1940代の日米の核兵器の科学・技術力の大ギャップ:

 

1940代には日本では仁科博士率いる原爆のチームがあった。

アメリカでは1940年代にはマンハッタン計画が承認された。

 

1942年12月8日の対米英開戦の日に、仁科は理研の宇宙線研究グループにいた竹内柾研究員を原子爆弾研究に誘った。1943年2月28日、竹内研究員が数値計算の報告書を提出して、理論は実現に近づいた。海軍の原子爆弾の研究は解散したが、アメリカで原子爆弾開発(マンハッタン計画)が始まった翌年1943年(昭和18年)5月頃、仁科研究室はウランの分離によって原子爆弾が作れる可能性を報告書によって軍に提示する。陸軍はこの報告に飛びついて、陸軍航空本部の直轄で、研究を続行させた。

ここに大きな違いがある。

仁科たちが考えたのはウラン型の原爆のみだったが

マンハッタン計画ではプルトニウム原爆も最初から考えていた。

 

日本の原子力発電開発は米国から導入した動力試験炉JPDR(BWR)の1963年10月26日運転開始が出発点である。

つまり仁科の時代には原子炉がなくプルトニウムはなかったのだ。

 

プルトニウム爆弾は爆縮型が良いのだが、爆縮を起こさせるには

すごい計算力がいる。

 

マンハッタン計画には

歴代第一の人間計算機の超天才フォンノイマンがいてその子分には

やはり計算の超天才、リチャード・ファイマンが手ぐすね引いて待っていた。

この二人の超天才は手計算でプルトニウムの爆縮の計算をやってのけた。

(しかし、それでも10ヶ月かかった)*

 

日本ではプルトニウムも入手できないし、ノイマン・ファイマンの計算の天才もいなかった。

 

仁科グループとマンハッタン計画の実行力は大人と保育園児の違いだ。

それほど

日米には科学力に差があったのだ。

 

ヨーロッパの研究所に留学したくらいでは

仁科先生にはそんなことは知る由もなかった。

 

*(附則)

開発に至るまでは火薬の燃焼速度等、様々な条件が一致することが求められ、当時の火薬学で用いられていたCJ理論では取り扱えないほど精密な計算を要求されたため、新たにジョン・フォン・ノイマンらによってZND理論が開発された。

ZNDモデルでは先行する衝撃波は不連続面として扱われるが、双曲型偏微分方程式を差分近似で数値的に解こうとすると衝撃波の不連続面は特異点になってそこで解が発散してしまい計算することが出来なくなってしまう。そこでジョン・フォン・ノイマン人工粘性の概念を取り入れることで上放物型偏微分方程式の差分近似に置き換えて計算することに成功した。その結果、曲がりなりにも衝撃波の数値計算ができるようになった。しかし、ZND理論は大変に複雑で膨大な計算を要したため1940年代当時のロスアラモス研究所に集められたジョン・フォン・ノイマンらの数学者達の手によっても、優に10か月以上の時間を要した。当時は、コンピュータが無かったためである。