雨は降る降る じんばは濡れる 越すに越されぬ 田原坂 右手に血刀 左手に手綱 馬上ゆたかな 美少年
これは、明治10年(1877年)、西郷隆盛の率いる鹿児島士族が起こした日本最後の内戦「西南戦争」からとった、民謡「田原坂」の一節ですが、この「美少年」とは。
明治10年、13,000人の薩摩軍が鹿児島を出発すると、九州各地の旧士族も加わり、総勢3万人を越えたといわれています。官軍(新政府軍)も、9個旅団(約9万人)を投入し、熊本城や「田原坂」で激戦を繰り広げ、熊本城の攻防は50日余りにわたりました。
熊本城はなかなか落ちず、「田原坂」の戦いでは、旧会津藩士や旧新選組(斎藤一とか)ら士族出身者中心の特別編成部隊「抜刀隊」による攻撃が、旧薩摩藩士らの「薩摩示現流」を繰り出す攻撃を圧倒し、薩摩軍は敗れてしまいました。
この「田原坂」の激戦での「わずか「15から20歳前後」の旧薩摩士族出身の若者たち」の活躍が「美少年」に謡われたようです。最後に、西郷隆盛らも鹿児島城山で全滅し、西南戦争は終結しましたが、官軍、薩摩軍合わせて14000人もの戦死者が出たといわれています。
この戦争は、なんだかトム・クルーズと渡辺謙が出演した「ラストサムライ」と二重写しになりますが、この西南戦争最大の激戦地「田原坂」で活躍した、薩摩軍幹部・村田新八の息子・村田岩熊が「田原坂」の「美少年」のモデルといわれています。
村田岩熊は、薩摩きっての秀才として将来を嘱望された逸材で、明治初期に米国へ留学。明治9年には、米国の海軍兵学校にいましたが、故郷の風雲急を知らされすぐに帰国。薩摩軍に従軍。享年19歳。
また、村田新八は、年少から西郷隆盛に師事し、岩倉使節団の一員に加わり、欧米視察団にも随行。勝海舟からも大久保利通に次ぐ傑物と評価されていた人物で、西郷隆盛の腹心でもありました。西南戦争では薩摩軍の二番大隊長を務め、剣術も強かった反面、絵画を愛し、音楽を好み、いつもアコーディオンを携え、時々弾いていたそうです。
熊本の銘酒「美少年」とは関係ないみたいですが、なんとなくイメージされますね。
「美少年」は、やはり「深い」。
これは、明治10年(1877年)、西郷隆盛の率いる鹿児島士族が起こした日本最後の内戦「西南戦争」からとった、民謡「田原坂」の一節ですが、この「美少年」とは。
明治10年、13,000人の薩摩軍が鹿児島を出発すると、九州各地の旧士族も加わり、総勢3万人を越えたといわれています。官軍(新政府軍)も、9個旅団(約9万人)を投入し、熊本城や「田原坂」で激戦を繰り広げ、熊本城の攻防は50日余りにわたりました。
熊本城はなかなか落ちず、「田原坂」の戦いでは、旧会津藩士や旧新選組(斎藤一とか)ら士族出身者中心の特別編成部隊「抜刀隊」による攻撃が、旧薩摩藩士らの「薩摩示現流」を繰り出す攻撃を圧倒し、薩摩軍は敗れてしまいました。
この「田原坂」の激戦での「わずか「15から20歳前後」の旧薩摩士族出身の若者たち」の活躍が「美少年」に謡われたようです。最後に、西郷隆盛らも鹿児島城山で全滅し、西南戦争は終結しましたが、官軍、薩摩軍合わせて14000人もの戦死者が出たといわれています。
この戦争は、なんだかトム・クルーズと渡辺謙が出演した「ラストサムライ」と二重写しになりますが、この西南戦争最大の激戦地「田原坂」で活躍した、薩摩軍幹部・村田新八の息子・村田岩熊が「田原坂」の「美少年」のモデルといわれています。
村田岩熊は、薩摩きっての秀才として将来を嘱望された逸材で、明治初期に米国へ留学。明治9年には、米国の海軍兵学校にいましたが、故郷の風雲急を知らされすぐに帰国。薩摩軍に従軍。享年19歳。
また、村田新八は、年少から西郷隆盛に師事し、岩倉使節団の一員に加わり、欧米視察団にも随行。勝海舟からも大久保利通に次ぐ傑物と評価されていた人物で、西郷隆盛の腹心でもありました。西南戦争では薩摩軍の二番大隊長を務め、剣術も強かった反面、絵画を愛し、音楽を好み、いつもアコーディオンを携え、時々弾いていたそうです。
熊本の銘酒「美少年」とは関係ないみたいですが、なんとなくイメージされますね。
「美少年」は、やはり「深い」。