蘇我・物部の抗争(3)~石上神宮 と 物部氏 ―1― 【 聖徳太子 伝説 】
物部氏は代々、大和朝廷の祭祀と軍事の両方をつかさどっていました。
物部の"物”は、武器としての”物の具”を指します。
また祭祀として、精霊、御霊を指す”モノノケ”を意味します。
代々氏神として奈良県天理市に石上神宮(いそのかみじんぐう)があります。
物部氏の遠祖はニギハヤヒノミコト。
「古事記」、「日本書紀」によれば、神武天皇より神剣「布都御霊(ふつのみたま)」を授かり、祭神として祀っています。
当時、石上神宮は大和政権の武器庫として性格をもち、膨大な数の武器が収納されていたそうです。
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物部の"物”は、武器としての”物の具”を指します。
また祭祀として、精霊、御霊を指す”モノノケ”を意味します。
代々氏神として奈良県天理市に石上神宮(いそのかみじんぐう)があります。
物部氏の遠祖はニギハヤヒノミコト。
「古事記」、「日本書紀」によれば、神武天皇より神剣「布都御霊(ふつのみたま)」を授かり、祭神として祀っています。
当時、石上神宮は大和政権の武器庫として性格をもち、膨大な数の武器が収納されていたそうです。
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蘇我・物部の抗争(2)~ 蘇我氏 と 物部の対立 【 聖徳太子 伝説 】
6世紀はじめの奈良は明日香村。
512年。
大和朝廷の二大勢力は、物部(もののべ)氏と、大伴(おおとも)氏でした。
大伴氏は外交で失策をまねき、物部尾輿(もののべのおこし)に弾劾され失脚します。
さて、一方は蘇我氏です。
蘇我稲目(そがのいなめ)は、大和葛城の地方豪族でした。
その頃、積極的に大陸の知識や技術を取り入れ、繁栄の基盤を築いていました。
更に娘を、欽明天皇の妃にし、天皇家と濃密な婚姻関係を築きあげました。
衰退する大伴氏に替わって、 めきめきと勢力を伸ばし、台頭してきたのでした。
それが物部氏には気にくわない。
崇仏・排仏の論争 をきっかけに、対立があかるみになり、
その構図は、次代の子たち、蘇我馬子(そがのうまこ)と、物部守屋(もののべのもりや)へ引き継がれていきます。
そして、二大勢力がいがみ合い、きなくさい時代にあいまって、
厩戸皇子(うまやどのみこ)、後の聖徳太子が誕生します。
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512年。
大和朝廷の二大勢力は、物部(もののべ)氏と、大伴(おおとも)氏でした。
大伴氏は外交で失策をまねき、物部尾輿(もののべのおこし)に弾劾され失脚します。
さて、一方は蘇我氏です。
蘇我稲目(そがのいなめ)は、大和葛城の地方豪族でした。
その頃、積極的に大陸の知識や技術を取り入れ、繁栄の基盤を築いていました。
更に娘を、欽明天皇の妃にし、天皇家と濃密な婚姻関係を築きあげました。
衰退する大伴氏に替わって、 めきめきと勢力を伸ばし、台頭してきたのでした。
それが物部氏には気にくわない。
崇仏・排仏の論争 をきっかけに、対立があかるみになり、
その構図は、次代の子たち、蘇我馬子(そがのうまこ)と、物部守屋(もののべのもりや)へ引き継がれていきます。
そして、二大勢力がいがみ合い、きなくさい時代にあいまって、
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奈良妖怪大戦争―蘇我・物部の抗争(1)~仏教公伝。崇仏・排仏闘争
蘇我・物部の抗争(1)~仏教公伝 。崇仏 ・ 排仏 闘争 【 聖徳太子 伝説 】
538年 ―
「日本書記」欽明天皇13年。
正式に日本に仏教が伝来された年です。
「仏の顔とは、なんと端麗で美しいのか」
百済(くだら)から献じられた釈迦仏に欽明天皇は、そう感嘆の声をあげた。
「これは、礼(うやま)うべきや否や。」
と群臣たちに礼拝の可否をはかった。
このときしたりと得意になったのは、蘇我稲目(そがのいなめ)であった。
「近隣諸国が敬っているのに、わが国が例外であってよいものでしょうか。」
これに対し、物部尾輿(もののべのおこし)は、まっこうから反対する。
「他の国の神をあがめれば、わが国の国神(くにつかみ)がおいかりになるでしょう。」
結果、蘇我稲目が、功徳があるか試すため、私邸を寺とし、私的に礼拝することとなりました。
しかしその後、各地で疫病が蔓延し、おびただしい死者がでました。
これを機に物部尾輿は国神の天罰といいがかりをつけ、天皇に奏上。
蘇我稲目に仏像を破棄、寺を焼き払わせた。
当時、大和朝廷の二大勢力であった物部と、蘇我。
古くから軍事と祭祀司る物部。
渡来人をとりまとめ大陸からの文化を朝廷にもたらす蘇我。
崇仏か排仏かの争点より、双方の対立があかるめとなりました。
今でいう、神仏和合。
日本人が神と仏をともに敬う習慣にいたるまで、日本では政争と宗教戦争が繰り広げられるのでした。
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