、罰則が重くなるなどの改正があって、グレー扱いになっていた禁止事項がホントの禁止事項に変化した。

30年経った今、ホントの?禁止事項になっている。

 

芸能人のスキャンダルもこれと同じなのではないかと感じる。

 

世の中のNGの中に、隠し通せてきたものがあって、隠せているうちはなぜか大丈夫だと、NGがまかり通る。

 

それが隠せなくなってきて焦ってホントのNGだと認識するのだ。

 

世間の意識が変わることで隠しづらくなるわけだが、それに加えてスマホやネットを中心にして記録が残るようになった。
 

その記録を誰しもが広く世間に公開できるようになった。

TVなどのマスメディア、そういった特定の権力がないと流せなかった情報が、民衆の手に渡った。

こうして隠せていたことを隠すことができなくなってきているのだ。

最近では「ジャニーズ事件」によって、民の意識がまた変化した。

 

権力によって握りつぶされて、泣き寝入りするしかない、(同業者ならば)干されてしまう、などと言ったことで終わらない社会になってきているのだと・・・。

 

このことは、芸能人に限らず、政治家、社長などあらゆる権力者のスキャンダル、セクハラやらパワハラにも当てはまることだ。

 

今、権力によって隠し通せるグレイゾーンが隠し通せなくなっていく流れがあって、民が勇気を得て泣き寝入りしないという流れができている。

 

この流れに乗ってグレイゾーンがNGになる、この膿だしが昨今我々が目にする不祥事なのである、と言えなくもない。

 

大丈夫。隠せる、という感覚で古い意識のまま蜜に浸っていると、世の中がどうやら変わってしまっていた。

 

そうしてやってきた古い意識も同時に晒されてバカみたいに見えるのだ。

 

 

冒頭の疑問「スキャンダルを上から冷ややかに見ている私は、バカではないのか?」について。

 

飲酒運転のことからすると、自分も同様にバカなのだろう。

 

隠せれば大丈夫だと思っているのは一緒のことだ。

 

では、同じ感覚の私がこれまでに(目立った?)スキャンダルを起こさなかったのは、なぜだろうか?

 

それは、隠し通せるほどの権力を持っていなかったからが大きいのだろう。

 

あるいは、スキャンダルを起こしてしまいそうになるほどの魅力的な場所にいなかったからかもしれない。

 

そして、スキャンダルに引っかかるような魅力を持ち合わせていないからなのではないか?

 

ウーン、書いていて空しくなってきたので、これ以上はやめにしよう。

 

ともかく、NGはグレーゾーンからホントのNGになるというステップを経て、時代は確実に変化していくのだ。

 

これからも意識の古いグレーNGの持ち主が、ホントNGとなって世に晒されることが続いていくんだろう。

 

※こちらにも記事を投稿しております。

 

 

 

久々の忘年会にいくつか参加して感じたことがある。

 

まずは、会話には人との一定の距離が必要で、関係性が薄ければ薄いほど、失礼のないように常識的な会話にとどまる、ということだ。

 

この当たり前のことを改めて感じたのは、この常識的な会話に今回、特に退屈を感じたからなのだろう。

 

何事にも常識という共通のルールがあって、このルールがあるから他人と心地よくやっていける。

 

これもまた当たり前のことだ。

 

しかし、この常識というものに長く浸っていると意外性がないから刺激もなくて退屈になっている。

 

この退屈を何とか打破できはしないだろうか?

 

無難な上澄みだけでなく、もう少し踏み込みが必要なのではないか?

 

敢えて会話の中に、チョイチョイ非常識な見解を放り込んでみる。

 

常識のある大人にはヤバい奴、あるいは厚顔無恥な子供のように映っているのだろう。

 

「変なことを言う」と叩かれたり、時には反応もなく気持ちではひかれたりもしてるんだろうが、時にそこから意外な盛り上がりを見せる事がある。

 

この一見危ういような非常識が、波風を立てて人を不快にさせることもあるが、一方で喜びを生むことがあるのだ。

 

常識を外れるとそこに面白みがあり喜びがある。

 

 

思うに、あらゆる気づきや発見や発明は、それまでの非常識だ。

 

しようもない非常識も多々あるだろうけど・・・。

 

世の中というものは一部の非常識が、後に常識に塗り替えられて移っていくものなんだと思う。

 

世の中に、常識と非常識の両方があって、常にせめぎあっているように見えてくる。

 

そして、自分と常識を一致させようとして生きる者と、自分と常識を別物と認識して常識を周りと上手くやるための単なるツールとして生きる者の2種類がいるようにも見えてくる。

 

そんな視界から、思い浮かんだのが「表現者でいこう!」というワードだった。

 

「表現する」ということは常識の上塗りでは全く面白くないし意味がない。

 

だから、常識を熟知する者が誰も思わないこと、誰も気づかないこと、あるいは、人が思っているが口に出さないこと、これらを「表現すること」になるわけだ。

 

私は、常識を単なるツールとして、自分の中に気づく非常識を表現する者でありたい。

 

そうすることで波風は立つし迷惑な人も出るだろうが、私の人生は退屈することがない。

 

忘年会で感じた一番のことがこんなことだった。

 

 

こんなもっともらしいことを言っている私なのだが、いい年をしてまだ常識に縛られることを嫌がっているただの駄々っ子であり、人のことを顧みず、自分の退屈しのぎだけを考える身勝手な奴である。

 

こんな非常識なオッサンは、周りからすると厄介者だろう。

 

そう言われても、これが私の中から湧き上がる思いであって私の気づきであることに違いはない。

 

そんな非常識な気づきを来年も大切にしていきたいと思うのだ。

 

 

※こちらにも記事を投稿しております。

 

 

コロナ禍では大変なことばかりだったが、その経験によって意識が変わって良い方向に向かったこともある。

 

TVに出ている芸能人が、体調不良で休みになって代役を立てるのがコロナ禍で当たり前になったのだが、その傾向がコロナ禍を抜けてからも続いているように感じる。

 

これは、コロナによって以前よりも「具合が悪い時は無理しない」という意識が高まったことによるものではないだろうか?

 

それまではたぶん「番組に穴を開けたらプロとして失格」などとされることが常識であったから、みんな無理してたんだろう。

 

また、WEBミーテイングというものも「まあまあ使えるじゃない?」とわかって、WEB呑み会こそやらなくなったものの、今でも簡易なミーティングに使っていて、かなりの時間短縮になっている。

 

こんな風に、様々な出来事(コロナに限らず)が、世の中の変化のキッカケになっているんだと思う。

 

 

今でも覚えているしようもないことがある。

 

それは子供の頃、親が銀行に出かける時にチャンとした外行きの正装に着替えていたこと。

 

親は銀行に借金があったわけでもなく、むしろある程度しっかりした預金があったにもかかわらず、やたらと銀行員に腰が低くて違和感があった。

 

子供心にも、銀行の知的で厳粛な雰囲気にのまれているようにすら感じたものだった。

 

私は、それに反抗するかのように(実はめんどくさかったからなのだが)、高校の時にジーパン、Tシャツ、肌足にサンダルでついて行ったら、親にこっぴどく叱られた覚えがある。

 

私はジーパン、Tシャツ、肌足にサンダルが平気になるまで結構時間がかかった。

 

ズボラな私はこの頃から、何とか着飾らなくてもいいようにならないか?を考えていたようだ。

 

その私にとっての何とか着飾らなくてもいいようにとならないのか?と思う場所が有名百貨店である。

 

以前は持参のバックまでも着飾らないとならないと思っていて、高級なバックか、その百貨店の紙袋を持って店内を歩かないと、どこか市民権を得られないのではないか?という強迫観念を持っていた。

 

これを救ってくれたのがエコバック。

 

日常使いのエコバックが薄汚れていようとも、百貨店における市民権を獲得してくれて、高級なバックや百貨店の紙袋を持たなくてもよくなった。

 

オシャレなジャージが若者に流行ったことで、オシャレでない私のジャージを紛れ込ませて、百貨店に買い物に行けるようになった。

 

※いつもマッサージの後、百貨店に行くから、ジャージが好都合なのだ。

 

百貨店側では、私のジャージはNGかもしれないが、こっちは都合よく拡大解釈している。
 

遡ると、ズボラにとって神様のようなアイテムと言えばGパンだ。

 

時間をかけてかなりの地位を築いてきてくれた。

 

耐久性が高いし、そんなに洗わなくってもいいし、洗って色落ちしても、何なら膝が抜けていても(ダメージ)、それがオシャレと認識されるようになってくれた。

 

古着ブームが更に加勢してくれているから、オッサンはまた都合よく解釈して楽になった。

 

ズボラにとってはこれらの着飾らなくていい変化は何とも有難い。

 

WEBミーティング、エコバック、ジャージ、Gパンに感謝!

 

 

※こちらにも記事を投稿しております。

 

松本人志さんは、若手お笑い芸人にとっては神様なような人だ言う。

 

そう言われるのは、その面白さも勿論だが、他に松本さんが造った言葉が多々あることの才能にもあるのだろう。

 

「空気を読む」という言葉は松本さんが造ったものらしい。

 

他にも松本さんが広めた言葉に以下のようなものがある。

「イラッとする」「絡む・絡みにくい」「ドン引き」「グダグダ」「ブルーになる」「ハードルを上げる」「事故る」

 

見てみるとお笑いで使われ始めた言葉が、日常的に使われるようになっていることがすごく多いことがわかる。

 

これらの言葉は、感覚を端的に大変上手く表しているから、このような言葉が増えることで我々のコミュニケーションが豊かになっていくように感じる。

 

最近良く聞くようになった言葉に「プロレスする」というものがある。

 

これもお笑いから広がった言葉だと思うが、同様に端的で便利だなあと思った。

 

プロレスリングからの比喩で八百長、予定調和、筋書きあり、茶番などのニュアンスを持つ。

 

お笑いの定番に、誰かをバカにしたり、失礼なことを敢えて言って、それに言われた方が怒る、キレる(本当にキレているわけではなくて演じている)というやりとりがある。

 

これをプロレスと呼んでいるのだ。

 

私の日常でも親しい仲だとこのプロレスもどきのやりとりを使ってジャレついたりすることがある。

 

ところが、この比喩「プロレス」について、プロレスファンはよく思っていないんだとか・・・。

 

プロレスというものは、予定調和、筋書きあり、などで片づけられるものではない複雑な駆け引きが戦いの中にあって、八百長や茶番などと言われることに怒り心頭なのだという。

 

非常に便利な新語なのだが、落とし穴は意外なところにあって言葉は便利だけど難しいものだ。

 

また別に、これとはちょっと毛色は違うのだが、言葉使いの難しさを感じたことがあった。

 

美容院でカット&毛染めをしていた時のこと。

 

白髪を染めなくても支障なく生きていけるのに、私如きが毛染めというオシャレをしている、という引け目がどこかになるのだろう。

 

その思いからか、「まあ、月1回の(毛染めという)贅沢もやっていいんでしょうねえ。」などと自分への慰めを美容師さんに吐露した時のこと。

 

美容師さんから、すかさず次の言葉が・・・・

 

「(贅沢ではなくて)身だしなみですよ。」

 

贅沢なんかではなくて大人が普段から当たり前にしておかないとならないんだよ、チャンとしなさい、と言われたような・・・。

 

それは、まるで昔と親から言われた小言のような言葉だった。

 

私という者は、知らず知らずに少しずつ配慮に欠いた失礼な言葉を発しているようだ。

 

いくつになっても言葉使いは難しい。

 

 

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