日本最古で最大の宗教戦争 ~奈良 パワースポット巡り石上神宮と三輪山・大神神社 ―5―
魔法使いかぼす さんとゆく「奈良 パワースポット巡り石上神宮と三輪山・大神神社」のその7です。
その前の記事です。゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆
報告!奈良 パワースポット巡り
その1.作法をしりましょう。
その2.石上神宮を参拝。そして石上神宮の歴史
その3.光とあそぶ。出雲武雄神社を参拝と歴史
その4.イケメン?大物主・三輪山伝説
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大神神社にゆくまえに・・・
物部氏についてお話させてください。
それは、【奈良妖怪大戦争】で記しました、物部氏の滅亡の物語です。
(【総集編】奈良妖怪大戦争・蘇我・物部の抗争 )
大和朝廷の祭祀と軍事をになった物部氏。
いってみれば日本一の大豪族であったと過言ではないでしょう。
大和朝廷の勢力を象徴するように一族は、全国に存在していました。
538年。欽明天皇13年。
正式に日本に仏教が伝来した年とされています。
仏教は当時、先進外来文化の象徴でした。
蘇我氏(蘇我稲目(そがのいなめ))は、仏教推進します。
一方、神道を重んじる物部氏(物部尾輿(もののべのおこし))は、仏教排斥の立場をとり、蘇我氏と対立をします。
宗教的な抗争が表立って語られていますが、
財務を管理を任されていた蘇我は、外来文化と渡来人をまとめる役割も担っていました。
更に天皇家と密接な婚姻関係を築き、めきめきと勢力を伸ばしていました。
そんな蘇我氏に、物部氏は、疎ましさと危機感を抱いていたのかもしれませんね。
崇仏・排仏の論争 をきっかけに、その構図は、
次代の子たち、蘇我馬子(そがのうまこ)と、物部守屋(もののべのもりや)へ引き継がれていきます。
そして、二大勢力がいがみ合い、きなくさい時代にあいまって、
厩戸皇子(うまやどのみこ)、後の聖徳太子が誕生します。
585年。穴穂部皇子事件 をきっかけに、物部氏、蘇我氏の両勢力が激突します。
蘇我氏の行動の速さに、全国に散っている物部一族が集結する前に、勝敗を決します。
結果、物部氏は滅亡します。
国家宗教を決める宗教戦争は、まさに日本の神(国神)と、仏様との戦いです。
蘇我氏の兵たちは、国の祭祀をとりおこなってきた物部氏へ、矢を向ける行為に穏やかならざる心境であったにちがいありません。
決戦前夜、厩戸皇子は、信貴山 で戦勝祈願をされました。
すると虎をともにした毘沙門天があらわれ、皇子に戦勝の秘法を授けられたそうです。
この逸話から、おそらく兵たちは御仏の兵として意を決することができたのではないでしょうか。
さて、古来、日本をおさめていた国神(くにつかみ)天照大神の一族と、外来から渡ってきた仏教。
物部と蘇我との争いは、果たして、神と仏の代理戦争だったのでしょうか。
・・・・・否。
神も仏も、おろかな人間の行く末をただ黙して、見守っていたのでしょう。
崇仏・排仏の論争 からはじまった戦争でしたが、戦後、神々を排し、打ち壊すことはありませんでした。
仏教推進派の一人、厩戸皇子こと聖徳太子。
そして蘇我馬子ともに、神と仏への信仰を折衷し、仏と神を同質の存在としたのでした。
次回、「纒向遺跡と奈良太古のグルメ 」へつづきます。
若き聖徳太子の活躍と、蘇我と物部との抗争を描いた【奈良妖怪大戦争】は、こちらをご覧ください。【総集編】奈良妖怪大戦争・蘇我・物部の抗争
奈良妖怪大戦争―蘇我氏の時代(1)
蘇我氏の時代(2) ~高市郡明日香村 飛鳥寺―1―
蘇我氏の時代(2) ~高市郡明日香村 飛鳥寺―2―
崇峻天皇暗殺事件 ― 蘇我氏の時代(3)
日本史上初の女帝・推古天皇の誕生(1)
日本史上初の女帝・推古天皇の誕生(2)
【奈良妖怪大戦争】を一冊の電子書籍にまとめたものは、こちら。奈良妖怪大戦争「少年・聖徳太子物語 」
三輪山、大神神社の目次はこちら。
「大神神社 古事記の山「 三輪山 」【総集編】 」