呪われた都・平城京。権力闘争の果てに~世界初の夫婦物語―3―【平城遷都1300年祭】記念 奈良
世界初の夫婦。聖武天皇と光明皇后。
世界初の偉業をなした夫婦の物語、もう少し、お付き合いください。
平城京遷都。
694年、飛鳥から藤原京へ遷都、しかし、山に囲まれ交通の便が悪いこともあり、
新たに平城京を建設をはじめたのが、707年。
指揮をとったのが、藤原不比等(ふじわらのふひと)でした。
そして、710年に完了したのでした。
それが、来年2010年から数えて1300年前の出来事でした。
「あをによし
奈良の都は 咲く花のにおうがごとく
今盛りなり」
美しい都、平城京
平城京は遣唐使が持ち帰った最新技術をふんだんにつぎ込んだ都でした。
南北に走る朱雀大路を中心に、左京と右京に分け、碁盤の目のように走る道で区画を整理しました。
北部に内裏、その周囲に政務の場として大極殿(2009年11月現在・復元中)と、官庁地区が配置されたのです。
以後、794年の平安京遷都まで、奈良時代として呼びます。
720年、藤原不比等が亡くなると、「長屋王の変」が起こります。
藤原不比等の死後、息子である藤原四兄弟が政治の主権をとります。
天皇の後継ぎ問題で、長屋王と対立。
結果、長屋王の一族もろとも滅亡に追いやります。
しかし、長屋王のタタリか、天然痘が流行します。
藤原四兄弟をはじめ、聖武天皇を支えていた大勢の高級官僚たちが倒れてゆきます。
主導者を失った聖武天皇は、急きょ、身分の低い橘諸兄、吉備真備などを抜擢し政治を行います。
藤原氏は一時衰退の様相をみせます。
しかし・・・
不満を抱いたのが藤原四兄弟の一人、藤原広嗣(ひろつぐ)。
地位を落とされ、批判するが、九州は太宰府に左遷されます。
そこで、乱をおこします。
740年(天平12年)。「藤原広嗣の乱」です。
母、そして皇后と藤原の血をひく聖武天皇のとって、同族である広嗣の反乱は、衝撃であったのです。
乱は鎮圧され、広嗣は逃亡の末、捕縛、斬首となったのでした。
・・・ようやく授かった子を失い、
長屋王の変、
天然痘の流行、そして、
政治の主導者を失い、
同族の反乱、
飢饉・・・
都は、タタリか、長屋王の呪いかと、噂でもちきりになります。
暗い時代がつづきます。
ある日、聖武天皇は、平城京を離れ、伊勢行幸へ出かけました。
最初の逗留地が、奈良市は都祁地区になります。
その石碑が、都祁水分神社
に残されています。
そして・・・
同年、橘諸兄の本拠地である、京都府木津氏は、に恭仁京(くにきょう)に遷都してしまいます。
2040年は、恭仁京遷都1300年祭・・・はしないでしょうね。
恭仁京遷都は、都建設途中の742年に放置されます。
次に滋賀県甲賀市の745年紫香楽宮(しがらきのみや)へ遷都します。
都とは、つまり今でいう首都”東京”である。
天皇が都をかまえたら、代が変わるまで遷都しないの通常でした。
しかし、聖武天皇は5年の間、平城京を放置し、この後、大阪は、難波宮(なんばきゅう)、そして再び、紫香楽宮へと5回も遷都を繰り返したのでした。
その間に、平城京は荒れ果ててしまいます。
その時に、この歌がうたわれたのです。
「世間(よのなか)を常なきものと今ぞ知る
平城(なら)の都のうつろふを見れば」
聖武天皇は、遷都をくりかえすことで、天命に則しているのか、否かと、不安に駆られていたのでした。
また、政治的背景にもおおきく影響していました。
上皇や、実験をもった橘諸兄を意識し、流されていたのも大きな理由のひとつです。
天皇たる威厳、自信すらうしなった聖武天皇。
すっかりおびえてしまった上、遷都を繰り返すあまり、人民の不満、不信感をかうことになり、
また、周辺で火災や地震が頻発します。
政情不安については、橘諸兄の活躍で、回復の兆しをみせてはいました。
行政政策の一方で、聖武天皇は、鎮護国家思想をもって、自身を、そして人々の不安をのぞき、心を落ち着かせようと考えます。
文字通り「神頼み」ですね。
それは・・・
次回「行基登場。世界初の黄金大仏を建立。
」つづく
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日本最初の福祉。光明皇后 法華寺 ~世界初の夫婦物語―2―【平城遷都1300年祭】記念 奈良
平城遷都と、大仏建立のお話。
聖武天皇と光明皇后~世界初の夫婦物語
1.聖武天皇と光明皇后 のつづきです。
平城京跡地から、更に20分ほど進むと、法華寺町とよばれる閑静な住宅街があります。
辻々にお地蔵様の祠が祀られており、ここの町のひとたちの信心深さをしのばれます。
そして、しばらく歩くと5本線が入った立派な土塀が目に入ります。
法華寺(ほっけてら)です。
大化改新の立役者であり、藤原氏の祖の中臣鎌足の次男、藤原不比等の旧宅です。
後に、娘である藤原安宿媛(ふじわらのやすかべひめ)が、聖武天皇の后となったときに皇后宮としました。
更に後、寺に改めたのでした。
若干24歳で即位した聖武天皇。
彼を支えていたのが、妻であるこの藤原安宿媛です。
後の光明皇后。
正式な尊号は天平応真仁正皇太后。
民間出身の皇后の第一号です。
しかし、皇族ではない彼女は、藤原氏の権力をもって后になったと、陰ながら誹りをうけます。
そんな中傷をものとせず、天皇を支え、貧困と伝染病にあえぐ民衆のために奔走されていました。
光明皇后は仏教を深く信仰されていました。
とても慈悲深く、また聡明なうえ、光り輝く美貌だと伝えられています。
ゆえに光明子、光明皇后と人々に尊敬の念でよばれるようになったのでした。
政情不安そして、飢饉や疫病に日本中があえぐ中、社会福祉に大変貢献されます。
日本最初の福祉を行ったのが、この光明皇后が開いた悲田院、施薬院といわれています。
悲田院は、身寄りのない子どもや年寄りの世話をしました。
施薬院は、貧しくて医師に診てもらえない者に治療を施します。
近代において、
明治天皇の皇后・昭憲皇后は、養育院や病院へ多額のお金を下賜し、
災害や事故があると慰問しました。
障害者への保護にも熱心に取り組まれておりました。
光明皇后から後、昭憲皇后が、現在の皇室の福祉への取り組みの原型を作ったといわれています。
光明皇后の自宅でもあった「法華寺」
光明皇后は、自宅に浴室をつくり「千人の体を洗う」という誓いをたてました。
それだけではなく、自ら病人の体をふいたり、さすったりしたそうです。
伝説では、千人目に皮膚病の患者が現れ「体のうみを吸い取ってほしい」と懇願するのでした。
光明皇后は、願いをききとどけ、そのとおりにすると、病人は光り輝く仏になったそうです。
法華寺の本尊は、十一面観音像。
光明皇后のお姿をうつしたものだと伝えられております。
「ふちはらのおほききさきをうつしみに あひみることくあかきくちひる」
会津八一が歌った御本尊は、普段厨子に秘められており、残念ながら拝観することができません。
いよいよ目前まで来ました平城遷都1300年祭。
奈良は平城宮跡地におとずれたのなら、少し、足をのばして、この法華寺を訪れてはいかがでしょうか。
1300年も昔、暗澹とした世に光をもたらそうと苦悩し奔走した夫婦をしのんではいかがでしょうか。
法華寺では平成22年5月6~8日は、光明皇后千二百五十年大遠忌法要がとりおこなわれます。
次回「呪われた都・平城京。権力闘争の果てに 」へつづく
法華寺
http://www.hokkeji-nara.jp/
〒630-8001 奈良市法華寺町882
TEL:0742-33-2261
大人 :1,300円
中学生: 800円
小学生: 500円
身障者: 650円
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聖武天皇と光明皇后 ~ 世界初の夫婦物語 ―1― 【平城遷都1300年祭】
町中におおきな、おおきな広場があります。
それが、世界遺産「平城京跡地」です。
草木が生い茂り、また、一部、湿地帯になっており近くに溝が走っています。
夏には小魚、ザリガニが住みつき、水遊びの戯れに虫取り網をふりまわす子どもたちの姿が見えます。
スポーツができる広場があり、サッカー、野球、テニスに昂じる家族連れであふれかえります。
そして、囲碁の目のように縦横無尽にはしった、昔の都の様相をしのばせる道路には、ジョギングする人がうかがえます。
町中を四角く切り取ったような平城京跡地。そのほぼ中央、朱雀門のよりを、近鉄電車が横切ります。
奈良、大和西大寺から、京都、大阪・三宮へとゆく道となります。
さて、平城京が藤原京から遷都したのが710年。
来年は節目となる1300年となります。
これを祝し平城遷都1300年祭が各地で催されます。
この平成の未曾有の不況において、なんとも華やかなことではないでしょうか。
「あをによし
奈良の都は 咲く花のにおうがごとく
今盛りなり」
美しい平城京の姿をたたえた歌です。
しかし、その美しい平城京とは裏腹に、世の中は、政情不安、天変地異が相次ぎ、伝染病がはやり、人々の心は暗澹としていました。
そんな時代に、724年、おばである元正天皇の跡を継ぎ、24才の若さで即位したのが聖武天皇でした。
聖武天皇は、母の愛を知らぬ不遇な子でもありました。
聖武天皇の母親は、聖武天皇出産後、気が塞がり閉じこもってしまったのです。
以来、聖武天皇は母親と会うことなくこれまで育ってきました。
そんな聖武天皇を支えていたのが、妻である藤原安宿媛(ふじわらのやすかべひめ)です。
後の光明皇后。
大化改新の立役者であり、藤原氏の祖の中臣鎌足の次男、藤原不比等の娘です。
皇族ではない彼女は、藤原氏の権力をもって后になったと、陰ながら誹りをうけます。
さて、聖武天皇は、荒れた世の中を正そうと必死に努力します。
そして、懊悩とします。
政治不安、天変地異、疫病、農作物の不作、そして、地方豪族の反乱と、次々と苦難が押し寄せます。
また後継ぎ問題がありました。
聖武天皇には、なかなか子に恵まれませんでした。
そんなときに待望の男子が誕生しましたが、寿命は一年ともたなかったのです。
更に、未知なる疫病が日本中に蔓延したのでした。
天然痘です。
感染がみるみるひろがり、増大し、高熱と頭痛に苦しみ死亡する人があいつぎました。
また回復してもあばたがのこり、人々は”たたり”と思いこみ恐れたのでした。
平成の不況・失業者の増大、そして新型インフルンザの脅威、まさに、現代を彷彿とさせますね。
そんなときに最高責任者たる聖武天皇、
・・・聖武天皇の心が折れます。
次回「日本最初の福祉。光明皇后 」へつづきます。
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