春分の日明けの震度5弱の地震にひやりとした〝火打石〟…私の住む地域の震度は3
だったようですが、体感的にはもっと大きく感じたなぁ
。部屋に積んである(
)
本も若干崩れていたし
。これまでそんなことはなかったのに
…って、積んで
ある本をなんとかしなさいよ地震に怯える前に
。防災グッズのチェックだって、
やろうやろうと思っていながらずっと先延ばししてて
。まぁ本に限らず不要なモノ
は断捨離しようとマイペースに事は進めているのですが、御多分に洩れずなかなか
思うようには捗らない
…思うように進められないのはこのブログと同じ
。高野
山の参詣記も前回から間が空いてしまって
。今回は奥之院の参詣記ですが、これで
ようやく睦月六日の参詣記が終わる。弥生も二十日を過ぎてこの有り様
。情けない
限りですがとにかく書き進めてみますね
。
“壇上伽藍とともに高野山の信仰の中心であり、弘法大師が入定(にゅうじょう)
されている聖地です。一の橋から御廟まで約2キロメートルの参道には、おおよそ
20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が、樹齢千年に及ぶ杉木立
の中に立ち並んでいます。”と和歌山県公式観光サイト(こちら)にありますが、正式
の参拝は一の橋からするとのこと。
〝火打石〟夫婦は「中の橋参道入口」からお詣りを開始…正式な参拝ではなかった
わけですね
。まぁ“正式な参拝”なんてこれまでもしたことなかったし、これからも
することはないと思いますが
。
「結城秀康石廟(こちらもどうぞ 結城秀康についてはこちら)」
「豊臣家墓所 (詳細はこちらをどうぞ)」 なんだかこの期に及んで(
)
『どうする家康』の世界をたどっているような
…昨年末の「よいお年を(*^-^*)」
の記事で、“年明けにお詣り予定の高野山にも「淀殿と秀頼公のお墓」があるとこちら
の記事にありますが、お詣りできたら嬉しいなぁ
。”と書いた〝火打石〟ですが、
この日、残念ながら〝火打石〟夫婦は“20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊
碑の数々”の中から「淀殿と秀頼公のお墓」を探し出せなかった
。淀殿と豊臣秀頼
公の五輪塔(こちら参照 こちらもどうぞ)は、“上杉謙信霊屋西側にある”とのこと
ですが、情けないことに謙信公の霊屋もわからなかったのよ
。頑張れば見つけ
出せたのでしょうが、もう気力も体力も尽きていて
。淀殿と秀頼公の五輪塔は修復
が完了したそうですが(こちら参照 こちらも)、ならばなおのこと拝観しておき
たかったなぁ…
いよいよ写真撮影が不可な
御廟橋を渡ります。
(一の橋、中の橋、御廟橋についてはこちらのページもお読みください<(_ _)>。)
“壇上伽藍とともに高野山の信仰の中心”である弘法大師御廟をついに参詣…“御廟では
空海が今もなおそこに生き、世界平和と人々の幸福を願い瞑想を続けていると信じ
られ”とこちらの記事にありますが、この解説で思い出したのが昨夏お詣りした出羽国
の瀧水寺大日坊さんの真如海上人さまの即身仏(こちら)。大日坊さんは弘法大師
さまの御開創とのことですが(こちら)、御廟をお詣りして、即身仏のルーツ(と
言っては不敬でしょうが)を目の当たりにした思いがしました。
御廟をお詣りし、橋を渡って戻ってきて…
護摩堂と御供所…この辺りについては「みどりの木」さんのブログの記事(こちら)
がたいへん解り易いのでぜひお読みになられてください<(_ _)>。御供所では御朱印
とお大師さまの御影札、大黒天さまの御札を拝受しました
。
御供所の西約100mのところに『忠臣蔵』で有名な浅野内匠頭墓所がありました
(こちら参照 浅野内匠頭についてはこちら)。本当に、歴史上有名な人の墓所や碑
がたくさんあって、一つ一つに反応してたらそれこそ日が暮れてしまう…
1月6日の高野山詣は壇上伽藍から始まって金剛峯寺、大師教会、霊宝館、女人堂、
徳川家霊台と巡って奥之院で終了…この後大門を拝観し、夕陽を眺めながら下山、宿
へ戻りました。大門の写真と夕陽の写真は次回にUP…翌7日の午後、再び高野山を
詣でたのですが、雪に降られて苅萱堂しかお詣りできなかった
。なので次回は大門
と夕陽、7日参詣の刈萱堂の写真をUPさせていただきますね
。



























