日々是湧日 ヒビコレユウジツ

日々是湧日 ヒビコレユウジツ

日々湧き上がる思いや感じたことを書いてます。
基本的にはより豊かに生きることを目指すものです。
映画(ドキュメンタリー多、ネタバレ多)・書籍から受け取った感想を書いているものが多いです。

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この記事は、幅を愉しむWebメディアRANGERに掲載されたものです。

 

最近、「自分らしく生きる」や「自分を表現する」などにフォーカスを当てて、記事を書いてきた。

「自分の人生を生きる」ってことにチャレンジする

「自分を表現する」時間を増やす


また、そのためには、自分の思いを大切にして、外の情報から作られる固定観念を外す必要がある、とも書いてきた。

これらのことは間違ってはいないと思っているのだが、人間に対してもっと深く理解して、かなりの覚悟を持たないと簡単にできるものではない、ということをこの本であらためて気付かせられた。

その本は、以前の記事にも登場してきているエーリッヒフロムの「自由からの逃走」

この本のメッセージを一言にまとめると、

真に自分らしく生きることは、苦痛を伴うものであって、人間は苦痛を嫌うものだから、自分らしく生きることから逃げ易いものである。

というものだ。

この本は自分らしく生きるための前提である「自由」から逃走する人間、の嵯峨を見せつけてくれている。

更に、印象深かったポイントを以下に上げてみる。

・宗教はそれへの服従によって人の自由を奪うものだが、その一方で人を安定させる側面を持つ。

・資本主義への変遷によって、人は抑圧から解放され自由を得た。

しかし、それによって、人は人との絆を失い、競争にさらされるなどの孤独と無力感にさいなまれることになった。

・人は孤独や無力感から逃走するために支配されるという不自由を選ぶことがある。


この本は1952年に発行されたもので、エーリッヒ・フロムの仮説が含まれているものではあるが、現代でも色あせることなく、心に響いてくる驚くべき内容である。

その凄さは、人間と社会との関係を貫いて見通す観察眼とでも言うのか、その先見性なのか、逆に今でも変わっていない社会と言ったらいいのか、うまく表す言葉が見つからない。


宗教にみる自由と服従
 

宗教改革者の政治や経済への関わり方というものは、難しくもあり、だからこそ興味深くもある。

社会に、君主、富裕な階級、中流階級、貧しい階級が存在している時に、宗教改革者のメッセージはどこの階層の統制にあがなって、どこの階層の解放を目指すものになるのか?という問題。

15世紀の宗教改革者マルティン・ルターは、教会の権威を恐れたが、政治的にはどんな暴君であろうとも君主の権威に対する服従を熱烈に要請していた。

何らかの支配から、人が解放されることで幸せに導くはずの、宗教改革者も服従を希望するところに矛盾を感じる。

宗教改革者にもジレンマがあったのだ。

権威を壊わした時、その代わりに別の権威が必要になる。

ここにも人類の長ーい課題である権力統制と自由の問題を見ることもできる。

とは言えルターは、孤独と無力感に押しつぶされそうな社会を神への完全服従という形でとにかく民衆を救った。

すなわち汝が完全に服従し、みずからの個人的な無意味さを認めるならば、そのとき、全能の神は喜んで汝を愛し、汝を救おうとするであろうと。

自己の無意味さの感情から解放され、神の栄光に参加することができるであろう。


こうして、ルターはひとびとを教会の権威から解放したが、一方では、ひとびとをさらに専制的な権威に服従させた。

すなわち神にである。


自由になることによって起こる問題は、制限のかかった不自由によって解決される。

ここでの不自由とは宗教への服従、見方を逆にすると、宗教による統制である。

見えないものが含まれる宗教というわかりずらいものを「制限されることで安定を得ることができる装置のようなもの」と捉えることは、ひとつの客観的な側面だと感じる。

この制限&安定はセットになり、自由&不安定は、必ずセットとして現れる。

このことは宗教に限らず、何に対しても現れる、逃れることができない普遍性なのだ。

そしてまた、ある権威から自由になるために、別の権威ールターで言えば神という権威ーが構築されることを繰り返すのも人間のこれまでの特徴だ。


資本主義にみる自由と孤独
 

資本主義によって、人は職業の選択の幅を広げ、やり方次第では多くの富を得ることができる、といった自由を獲得することになった。

この結果、経済発展がもたらされてきた。

当然ながら、豊かになって幸せになった面がある。

これに対して、エーリッヒ・フロムは、資本主義のネガティブな面を3点ほどあげている。

①競争に迫られて、常に不安を持つようになったこと。

②その競争の結果、老後の心配が増加したこと。(若い人との競争により)

③人と人の絆が失われたこと。


資本主義経済以前の中世の封建的経済組織にあった、固定性と比較的な安定性が失われた。

人生の主人が組織から個人に移った。

成功も失敗も個人の責任となった。

(このことは現代では当たり前のように思えるが、当時の人は現代の人より、個人あるいは自我という感覚が薄く組織への帰属感が強かったらしい。)

人と人の絆の喪失については、このようなことを言っている。

資本主義によって人はすべての物を価値で判断するようになった。

価値とはお金になるかならないかの価値であり、仕事や物やサービスを価値で評価し始めた。

そして、人までもをその価値で評価する感覚が当たり前になった。

使えるか使えないか、いくらになるのかと。

これによって、人の本来の絆ーお金の価値以外のもの、いわゆる無償の愛によるーを失ってしまった。

確かに、家族を見る時ですら、金銭価値の視点が占めるようになっているように感じる。

これに対して、「何を今の時代に子供みたいなことを!」などと感じたならば、まさにあなたは、絆を失った人なのだ。

現代は、この絆の喪失に対して、SNSなどで繋がった新たな絆ー本書では二次的絆と言っているーで繋がろうという反作用が出てきていると見ることができると思う。

更に、人々は自由を得ることができて、個人として立ったはずにもかかわらず、成功をおさめるために組織の歯車にならざるを得ないことがわかってしまった。

これらのことが、人を孤独にして、無力感を増大させた。

この個人の孤独と無力の感情を、一般の普通人はまったく意識していない。

それらはかれらにはあまりに恐ろしすぎるのである。

それは毎日の型のような活動、個人的または社会的な関係において見いだす確信と賞賛、事業における成功、あらゆる気晴らし、「たのしみ」「つきあい」「遊覧」などによって覆い隠される。

よく適応しているという意味で正常な人間は、人間的価値についてしばしば、神経症的な人間よりも、いっそう不健康である場合がある。


これは、どれだけ事業で成功しても、娯楽を楽しんでも、根底にある孤独感と無力感はぬぐえるものではない、という意味合いである。

これを感じられ、共感できる人は、現代にどのくらいいるものだろうか?

逆に感じられない人がどれだけ多いのだろうか?

更に、資本主義の最大のツール「広告」については、広告は何かの権威、何かの美しさ、何かの性的な表現、何かの恐怖を煽ることで、広告に対する批判的な思考能力を鈍化させているという。

批判的な思考能力を鈍化させるこのような方法は、われわれのデモクラシーにとって、多くのあからさまな攻撃よりもはるかに危険であり、発売禁止になるようなエロ文学よりもはるかに非道徳的ー人間の統一性という観点からしてーである。

このことは、日本における戦後のGHQの3S政策とリンクする。

教育によっても思考能力の鈍化が進んでいる。

無関係の事実が学生の頭に詰め込まれ、これに時間とエネルギーが費やされ、ほとんど考える暇がない。

「情報」だけでは、情報のないのと同じように、思考にとっては障害となる。


不要な情報の詰め込みによって思考を奪われることは自分も経験済である。

言われて見れば非常にシンプルな話だ。

有限な時間を、情報記憶に使うか、思考に使うか、どちらに時間を割くかということだけの話。

そして、思考をしたとしても、その思考はお金を稼ぐための思考だけに拘束されている。

これらのことは、教育によって思考が奪われ、自由が奪われる面があるということを示してくれている。

ちなみに、教育から獲得したテスト〇点、〇〇大学卒業などは権威主義そのものでもある。

そして、権威主義者や思考停止者は支配しやすいということでもある。


孤独から逃走をする人間
 

エーリッヒ・フロムは、孤独と無力感に破壊性が加わった心理状態が、ドイツのファシズムの要因になった、と分析している。

少し横道にそれるのだが、この破壊性の話によって私の固定観念がまたひとつ外された。

私は、「人間が争う理由は生物的に生きながらえるために自然なこと」であると一旦解釈する記事を以前に書いた。

だから、人間が争いやすいのはやむを得ないところもあるから、あまり目くじら立てずに行こう、というような内容。

記事「生きながらえるために」

エーリッヒ・フロムは、争う理由に、確かに生存本能はあるが、それ以外の別のものがある、としている。

それは溜め込んだ「破壊性」である。

人は自発的な成長と表現の妨害によって、破壊性を溜めることになり、この鬱屈とした破壊性がある拍子に爆発する。

破壊性は生きられない生命の爆発である。

生命の成長や表現が実現されれば破壊性は弱まる。


この破壊性に悩まされる人は神経症という病気と認定される。

一方で、破壊性を我慢できたり、あるいは、何か別のものに転嫁する資質がある人は、一般的に正常であるように見えるが、実はこのような人は、神経症の人より不健康なのである。

争いの原因が、「除外できない必要な生存本能」であるという固定観念に加えて、「除外可能な破壊性」がある、という新たな認識が生まれた。

このことによって破壊性を取り除くことにフォーカスが当たる。

破壊性を取り除くには、生命の成長や生命の表現をすることを制限しないこと、これは、以前からしあわせに生きるために必要だと自分が思っていたことに一致する。

このことで確信を持てるようになり、そこに拍車をかけられるようになる。

このことが、この固定観念が外れたことの意義と言える。

本筋に戻って、自由を求めるはずの人間が、自由によってもたらされた孤独や無力感に耐えられずに、何かの司令下(例えばファシズム)に身を委ねることがある。

孤独や無力感から逃走する方法は、自己を捨てて自分の外にある組織やシステムに身を委ねることである。

自由と孤独の戦いを終わらせて、自己を失くして組織に完全適応すれば、孤独や無力感という苦痛はなくなるという。

彼は期待されているような人間になろうとして、その代償に彼の自己を捨てている。

こうして純粋な個性と自然性とはすべて失われるであろう。

あらゆる神経症の核心は、自由と独立を求める戦いにある。

正常な人々の多くは、この戦いを完全な自己放棄のうちに終わらせる。

こうして彼らはうまく適応し、正常であると認められるようになる。


孤独や無力感は、サディズム・マゾヒズム的な性格の原因にもなるという。

サディズム的性格は、自分の中のその不安定さを、外部を傷つけ、支配することの快感で埋めようとする。

マゾヒズム的性格は、自分の中の不安定さを、自分を痛め付けることの合理性による快感で埋めようとする。

共に外に依存している状態であり、それを権威主義的性格と言ってもいい。

自分の価値基準を放棄して、外の基準にすがる。

外の基準に依存する。

耐えられない苦痛を感じれば、それを避けようとするのが人間の知恵でもあるのだが、それが外にある組織、システム、価値基準の下僕となることで実現する。

どうも、苦痛の回避方法が根本的ではなくて、対処法になってしまうということのようだ。

風邪にかかった時に、風邪薬を飲んで熱を下げることと同様である。


これらを知ることは何に活かせるだろうか?
 

これらの内容を踏まえた上で、自由になる方法は、自分にある「固定観念をはずすこと」なのだ、ともう一回言いたい。

人は権威のあるところから、こうだと言われれば、それが正解とばかりに、それで賢くなった、とばかりに信じてしまう生き物だ。

まさに、催眠術で暗示にかかっているようなものだ。

だから、まずはチャンと思考に時間をかけること、チャンと物事を疑うことが固定観念を外すための一歩である。

固定観念は自分の想像以上に無意識に自分の身体に浸潤していることを認識する必要があるだろう。

私の固定観念は、今回もいくつか外れることになった。

ところが、固定観念を外すことも含めて、自由になることには孤独と無力感がついて回る。

確かに固定観念に乗っかかっていた方が、安定して楽なのかもしれない。

もはや固定観念というものは、正しいか間違っているかの問題ではなく、不安定で揺れる身体の軸を体裁上固定して不安を払拭することに目的があるのだ、と思えてきた。

これに対して、私は揺らいでいく、と記事でも宣言しているから、この対比が面白く、いちおう整合性がとれているようだ。

記事 人生はカウンターを当ててずーっと「揺らいでいく」のがいい。


真の自由、真の自分らしさを生きるためには、孤独を受け入れる必要がある。

外の環境に置かれた自分を見た時の無力感から、自分の内面から湧き出る有力感に変えないとならない。

そうすることで、自由から逃走しない自分が立つ必要がある。

自由に生きるのは、簡単なことではない。

もちろん、自由&不安定(孤独)と不自由&安定のどちらを選ぶかは、それこそ個人の自由だ。

ただ、私がいいたいことは、限られた人生を生きるならば、知らないうちに流されるのではなく、これらの構造を知った上で、自分で選択したいということだ。

後悔しないように・・・。

ところで、豊かになった資本主義社会のネガティブな面を掘り返して見せつけられたことは、一体何の足しになるのだろうか?

資本主義から別の何かに変わるわけでもないし、別の主義を主張するものでもない。

我々は、資本主義社会に生まれ落ちた。

当初、資本主義への転換を経験した人はそれ以前と比較して、かなりインパクトを受けたのだろうが、我々は慣れっこになってしまった。

しかし、我々自信をよーく観察すると、ぬぐえない不安や恐怖がある、当時の人とこの根本は同じなのだと思う。

我々が資本主義社会に対して持つイメージにも固定観念がベッタリとくっついている。

意識もせずにいいイメージだけがくっついているのかもしれない。

素晴らしい面を持っている資本主義についても、他のあらゆることについても、世の中に万能なものは存在しない。

物事に必ず光と影が存在するという普遍性。

これらの知りたくないネガティブ要素、”影”に光を当てることは、”影”を克服するための一歩である。

影に蓋をするのではなく、影をしっかりと感じること、ここまでの歴史的背景が手伝ってその影について府に落ちる。

それだけでどこか許せる感覚が湧いてきて、日々の生活がほんの少し楽になる。

そして、それが『未来の影と光を超えた世界』につながるのだ、と信じるものである。

 この記事は、日頃の何気ない出来事を綴ったものです。

4つの別々の出来事を掲載しています。


自分の狡猾な脳が働いていないことが確認できた瞬間

スーパーの駐車場でスマホを拾った。

スーパーのサービスカウンターに持っていったら受け取ってくれるのだろうか?

派出所に届けないといけなくなるのか?などと思案した。

もし自分が落としたならばどう感じるだろうか?

どこで紛失したのかを考えて、サービスカウンターにたどり着いたり、警察に問い合わせたりするのだろう。

そのようにしながら、戻って来るかわからないという不安な時間を過ごすより、まずはスマホがある、ということを知るのが早ければ有難いだろう。

そう、拾った人間がいることを知らせることで不安な時間が少ないことを望むはずだ。

スマホケースの中を開いてみると、名刺が何枚か入っていて、手前のポケットに一枚だけある名刺は、お寺の住職のものだった。

何となくスマホケースからお香の香りがして、持ち主がこの住職なのだろうと感じられた。

それでお寺に電話してみると、その名前から住職の物であることはわかったが、住職は不在なので折り返し電話するとのこと。

スマホを拾った場所がある一台の車の横だったこともあって、持ち主の住職はまだこのスーパーにいるのではないだろうか?

もしその場で渡せたら、最高ではないか?という思いももたげてくる。

そんな風にしながらスーパーの中を見回すと、坊主頭の中年のおじさんは、すべて住職に見えてくる。

それっぽいなあ、と思うのだが声をかける勇気が出ない。

そうこうしながら、駐車場に戻ると横の車はいなくなっていた。

住職から電話がかかってきて、受取をどうしましょうか?という話になって、結局、私が車でお寺まで届けることにした。

住職は紛失していたことに気付いてもいなかったのだから、とにかく不安な時間が短くて良かったんだと思った。

寺に到着すると住職が門前で待っていた。

今思えば、スーパーで見た坊主頭の人の中のひとりだった。

やはり、隣に停まっていた車が住職のものだった。

スマホを渡して、落とした場所を伝えると、「ちょっとまって」と言われて、住職が奥から紙袋をもって出てきた。

中を見ると「御礼に」とのことで、ワインと柿5個と味付け海苔が入っていた。

スマホを届けたごとき行為に対して恐縮したが、あまり断るのも何だから、有難く受け取って退散した。

御礼品をいただいてしまった自分がどこかバツが悪く、反省のために?なのか、後からこの時の自分の心境を客観視してみた。

「おまえは、住職のスマホだから届けたんではなかったのか?」

「住職ならば、恩に報いるお返しを期待できるという考え方もできるだろう。」

その問いに対して、

「いや、なかった」

と私は答えられた。

その時には、もちろん見返りのことは一切頭になかったことが確認できた。

その時の思いは、確かに、持ち主が不安な時間を少なくするためにできることを無理なくやろう、という一点の思いだった。

何かいいことをした、という感覚もあまりなくて、御礼をいただいたことにラッキーという感覚もあまりなくて、ただ私の前に訪れた縁だった、とだけ感じている自分がいた。

それは、狡猾な脳があまり働いていない自分を確認できた瞬間だった。

それを確認できたことで、このことが自分にとって良い出来事だと感じられた。


仏教でいう「空」ってこんなことなんじゃないの?

最近、対話の仕方に関する本を読んで、「経験に心を開いている」という言葉が印象深かった。

「経験に心を開いている」人が対話によって他の人から何かを学ぶことができる、ということに共感した。

このことに関連する言葉が別にあった。

デビットボーム 書籍「ダイアローグ」ではこんなことを言っている。

「質問を、ブロックする人たちは、自分にとって非常に大切かもしれない考えに、存在する矛盾との直面を無意識に避けているのだ。」

世の中のみんなが言っていること。

直観がそうだと思ったこと。

よく考えもせずに自分がこれが正しいと決めたこと。

これらを信じて人は生きている。

しかし、時にその信じていたことがどうも違っていたかも、ということを知るような出来事が起きる。

違わないにしても、他の考え方や事例があることを知るようなことも起きる。

それが、他人との会話によって起こる時がある。

自分のここまで大切にしてきた考えに対して、

「外から蒸し返して欲しくない。」

それはプライドが許さないからなのか?

めんどくさいことを考えたくないからなのか?

理由はわからないが、とにかく人は変えたくないのだ。

この気持ちが多かれ少なかれあることは自然に理解できるものではある。


ここまでのことについて思ったことがある。

「経験に心を開いている」とは、

何もこだわりのない白いキャンパスのような状態に対話の中身を受け入れることのようだ。

あるいは、柔軟性を持っていて相手の言葉で自分が柳のようにしなやかに受け入れるようなことだとも感じた。

そして、この心を開いている状態の最上級が「空」であるのではないか?

ふとそんな思いが浮かんだ。

この直観が正しいかは怪しいものなのだが・・・。

仏教でいう「空」はわかりにくいものであるので、何かの例示で近づいてみたい。

「空」は何もないし、何でも入る状態、どんな情報もどんな経験も受け入れることができるのではないだろうか?

前提として、年齢差や性別や肩書きや金銭的な依存関係などによる上下関係が存在しない。

だから、教える側も教えられる側もない。

教える側でも教えられる側でもある。

「教える」とは語弊がある。

気づく側でもあるし、気づかせる側でもある。

と言った方がいいのか・・・。

気づかせた側は相手がどんな気づきだったかについて本質を知る由もない。

そして、新しいものを受け入れたとしても、またそれが経験や記憶としてどこかにはあるのだが、どこにいったか雲散霧消して、また「空」に戻る。

そんな風に「空」らしきものを感じてみた。

さて、自分はどんな時でもどんな相手の前でも、この「空」のような状態でいることができるだろうか?

 


突然上がる危機レベルにあなたは対応できるか?

ある居酒屋でそこの常連さんたちと呑んでいた時のこと。

トイレに入った女性が、ドンと言う音と共に閉じ籠って出てこなくなった。

そこのトイレは男女兼用で個室がひとつしかない。

居酒屋には、おや?どうしたんだろう?という空気が流れたが、酔っちゃったのかな?くらいで、談笑は普通に続こうとしていた。

その時、最年長の常連が声を荒げて言った。

「世の中の男どもはまったくしようもない。

女性がお尻を出しているかもしれないことに、腰が引けてこじ開けて助けようと一切しない。

大変な状態だったらどうするんだ!」


という意味合いのことだったと思う。

居酒屋はその声に一瞬沈黙したようだったが、すぐに「大袈裟な」というような言葉も出て、その声もまたかき消された。

その時、私はこの最年長の言葉に密かにではあるが、痛く感銘した。

「確かにその通りだ。」

緊急事態は突然やってくる。

危機レベルが突然上がる。

平常においては、公然わいせつ的に見える行為を飛び越えないといけない瞬間がやってくる。

はたして、自分はその時に瞬時に適切な対応ができるのだろうか?

例えば、避難が必要になるような地震や水害時などに。

そんな思いが湧いてきていた。


それで思い出したことが、サウナの外気浴の整い椅子の話。

整い椅子に座る時に、前の人が座っていたままだと気持ち悪いからお湯で流す、ということを多くの人がやっている。

ずっと観察していると、前の人が立ち去る時に流して、次に座る人もまた流す、ということが繰り返される。

ご丁寧に2度流している。

無駄な動きをしているなあ、

日本人は清潔だなあ、

いや、潔癖だなあ、

いや、そこまで歩いて戻るのだから、運動不足の解消にはなっているから無駄ではないか。

などの思いが湧いてくる。

私の場合、そこのあたりも鈍感にできているから、性善説に基づいて(おおげさな、笑)、自分が座る時は流さずに座り、自分が椅子を立ち去る時に流すようにしている。

清潔にせず多少、他の人の菌も付着させて、それを除外するといった抵抗力をつけたほうがいいだろう、という思いも背景にある。

そんな中で、混んでいて整い椅子が奪い合いになる時がある。

そんな時には潔癖だった日本人が、流すことをしなくなる。

流すために、少し離れた湯船までお湯を汲みに行っているとその間に椅子を取られてしまうからだ。

まさに、危機レベルが上がった瞬間だ。

私はそんなしようもないことを観察しながら、整い椅子でととのうのを待っている。

危機レベルが上がる話で一番に思い出したのがこの整い椅子の話とは・・・

なんと平和ボケな人間なのだろうか?

危機レベルは突然上がる。

こんなんでは、そんな時に自分は適切な対応なんかできそうもない。汗。

ちなみに、冒頭の居酒屋のトイレに閉じこもった女性は、15分程度経過した頃だったか、自力でトイレから出てきた。

飲みすぎによる体調不良で休憩していた?動けなかった?ということだったらしい。

このケースは大事にならずに済んだのでご安心を。


「双極症」から自分のルーツをたどる

占いの番組に双極症を克服しようとしている20代の女性が出ていた。

双極症とは、ハイテンションで活動的な躁状態と、憂うつで無気力なうつ状態を繰り返す症状のことだ。

その女性と占い師が双極症の原因を分析しながら対話していた。

その原因としては、以下のことが紹介されていた。

・小さい頃に離別した父に愛される時間が少なかったこと。

・小さいながら、大人足らねばならない、正しく生きなければならないと自分に負荷をかけたこと。


このことがすでに他界しているのだが、ずーっと双極症を患っていた私の母親にも共通するところがありそうだと、今更ながら思った。

私がまだ若い頃に、母は私の住む東京に遊びに来たことがあった。

 

あいにくの雨だったディズニーランドはむしろアトラクションを待ち時間少なく、たくさん体験することができた。

 

千葉マリーンスタジアムのライトスタンドからはICHIROを応援することもできて、母は大変興奮もして楽しい時を過ごして実家に帰っていった。

 

ところが、実家に戻って電池が切れたように塞いでしまった、という話を父から聞いた。

 

この一連のことが思い出された。

当時は、我が家でも親族の間でも、その原因が遺伝的なものだとして片づけられていたようだった。

母親のことで私が記憶していることをつなぎ合わせてみると、母親の両親は母が大人になるまで健在であったし、私が見ていて愛がないようには見えなかった。

父親は厳しい人だったとは聞いていたのだが・・・。

7人兄弟の第2子にあたり、裕福ではない家族だったので、食べていくために若い頃から働かなければならなかった。

母親は素直で前向きな人だったから、それを真に受けて真面目に取り組んだんだと思う。

両親にも姉にも甘えられる余裕はなく、大人として生きなければならなかったのではないだろうか?

そして、大人としての正しい生き方を決めて、その正しさの通りに生きなければならなくなった。

正しさを設定して、それを追い求めた人間が完璧主義で、その正しさができなかった場合に、自分を許せずに落ち込む。

母親の人生において、このようなことが繰り返えされたのではないだろうか?

あくまでも想像の話で確信はないのだが。

このことから学ぶことは何だろうか?

同じように正しさを求めて生きている人が、必ず双極症を煩う、ということはない。

人間には個体差がある。

それでも、双極症にならないにしても、正しさの設定と完璧主義はどんな人の身体にも負荷がかかることは間違いない。

言葉にするとこんなことになるだろうか・・・

・正しさができなくてもよしとすること。

・正しさの定義を変えること。

まあ人生70点でいいかと。

母親は頑固だったのでどちらもできなかったのだと思う。

晩年に、

「どうしてもできなかった、ごめんね。」

と言っていた。

子供の頃から器用で何でもできる人は、本人も頑張れば何でもできると自分に期待するようになり、その親も期待して要求を高める。

その成功体験によって、70点ではいけないという基準が出来上がる。

同時に目標=正しさのレベルが上がり、より窮屈な方に場面に進んでいく。

 

これは残念ながら必然的な法則のように思える。

逆に、子供の頃から不器用な人には、「できない慣れ」、「失敗慣れ」しているから、最初から70点の人生を歩み始める。

親が要求を高める可能性は低く、むしろ何かひとつをできるだけてすごく喜んでもくれたりする。

子供の頃の順調さ、いわゆる成功体験が、その人を縛り付け苦痛に向かわせることがある。

一方で、子供の頃から順調でないことが、うまくいかないことへの耐性を作ることになったりする。

人生にはこういったパラドックスが起こったりもする。

私の子供の頃は、学問の順調さとそれ以外の順調でないことが入り混じっていた。

そのことが、上記の意味合いにおいてはバランスがとれてラッキーだったのかもしれない。

そして、親に抵抗して、大切なこと以外はいい加減であろう、いい加減であろうとする、自分がいたように思う。

これが、自分のエネルギーの源泉のひとつになっているのではないかと思うに至る。

人間は、根底にエネルギーになる火種を抱えている。

 

それが何なのか?それがなぜそうなのか?

 

本人も意識していなかったりする。

それがその人を動かすルーツなのではないだろうか?

計算していないが、なぜだか夢中になることがある。

それが合理的だとも効率的だともいえないものなのだが。

それが湧き出て来た時に自分のルーツによるものなのだ、と後から自分という者を知るに至る。

これらのことは、反面教師としての偉大なる母親が与えてくれたもののひとつ、なのだろうと感じる。
 

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中野信子さんは脳科学者なので、人間の行動を生物学的に捉えてるところに私は共感している。

 

この本以外にも「正義中毒」などの感想をこのブログに書いたこともある。

 

生物学的に見た時に人間の行動には理由があるはず。

 

生きるために不要なものならばその行動をとらないはずなのだ。

 

人間の今の問題行動を「ただダメだからやめないといけない」とだけでは解決できるものではない、と思うし、到底納得がいかない自分がいる。

 

そういう意味で今回のこの本も興味深いものだった。

 

いくつか印象深かった記述をピックアップして感想を書いてみたい。

 

 

シャーデンフロイデ

 

タイトルのシャーデンフロイデとは、

 

「誰かが失敗した時に、沸き起こってしまう喜びの感情のこと」

 

人は、あいつだけが評価されてずるい、あいつはイケメンでずるい、といった嫉みの感情を持っていて、その人が失敗すれば、嬉しい。

 

この感情がシャーデンフロイデである。

 

このような嫉みは、自分のためだけに思っているに収まらずに、周りの人すべて、社会に対しての問題だろう、として懲罰を与えたくなる。

 

最近ではSNSなどを使って。

 

この周りのために、と思って行う懲罰を利他的懲罰という。

 

人はなぜこのような行動をとるのか?

 

これは、異端を排除することで自らのコミュニティーや組織を守るためである。

 

良かれと思って行う。

 

自粛警察などもこのひとつの例に当たる。

 

これによって人類は絶えることなく自らの子孫をつないできたのだ。

 

利他的懲罰を行わない集団は、裏切り戦略をとる個体をコントロールできず、搾取されてあっという間に地上から消え去ってしまうだろう。

 

したがって人間社会から利他的懲罰という行動がなくなることは考えられない。

 

周りに対する不寛容が生き延びる戦略であった。
 

そして、オキシトシンによって不寛容が保持されてきている。

 

(オキシトシンについては後半で)
 

私が読み取ったこの本の結論を一言でいうとこれになる。

 

利他的懲罰は組織を守るための必然であって、それがSNS上の炎上に形が変わっただけ、ということが言える。

 

 

日本人の特徴

 

日本人は自分の意見を言わない、とか組織のために自分を犠牲をする、といった良くない特徴が言われている。

 

これは環境要因が大きい。

 

まずは、米が主食である日本人だが、米作りは小麦などよりたくさんの工程を要する。

 

したがって、周りの協力が必要でグループとして動かなければならない必然性があった。

 

次に、日本は災害が多いところなので、これもみんなで協力して対処していく必然性があった。

 

これらによって、グループになって生きることを選択してきて、グループの和を乱すことが他国よりも問題視された。

 

グループ存続のために嫉みその先の利他的懲罰は特に積極的だっただろうと想像する。

 

「出る杭は打たれる」

 

という言葉も日本にピッタリする言葉なのではないかと思うのだ。

 

日本はシャーデンフロイデの宝庫と言える環境なのだろうと思う。

 

災害時の配給への整列や電車に挟まった人をみんな一丸となって助ける様子などが世界から称えられる日本もこの環境によるものであると、納得する。

 

他にこんな記載もあった。


「他にも詐欺事件は、愛情と信頼に基づいた、性善説的な社会基盤が形成されている国に多発するだろうと考えられる。

 

また、そうした国はきっと、スパイ天国でもあるでしょう。」

これはどこのこととは書いていないが、明らかに日本も含まれる、と感じる。

 

この愛の話は、次のオキシトシンの話につながる。
 

 

オキシトシン

 

オキシトシンとは脳内物質で、愛情ホルモン、幸せホルモンなどと言われる。

 

愛し合ったり、仲間を大切にしたいという気持ちが湧いてきたり、幸福感をもたらすもの。

 

心理的なものだけでなく、細胞修復や免疫向上にも寄与している。

 

オキシトシンはいいことばかりかと言えばそうではない。

 

愛するがゆえに、

 

「私から離れないで」と強制する。

 

「共同体を壊さないで」と命令する。

 

「(母親がわが子に)こうしなさい、ああしなさい」と支配する。

 

オキシトシンによるパートナーへの愛、組織への愛、子供への愛、その強さが、嫉みや利他的懲罰を後押しすることになる。

 

「愛するほど憎らしい」に当たる。

 

 

サイコパスと子供

 

サイコパスはオキシトシンを受容できづらいタイプで、人との共感性が欠落し、良心が欠如しており、罪悪感が皆無などの特徴がある。

 

また、自己中心的で、超合理的でもある。

 

子供はある種のサイコパスと言える。

 

相手の気持ちをわからずに思ったことをそのまま言ってしまう。

 

これは前頭前野が発達していないので、共感性が育っていない。

 

だから相手を容赦なく攻撃することができる。
 

よって、子供はテロリストに仕立てやすい。

 

確かに、子供は大人が普段塞いでいる、辛辣で的を射た発言をすることがある。



戦争

人はオキシトシンによって利益にもならない愛と正義を振りかざす。

 

例えば、いじめは良くないことだ、という規範意識が高いところほど、いじめが多い、という調査がある。

規範意識から外れた人は、逆にいじめてもいい、という構造が出来てしまいやすくなるから。

そこに”間違った道を選んでしまうあなたのためを思って”という愛がある。

 

小学生の「悪い人は排除してしまえばいい」という作文があった。

これに対して悪い人を排除するという考え方がディストピアであるという批判が起こり、「悪い人は排除してしまえばいい」という子供を排除してしまおうとするようなスパイラルも起こる。

あなたが思う、人として守り行うべき正義の道を進んでしまうからこそ、違う道を進む人を許せずに争いに発展してしまう。

 

これが人間が戦争を起こすベース構造である。


戦争ほど非人道的なものはないというが、戦争ほど人間的なものはないと思う。(著者)

 


感想

 

一つ書き忘れていたことに、「夫婦における決め事」がある。

 

掃除や洗濯、ゴミ出しなどの家事の役割を夫婦が分担して決めることがある。

 

この決め事は夫婦円満になるどころか、争いの原因になるケースが多いという。
 

これも、破られた時に利他的懲罰の感情から逃れられないからで、愛するパートナー、愛されるべき私が、裏切り裏切られるなんてありえない!という怒りからくるものなのだろう。

 

良かれと思った取り決めがアダになってしまう。

 

特に印象深いことは、このことのようにいろんなところにパラドックスが存在しているということだ。

 

組織 VS. 個性

 

嫉み VS. 異端の排除

 

愛・信頼 VS 詐欺

 
オキシトシン VS. サイコパス

 

愛・正義 VS. 戦争

 

双方に役割(利点)があるように思うのだが、どちらかが行きすぎることでそれに巻き込まれた人にとっては耐えられないことが起こる。

 

世の中は面白くできているものだ。

 

今思えば、確かに感じる人間性、愛などを絶対的な素晴らしいものとだけ認識して押し付けてくる同調圧力的な感覚。

 

相手にとってマイナス部分の指摘について、言わないものか、ズバッと言うべきなのか?

 

愛も必要だし合理性も必要だ、としか言いようがない。

 

言い方の工夫もあるのだろう。

 

著者は戦争は人間らしい行為だと言っているが、この言葉でスッキリする。

 

人間は道徳教育よろしく、美しい面の人間性だけを見るようにしているのだ。

 

思えば、人間は生きるために長らく戦ってきたのだ。

 

戦争を推進したいとは全く思わないし、戦争は忌々しきものだと思うが、それを失くそうとすることは、刻まれてきたDNAに反旗を翻す、大いなるチャレンジなのだと感じる。

 

 

最後に、この人間を生物学的に捉えることは、何かの解決になるのだろうか?

 

あきらめるわけではないが、気楽になれる、ということだろうか。

 

いじめにも分断にも炎上にもその先に変化した未来が訪れる。

 

「ありえなーい」とはよく聞く言葉だが、これらのことは必然なのだ。

 

人はその経験を積み重ねて環境に適応して生きながらえていく。

 

覚悟をもって火の中に飛び込むこともあるだろう。

 

火の粉が飛んで来たら振り払うだろう。

 

選択肢があるだけ。

 

ただそれだけ。

 

そこに正解も不正解もないのだ。

この記事には、マスカレード・ナイトとその前作のマスカレード・ホテルについてネタばれがある。

もちろん、犯人をはじめ、ミステリーに重要な情報を詳細には書いていないのだが、重要情報の一部にボンヤリと触れているところがある。

 

ご注意のほどを。


中学生の頃、推理小説(ミステリー小説)を読み漁ったものだ。

アガサ・クリスティーやエラリー・クイーンや森村誠一や横溝正史や松本清張。

使われるトリック、ぞくぞくする謎解きに夢中になっていた。

中でも、アガサ・クリスティーの「オリエント急行殺人事件」は、ぶっ通しで読んで完読した。

全部で5時間程度だった記憶がある。

その後、ビックリするようなトリックのネタ切れで、だんだん驚きがなくなってきたこともあり、推理小説自体の興味は薄れ、読む機会は少なくなった。

年も重ねるということで仕事以外のことに興味がなくなる、とはこういうことなのかとも思う。

そんなことで、最近のミステリーについてあまり期待していなかったのだが、それでも、有名な東野圭吾さんの作品ということで、2年以上前に映画「マスカレード・ホテル」を観ることにした。

評価は、正直「まずまず」という感じだった。

当時の自分の投稿を見つけたが、この評価の通り、あまりワクワクしたレビューではなかった。

ところが・・・

それが、時間をおいて「すごく面白い」に最近変化した。

 

この変化はこの後の詳細な分析に現れていると思う。

 

以前のレビューにはこの詳細のカケラもなく、この変化に自分も驚いている。

今までに、このようなケースの記憶がないので、そこに至った経緯を追ってみたい。


ホテルとナイトの比較

マスカレード・ホテルのシリーズ第2作であるマスカレード・ナイトが最近公開された。

この両作は共に、警察がホテルに潜入して捜査する、という物語になっている。

共通する根幹の面白さは、ホテルマンの目指すものと警察の目指すものの違いにある。

「お客様を信じるホテル側」

 

「お客様を疑う警察側」

この対立のコントラストとぶつかり合い、それによる葛藤が面白い。

まずは、両作の面白さを比較するところから始めたい。

比較項目は以下の5つ。

・登場人物の面白さ

・ホテルで矯正される主人公の面白さ

・ギミック(仕掛け)の面白さ

・謎解きの面白さ

・殺人の動機の納得感


ここからは映画を観ていない人にとっては何のこっちゃ、というものばかりだと思う。

これだけたくさんの登場人物が出てきて、たくさんの仕掛けがセットされている映画だと思っていただければと思う。

逆に観た人とは非常に共感できるものだと思う。

 

まだ抜けもあるだろうけど。


■マスカレード・ホテル■

(登場する宿泊者)

①結婚式を挙げる予定の新婦

②タバコ臭さを主張する男

③バスローブを盗む男とその女

④忙しくイラついている常連年配男

⑤盲目で杖をついて歩く老婆

⑥新田だけを攻撃するクレーマー男

⑦ストーカーされてる女

⑧そのストーカー男

⑨女装する男

⑩不倫する政治評論家と水商売女


(ホテルで矯正される主人公、新田)

・ネクタイ

・第一ボタン止める

・バッチの向き

・ポケットに入れた手

・歩き方

・髪の毛

・目付き

・「客」→「お客様」複数回

・「客だからって何でも許されるものではない」という発言。


(ギミック)

・クレームによる部屋のグレードアップ

・髪型が似合っていると言われたことへの新田の反応

・ペイパーウェイトの整頓

・「新田の好きにさせるな」

・盲目の女の手袋

・絨毯に見つかるボタン

・「部屋番号は教えないこと」

・混んで乗れないエレベーター

・画面がグレイアウトする過去の話

・椅子を蹴り上げる新田

・「まだ私を理解してもらってない」名古屋からの電話。

・「私もじっとしていられない性格で」

・わずがに覗いた女性用ハット

・鏡に映る姿(新郎新婦と刑事と容疑者)

・階段の踊り場の真っ赤な花の装飾

・変装

・「当然わがままをきいてくれますよね」

・仮面着用~どうかしました?で現実に戻る。

・嘘をついて食事会を帰ってしまう刑事。


(謎解き)

連続殺人のトリックが暗号を始めとして複雑に仕掛けられている。

そして、その謎が段階的に解かれていく。

3つの連続殺人→犯行現場は客室?→従業員の関与?→1つ目の殺人のアリバイのトリック→手口がバラバラの殺人→第4の殺人

このような思考プロセスを丁寧にトレースして、犯人にたどり着いている。

これは1回見ただけでは十分理解できていなかった。

 

理解できていなかった自分を後からやっと確認できた。

(殺害動機)

詳細に説明されて、いちおう納得はできるものだ。


■マスカレード・ナイト■

(登場する宿泊者)

①肖像NG女

②無理難題要望男

③要望男のパートナーの女

④夫婦利用を装う女

⑤不倫夫

⑥不倫夫の奥さん

⑦不倫夫の息子

⑧不倫夫の愛人

⑨ゴルフクラブを運ぶ怯える男

 

(ホテルに矯正される主人公、新田)

・髪の毛

・目付き

・「客」→「お客様」複数回(前回より少ない)

・「いつもありがとうございます」という発言。

・客室に踏み込む

・「滅相もありません」という発言。


(ギミック)

・カウントダウン仮装パーティー

・髪型が似合っていると言われたことへの新田の反応

・さんま看板

・白い風船

・白黒ゾンビ仮装女

・遅れている時計

・ピエロの仮面男

・「ほんとうにありがとう」この言葉の抑揚が片桐に似ている

・息子に持たせるカードキー

・結婚するはずだったチャペル

・「足に迷いがない」

 

・勝負ではない

・試験完了

・最後の場面 仮面着用~どうかしました?で現実に戻る、立場逆転

・食事の約束


(謎解き)

ホテルに比較すると事件のトリック自体に複雑さがない。

むしろ密告者探しが複雑になっている。

犯人と違って、密告者には意識したトリックはないが、複雑さを与えている。

段階的な謎解きも少なめで、最後は怪しさの直観、消去法で犯人に至っている。

そこにやや偶然性を感じる。


(殺害動機)

最後は、根底にある動機が警察への復讐による、ということは理解できた。

しかし、直接の殺人動機の説明はほとんどなかった。


比較しての感想

①「2作目は1作目を越えられない」のか?

潜入捜査という特殊な環境で一体何が起こるのか?

1作目は、このありえないようなシチュエーションを新鮮に感じることができる。

また、主人公が、なぜ、ホテルに勤めたのか?なぜ、刑事になったのか?
 

それぞれの背景を知って、2人の信念に基づいた行動に納得させられる。

これも1作目の特徴。

2作目は説明被りがないから、1作目の基本知識がある前提で進む。

主人公(刑事)がホテルのルールにいろいろと矯正されるのだが、主人公も経験済みだから、矯正ポイントは2作目では減っている。

「2作目は1作目を越えられない」というが、この新鮮さがなくなる=周知になることが、これに当たるのだろうと思う。

どうしてもシチュエーションに対する驚きがなくなる。

 

これはやむをえないことだ。


②登場人物の面白さ

癖のある宿泊客がいろいろと出てくるのが、また、場所がホテルならではの両作の醍醐味だ。

特殊な例が満載でオーバーにも表現しているのだろうが、ホテルにおける宿泊客の行動に、人間の縮図が現れているようにすら感じられる。

仮面を被れるホテルという場所で、従業員によって日頃にはないくらい崇められることで、人の欲が惜しげもなく現れているようだ。

比較で言うとホテルは、事件に関係ない人々も一つの物語として手厚く紹介されており、ナイトは事件関係者がほとんどである点が異なると感じた。

これは、やはり第1作目は、ホテルの宿泊客がどんな人がいるか、鑑賞者へのご挨拶がてらのお披露目の意味での散りばめ方のように感じる。

そして、第2作目は事件本筋に関する宿泊者中心へ軸をずらしているように感じた。


③ギミック

この仕掛けの多さがまた両作の面白みだ。

いろんなところに伏線が引いてある。

わかりやす過ぎのベタなギミックをネガティブに見る人もいるが、大衆娯楽としてはやむをえないようにも思う。

これについてはここまでにしておく。


④謎解き

これは推理小説の醍醐味なのだが、トリックが意外であればあるほど、複雑であればあるほど、謎解きは面白い。

そのトリックの複雑さから、ここは、ホテルに軍配があがるように感じた。


なぜ「面白い」に変化したのか?

キッカケは、ナイトを観る前に、たまたまホテルの再放送を観たこと。

そして、再放送を何回か繰り返し観たいと思ったこと。

いろいろな映画を見てきたが、同じ作品を何回も見ることをしないで生きてきた自分だったのだが、なぜなのか?

後から考えると、単純に「1回でよくわからなかったから」だったかもしれない。

とにかく作品はテンポよく進んでいく。

そのテンポの中に上記のような登場人物、ギミック、謎解きが散りばめられている。

当然、理解が追い付かないまま、流れてしまうのだ。

娯楽作品は流れてしまってもそれでいいものでもある。

ただそう思ってきた。

 

ずーっと知らず知らず自分の常識を作ってきていた。

この作品の要素によって、自分の常識が破られることになった。

好きな映画を何回も見る人からすれば、ずいぶん遅ればせながら、というような気付きではあるだろう。

何回も見たから、ギミックをこれだけ上げることができるようになった。

例えば、最終日に捕り物の舞台になる階段の途中の踊り場の赤い花の装飾。

 

これはよく見ると、映画の前半から、そこがずーっと映っていて、デザイン、配置の打ち合わせが行われている。

映っている場面の、背景になっているだけなのでピンとすら合っていない。

 

とにかく、細かく作られている。

次に、ナイトという比較対象ができたこと。

一つの映画の絶対評価には限界があると思った。

比較によって、一方にないところが感じられ、結果的に両方の良さが際立つ。

そして、上記の比較軸が立ち現れてくるのだ。

ナイトを観てホテルの良さの再発見が起こっている。

細かく作られていることにアンテナが立ってくると、ホテルでのストーカー男の最後の顔などにも注目がいくようになる。

あの顔の何とも素晴らしいことか!笑

どんな風にあの顔の演技指導があったのだろうか?

作る側の目線に少し立ってみるようになった。

映画製作に携わる監督が、役者が、音楽担当が・・・この映画を観た時の感覚は、素人が見る目と異なるのだろう。

そこには作品を純粋に見られないという良くない面も含まれるのだろうけど。

ここまでの新たな感覚に後押しされるようにして、全く意識していなかったことがもう一つ浮上した。

どうも、挿入曲が非常に好きだということだ。

メインテーマ曲が流れるとゾクゾクするようになった。

他の曲、どれもが、それぞれ場面に合っていて素晴らしい。

何かが始まるような、何かを期待させるような、自分の不安を表してくれているような感覚。

ここまでに、こんなに映画挿入曲にフォーカスしたこともないし、いろいろな感覚を持ったことはない。

もう一つ付け加えるとすると、この両作は、非日常であるホテルという場所が面白い作品なのだが、
ナイトはコロナ禍の公開で、コロナ禍では特にあり得ないシチュエーションがその舞台になっている。

仮想カウントダウンパーティだ。

その忘れてしまったような懐かしい世界、あるいは日常にはない幻想的な世界に、憧れと期待を寄せる感覚も加わって、魅力的に自分には映った。


人生をどこまで味わえているか?

ここからは映画のレビューから離れる。

映画に限らず、日常の出来事は流れていく。

例えば、写真家や画家も、流れていく日常の風景を、敢えて時間を止めて切り取って、やっとのこと味わっている。

 

このように文章にすることも切り取ることのひとつ。

人生は一部を切り取ることで何かを感じることもできるし、切り取らずに何も感じないで過ごすこともできる。

感じるもよし、流れるもよしなのだが、自分はどうもすべてのことに流れる方、表面的に生きてきたのではないだろうか・・・。

この映画の一件で自分を疑ってみるに至った。

無駄?な感情や発見をなかったことにして、効率的に生きる。

効率のためにやり過ごす。

表面的にわかったように生きてきたのではないか?

何をそんなに急いで生きるのか?

この何かに常に追われているような、拙速な生き方は我が家の血筋でもあるように感じる。

 

昔を思い出した。


人はもっとじっくりと感じながら生きることができるのだろう。

人はもっと味わって過ごすことができるものなのだろう。

味わっているか?いないか?これは、なかなか見えないところだ。

豊かさの違いは、お金でもなく地位でもない、意外にもこの見えない味わいの差に出るのではなかろうか?

やり過ごさず、じっくりゆっくり感じながら発見する、そんな対象を増やして人生を味わっていきたいものだ。

そんな人の生き方の癖にまで派生する映画レビュー経験だった。


最後に、このマスカレードホテルとマスカレードナイトもセットでもっと味わえる。

2作セットで観て味わうことで、倍以上愉しめる作品なのだと思う。

ご覧あれ。

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以前、こちらに書いた記事

「この夏、ビールについて思うことをすべて書いてみた。」


これは、あまりない知識と感覚だけで書いたものだった。

この記事がキッカケで今回の本を紹介してもらった。

この本はビールに関する知っておくべきことがいろいろな角度から網羅されていて、まさに「教科書」という名にふさわしいものだった。

自分はなんて無知なんだろう!

知らずに記事を書いた自分が、少し恥ずかしくなるようにも感じた。

それでも、書いた時の感覚が残っているから、後からその感覚と知識が結びつけられて理解が深まったように感じるし、また、知識によって感覚がまた鮮明になったようにも感じる。

印象に残ったことをピックアップして、そのあたりを書いてみたい。


【日本のビールについて】

まず、日本のビールは、歴史や風土の必然からなのか、一律な味になっていた、ということ。

世界のビールには、同じビールとは思えないような様々な味がある。

酵母の違いによって、大きくエールとラガーに分かれるが、日本の場合、ほとんどはラガーでその中でも特徴がすくない淡白な味になった。

日本人の舌は、非常に狭いピンポイントの味しか知らない、ということになる。

これには、大手寡占と大量消費などが起因している。

味に特徴がないほうが好みによらず、多くの人に受け入れられるから、大量消費には好都合である。

そして、大手寡占によって、味が少なく、コクがなく、味の差がないビールが市場を占めることになった。

そんな流れで日本においてビールは『喉の渇きを潤すためのアルコール飲料』として定着してしまった。

日本の夏の暑さにフィットしたものだったからかもしれない。

この味が少ないビールは副原料(コーンスターチなど)を入れても問題がなく、メーカーにとっても安上がりなので好都合でもあった。

また、日本の酒税率は欧米の20倍という恐ろしいほど高く、政府は取れているところからはとる、という方針。

今取れている税をみすみす減らすことなんかはしない。

なので、ビールは今でも高額のままになっている。

以上が、日本のビールについて印象深い内容。


【広告というもの】

”ドライ”という言葉は、実に日本人に、そして、時代にフィットした、上手い言葉だったと思う。

日本では、ビールにキレが欲しかった、その大衆の気持ちの的を射た言葉だったのだと思う。

アサヒスーパードライは今もなお売上ランキングNO.1に君臨する。

ちなみに、商品のネーミングや広告のキャッチコピーの言葉には、購入者側が意味を正確に捉えていないことがある。

広告の嘘はいけないが、嘘ではない。


①コクがある
 
なじみの商品群がコクのないものばかりならば、それに比較するとコクがある、と表現できてしまう。

「当社製品比」などと書くこともできる。

ところが世界のビールと比較すると、日本のビールにコクがある、とは言いづらいくらいのコクのがない種類のものであると言える。


②生ビール

酵母の活動を止めるためにする方法が、熱処理か、濾過するかで、生ビールは熱処理しないもののこと。

生はフレッシュで、風味豊かなように感じるが、比較しても実際はその差はないらしい。


むしろ、濾過することで、酵母とともに残っている微妙な旨味が、なくなってしまう。

一方、日本の大手のビールは濾過を徹底することで、保存期間を長くすることができる。

これらのように、商品の購入において購入側が商品について知らないと、勘違いしてままということになる。

まあ、最初から最後まで当人が知らなければ、意図としない商品だとは気づかないからまったく問題はないのだが。

味などの感覚的なものやイメージという曖昧なものは、気が付かないから問題ないとも言えるし、気付かないから特に注意が必要だとも言える。

いわゆる情報の非対称性。

言葉は悪いが、詐欺との境などは、微妙なものだとあらためて感じる。


【豊かになること】

ここまで見てくると、日本はGDPが世界の上位と言われ先進国と言われるが、まだまだ豊かになる余地がある、敢えていうと発展途上国だと認識していたい自分がいる。

いろいろな『豊か』があり、豊かになってきている日本なので、たかだか嗜好品のビールの話だけで、豊かか豊かでないか言い切れるものではないが、別のいろいろなことでも感じることがある。

この本にあるようなビールの常識を知らなかった、この無知な自分の存在が、まさに、日本の豊かさが発展途上であることを表していると思う。

 

無知では豊かになれない。

人間は、飲み慣れる味だから美味しい、と感じるものでもあり、手に入れやすいものが購入されるというように選択は固定されるものでもある。

戦後75年もが経過し、時はずいぶん素早く流れているようにも感じるが、価値観や習慣の変化は意外にもゆっくりのようにも感じる。

飲み慣れた味以外に美味しいものがあるかもしれないという好奇心がないと変わらない。

今は豊かではない、ということに気づかずには豊かにならない。

一律の味からスタートした日本だが、地ビールブームもあって、今やいろいろなビールを飲めるようになった。

年表を上からひいてみた場合に、ビールの味一律大量消費時代(←造語)は、あたかも「バブルの時代」のような一過性のものだったということになるのではないだろうか?

その時代が終わって、純粋に好き好きに分かれていく時代なのだろうと思う。

これがほんとの豊かさ。

思えば、強制されているとは気づかず、強制されている、別の言い方をすれば飼いならされているものが世の中にはいろいろ存在するのではないだろうか?

ビールに限らず、一律に強制されるより、個性が出せる社会が豊かな社会だと思う。

時代は確実にそちらに流れている。


【苦みについて】

以前の記事で、私はビールの苦みが好きだ、と書いた。

苦みを出すホップを通常より大量に使うIPA(インディアンペールエール)。

ホップは、強い殺菌作用をもたらす原料で、インドから腐敗させずに運び出すために、大量のホップを入れたのがIPAの始まり。

私の好みの苦みが、歴史の必然をキッカケにしていたとは、考えもしなかった。

ホップは殺菌と苦みだけでなく、香りを与え、泡もちも良くする、などビールのために存在するような植物だ。

この苦みは、イソ・アルファ酸という成分なのだが、最近の研究でこのイソ・アルファ酸が、アルツハイマーの抑制に効果がある、という研究も出てきている。

ニュースリリース 2017年9月


とにかく、ホップに、苦みに、感謝である。


【ドイツのビール】

この本では、各国のビールの特徴を紹介しているが、その中のドイツビールについて。

ドイツは、ビール作りにとてもこだわりがある国。

16世紀に、水と酵母、ホップと麦芽のみを使用してビールを作ることが法律で決まっていて、それを今でもずっと維持しているとのこと。

ちなみに、ドイツのビールは500ミリリットル100円程度と安い。

25か国を旅した私が激選!おすすめ・人気海外ビール13選より

探してみると、このドイツビールの美味しさに惚れて、日本で醸造し始めた醸造所があった。

富士桜高原ビール

ドイツのラオホという伝統的な燻煙ビールがあるが、富士桜高原ビールは、ブナのチップで燻した麦芽をドイツから取り寄せて醸造しているという。

購入してみた。

この醸造所の他のビールはそれもIPAとはまた全く異なる味だ。

どれか一つを選べ、と言われれば私はIPAに軍配が上がるのだが、これはこれでまた別の美味しさがあった。

幅がひとつ広がった。


【余談】

①美味しければ、蘊蓄なんかどうでもいい。

②コンテキスト(生産者や原材料や製造工程など)を知ると味が違う。


2つの逆のことが言われる。

私は頭で考える方だったので、頭で(コンテキスト)で食べるのはどうなんだろう?と思ったことがあった。

だから、感覚だけを大切にするひとりキャンペーンをやっていた期間もあった。

今回のビールの一件では、自分の感覚の大切さを感じると同時に、感覚だけでは視界が狭くなるため、知識の大切さもまた感じた。

知識によって視界が広がり比較することで、自分の感覚が深く、鋭く感じられるようになる、という感覚もある。

”広告”のところで書いたが、豊かな選択をするためには、無知であってはいけない。

多くの購入者が勉強して、本当の自分の好きなものを選択することで、世の中に豊かなものが増えていく。

知識を入れないと遭遇しなかったものに出会い、その感覚を新しく感じていく。

知識に感覚が引っ張られるものではない。

そういう意味では、感覚と知識を分ける必要がある。

一方では、感覚と知識を融合させることでまた感覚が際立つ。

物事は振り子のように揺れながら進んでいくもの、これがまた豊かなことなのかもしれない。