西川哲治教授と平尾泰男教授はどちらも東京大学原子核研究所にいて西川博士は高エネルギー物理学研究所に平尾泰男博士は放射線医学総合研究所に移りそれぞれ世界一の加速器の長になった。わたしはまず高エネルギー物理学研究所の創立時に大学院を中退して高エネルギー物理学研究所で西川Gのなかの佐々木寛の助手として研究者としてのキャリアーを始めた。アメリカ、フランスの研究所を経て、20年のにちわたしは放医研に転任して平尾博士Gの奇人佐藤健次博士のところにいった。そこで平尾さんから西川さんの裏暴露話をたびたびきいたものだ。お二人とも原子核研究所時代はライバル同士だったのだ。クリスチャンであった西川さんからは平尾博士のそんな暴露話はきかなかった。そのかわり、ときおり電話をいただいた。西川さんは超優等生ばかりではなく、加速器空洞で独自の発明をしていて、人情家でもあった。自分が優等生でかつ想像力のあるひとはまれである。西川さんのわまりはけっこう、有能で奇人も多かった。堀越源一郎博士や田中次郎博士たちの教授クラスだ。
堀越さんは外見は朝永振一郎やオッペンハイマーににていて、碁の実力もあり、もちろん専門の真空の実力もありまた発明家でもあり、ひとをからかうのが趣味のようでもあってわたしは大好きだった。
また子飼でない東工大系の増田博士らの一団も距離をおきながらもたづなをおさえていたものだ。後に所長になった木村教授も変わったひとだった。なんくせもある亀井教授、とらえどころのない近藤教授...数え上げれば切りがない。わたしのボスであった佐々木さんは東北大学の秀才であった。ご自分がいうにはアメリカで新しい加速器が発明されたときに、東北大学のなかでそれはいったいどんなものかとみんなで喧喧諤諤と議論をしているときに佐々木ボスはいとも簡単にその強収束の安定性を証明してしまったという。
後年、大強度の陽子シンクロトロンの研究グループをたちあげ、私たちの提案と木原教授の提案とががちんこ勝負になって、わたしたちの提案したGEMINI(わたしの命名)が一敗地にまけたのだが、それは政治的にまけたのであった。結局木原博士の提案が一時的に勝ったのだが、最終的には私たちの提案がとおって、いまのJPARCとなったのだった。木原Gが主導してわたしたちはしりぞき内容だけがもっていかれたという、よくありがちなパターンとあいなったのであった。
アメリカでもフェルミラボをたちあげたときにはコーネル大学の強者があつまったものだが日本でも高エネルギー研のたちあがるときには同様の人材があつまったもんだ。菊池健さんは西川さんの当初の右腕でのちに木村嘉考さんが右腕になった。研究所の規模がおおきくても大きさにみあった人材があつまった。わたしは最年少のペーペーであった。原爆開発でファイマンがいちばんぺーぺーであったように。私にとってはKEK12GeVPSという日本で初めての
陽子シンクロトロンは小さなマンハッタン計画だった。

平尾教授のほうは、人心の機微をとらえるのがうまく、役人とのつきあいもよかったようにおもう。役人の操縦術に独自のものをもっていたともいうべきかもしれない。規模は高エネルギー研からみると大幅に小さかったが、医師や生物など異分野のひとたちを束ねる必要があった。そしてそれを実現した。
原子核研究所時代の弟子たちの面倒見もよく、いまでも重粒子線治療の世界では大きな影響力をもつ。

お二人の業績としては
西川博士はトリスタンという素粒子の発見のなかった残念なプロジェクトの責任者で、平尾博士は重粒子線の癌治療で世界のトップをいく癌治療でのおおきな成果をあげた成功者としての明暗をわけられた。西川さんはしかし、多くの優秀な研究者をそだて、
次の世代の加速器がアメリカのSLACと競争してノーベル賞級の発見をおこなったというのが定説だ。
加速器での優れた研究者とは新竹モニターの新竹博士やoide limit の生出博士に代表される。しかし、彼らが西川さんに直接、育てられたという訳でもなく、高エネルギー研究所という環境をとおしての
間接的な人材育成であった。
ノーベル賞の小林誠博士とその業績は高エネルギー研とは無関係なのだが小林博士がそこにいるというだけで、環境が良くなったと思う。まだ目に見える成果はでていないが、元気な理論の研究者も増えたことと思う。
それにもっと効果的な人材育成は西川さんの息のかかった研究所に
若い人たちを送り込むことである。
わたしのその恩恵をうけて、外国での研究者に触れて一人前になった。

将棋の世界だって師匠が弟子に教える事はなく場所と環境を提供するだけなのである。

高エネルギー研のいまの最優先プロジェクトは
ILC 国際リニアーコライダーだ。
その一部の研究GのATF2もりっぱに動いている。
わたしのいまの情勢判断ではこの
ILC 国際リニアーコライダー
は東北地方に実現する。
そしてつくば研究学園都市をおおきく越える規模の
国際研究都市ができて、
CERNにつぐ世界に番目の
ILC研究所が発足する。これは西川哲治教授が道を開いてくれた。

平尾さんが私に暴露した西川さんのお話はここでは披露できないが、いつか、どこかでぽろっとこぼれる事があるかもしれない。

西川先生がいきておられる間にもうひとつ大きな仕事をして報告をしたかったが、それは同じクリスチャンとして20年後に
天でできればよいだろう。