原発開発のウランを供給して、利益を得たのはだれか。
鬼塚らのほかに藤永茂氏らの証言がここにある
引用すると:2007/11/28

グローブスの語るサンジエー・エピソード

 広島と長崎を一瞬に壊滅させた原子爆弾がどのようにして出来上がったか、私はその詳細にわたって強い関心を持っています。この最も悪魔的な人間の所業がどのようなビジネス・ディールの連なりによって成し遂げられて行ったか、その一つの取引きがサンジェー・エピソードです。
 主にネットで集めた資料に頼って、前回(11月21日)ベルギー人実業家エドガー・サンジェーがウランをアメリカに売りつけたエピソードを書きましたが、その直後に、10年ほど前に読んだ筈の一冊の本の中に、その話が当事者によって書かれていたことを見つけました。ふと思い出したと言いたいのですが、10年前には、アフリカについての私の意識が低く、おそらく、この部分を読み飛ばしていたのだと思います。
 アメリカの原爆製造プロジェクト「マンハッタン計画」の総帥レスリー・グローブス将軍の回顧録『今だから話そう(NOW IT CAN BE TOLD)』(1962年)の第3章にエドガー・サンジエーの話が出ています。冒頭に「(第二次)大戦勃発の数ヶ月前、もし一人のベルギー人と一人のイギリス人とがたまたま顔を合わせなかったら、連合国側が先に原爆を持つことにはならなかったかも知れない」とあります。大戦中、ウラン資源の最重要な供給源はベルギー領コンゴのシンコロブエ鉱山で、それを掌握していた最重要人物がユニオン・ミニエール社の‘the managing director’(前回は社長としました)エドガー・サンジエーでした。
 1939年5月ロンドンを訪れていたサンジエーは、ユニオン・ミニエール社の取締役の一人であるイギリス人ストーンヘーブン卿のオフィスで、もう一人のイギリス人ヘンリー・タイザードに引き合わされました。サンジエーとタイザードの出会い、これがグローブスのいう運命の出会いです。タイザードは化学者出身、当時はロンドン大学の理工学部の長でしたが、間もなく、イギリスの軍事科学研究行政のリーダーとして、連合国側の勝利に大きく貢献することになる人物です。タイザードはコンゴのウランを全部イギリスに売ってもらえないかとサンジエーに持ちかけますが、計算高いサンジエーは急には応じません。タイザードは、別れ際にサンジエーの手をしっかりと握って「くれぐれも慎重に。もし、この資源が敵国の手に落ちることになれば、あなたの國も私の國も破滅に瀕する、その活殺権があなたの手中にあることを決してお忘れなさるな」と重い言葉をサンジエーに残しました。
 その数日後、フランスの核物理学者ジョリオ・キュリーが数人の同僚を伴ってブリュッセルにサンジエーを訪ね、ウラン核の分裂反応を使う超爆弾を造り、そのテストをサハラ砂漠で行いたいので、シンコロブエのウランを売ってくれと頼み込みました。サンジエーは一応承諾しましたが、その後まもなくの9月に戦争が始まり、計画は頓挫しました。サンジエーは、10月、ドイツ軍の進駐せまるブリュッセルを後にしてニューヨークにビジネスの中心を移しますが、9月から10月にかけて、シンコロブエにあった1250トン以上のウラン鉱石をポルトガル領アンゴラの大西洋岸の港ロビト経由でニューヨークに送り、ニューヨーク湾内のスタテン島のユニオン・ミニエール社の倉庫に秘かに収納しました。つまり、1940年の暮以降、サンジエーはアメリカ政府にこのウラン鉱石を売りつける機会の到来を待っていたのでした。
 1942年3月、サンジエーはアメリカ国務省からベルギー領コンゴの非鉄金属資源についての報告書の提出を求められてワシントンに出向し、その時に面会した国務省の高官トーマス・フィンレターの注意をスタテン島のウランに向けようとしたのですが、アメリカの原爆計画について未だ何も知らされていなかったフィンレターはサンジエーの話に興味を示さない。4月21日には書簡を送り、“As I told you previously during our conversation, these ores containing radium and uranium are very valuable.”と書いたのですが、それでも反応がないままに終りました。
 一方、「サンジエーのウラン」の存在をグローブスが嗅ぎ付けたのは9月14日、ブローブスは副官のニコルズに翌15日朝サンジエーと会うアポイントメントを取らせます。その日ニコルズがサンジエーを訪れてウランの話を切り出すと、以前にフィンレターに袖にされたサンジエーは、「大佐殿、はじめにお伺いしたいのですが、あなたはただ話をしに此処にいらっしゃったのですか、それとも、ビジネスのためにおいでになったのですか」と念を押したといいます。前回のブログに訳出したのはウィキペディアにあったサンジエーの“歴史的”名言「You can have the ore now. It is in New York, a thousand tons of it. I was waiting for your visit.」というものでしたが、グローブス版の方は、やや実務的でドラマ不足です。グローブス自身はその場に居なかったのですから、サンジエーの言葉がこの通りだったという保証はありませんが、まあ信憑性はこちらの方が高いでしょう。
 グローブスは果敢な決断の早さで知られた男、商談はたちまち成立、ニューヨーク湾内のスタテン島の倉庫に眠っていた1250トンを越す極めて優良な品質のウラン鉱石はアメリカ陸軍の手に収められました。ユニオン・ミニエール社からのウラン鉱石の入手は、アメリカの原爆製造計画にとって、かけがえなく重要なものであったとグローブスは書いています。 
 ヒロシマ・ナガサキの悲劇は、人間にとって、人類にとって、20世紀最大の事件であったと、私は考えます。この確信は、最近の世界情勢の進行によって、ますます深められるばかりです。「哲学的」という形容詞を、概して、私は好みませんが、ヒロシマ・ナガサキの悲劇の本質は、まさに、もっとも深遠な哲学的想像力、もっとも鋭敏な詩的想像力によって把握されなければなりません。終戦直後から暫く、優れた哲学者、優れた文人たちから、ヒロシマ・ナガサキの悲劇の本質を剔出する発言が散発的に行われた時期がありました。大文人とは言えないにしても、私の大好きなロマン・ギャリーやトーマス・マートンやカート・ボネガットもそうした発言をしたものでした。しかし、核の絶対悪、核の廃絶を唱える声が、「核による抑止」という悪魔の声に次第にかき消されて聞こえなくなってゆきました。ヒロシマ・ナガサキをかき消そうとする声は特にイスラエルから声高に聞こえてきます。Alan Dershowitz といえば、知る人ぞ知るハーバード大学の法学部の大教授です。そのダーショウィッツのベストセラー『イスラエルのための弁明(THE CASE FOR ISRAEL)』(2003年)の167頁にはヒロシマ・ナガサキの悲劇が次の文章で片付けられています。
■The atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki killed thousands of innocent Japanese for the crimes of their leaders. The bombing of military targets inevitably kills civilians.■
ただこれだけ。人間の数が数万を越える場合には「thousands of」とは書かないことは、中学生ならば誰もが知っています。これはダーショウィッツ先生の記憶違いなんてものではありません。はっきりした意図をもってこう書かれているのです。おそろしいことです。私は此処でこそ、『闇の奥』のクルツのように、“The horror! The horror!” と叫びたくなります。私が「マンハッタン・プロジェクト」の詳細について強い関心を持ち続ける理由もそこにつながっています。

藤永 茂 (2007年11月28日)