お盆の「出羽国で寺社めぐり」の参詣記がめでたく(はてなマーク)年を越すこととなり、今回

 

は2023年の〆のブログということで、さて、それにふさわしいものを…と考えたは

 

良いが、浮かぶのはやはり寺社ネタか美術展ネタばかりショボーン。お前の人生はそれしか

 

無いのかよとツッコミたくなりますが、先日【ドラマ10】『大奥 Season2』の最終回

 

に合わせて「瀧山のお墓」の記事を挙げましたので、今回は大河『どうする家康』の

 

最終回で壮絶な死を遂げた淀殿のお墓をUPさせていただきますか(;^_^A。…正直

 

〝火打石〟個人としては『家康』には、“今度の日曜日(12/17)は『どうする家康』

 

も最終回を迎えますが、申し訳ないですが『家康』には正直ロス感は感じないだろう

 

なぁショボーン。”とすでに「瀧山のお墓」の記事に書いたとおりの感想しか持っていないの

 

ですが(『家康』を楽しまれていた方には申し訳ない汗)、あの大坂城落城の地獄絵

 

は素晴らしかった(もちろんフィクションの“絵”として見応えがあったという意味

 

です。実際であったらあんな業火の中では人間は熱気に喉をやられて喋れまい)

 

ので、その記憶を留めるためにお墓をUPさせていただきますあせる

 

 

 

 

 

淀殿のお墓は大阪市北区太融寺町にある太融寺さんにあります。〝火打石〟は2019年

 

の4月にお詣りさせていただきました(参詣記はこちら)。

 

 

 

 

 

太融寺さんは「なにわ七幸めぐり」の一寺…令和6年はCOVID-19による移動制限が

 

解けて初めて迎えるお正月ですが、太融寺さんも「七幸めぐり」でお詣りされる方で

 

賑わうのでしょうねニコニコ

 

 

 

 

 

(「境内案内」はこちら

 

 

 

 

逆光でお墓が暗くなってしまっていて申し訳ございませんm(__)m。

 

 

 

 

この日はよいお天気で、桜もまだ咲いていた…華やかだった北川景子さんの淀殿に

 

向けて、花の写真もUP照れ

 

 

 

 

 

 

「淀殿のお墓」で検とネットで検索すると、群馬県前橋市総社町にある元景寺さんも

 

挙がってきます(こちら)。「前橋まるごとガイド」(こちら)には“淀君の伝承の

 

残る寺”と記されていますね(ウィキペディア「元景寺」も参照されたし<(_ _)>)。

 

群馬県ではまだあまり寺社めぐりをしていないので(埼玉県の隣県なのに汗)元景寺

 

さんもいずれお詣りしたいなぁ…年明けにお詣り予定の高野山にも「淀殿と秀頼公の

 

お墓」があるとこちらの記事にありますが、お詣りできたら嬉しいなぁあせる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京都国立博物館のすぐ近く(三十三間堂さんの近く)にある養源院さんも、ウィキ

 

ペディアには

 

 

  元和2年(1616年)5月7日、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠正室の崇源院

  (江、淀殿の妹)によって、昨年の慶長20年(1615年)5月に大坂夏の陣

  自害した淀殿とその子・豊臣秀頼の菩提が弔われている。

 

 

と記されていますが、これ、養源院さんの公式ウェブサイトでは触れられていない

 

こちらをお読みくださいm(__)m)。解説文に続く「年表」には“お江が創建時の

 

養源院にて淀殿・豊臣秀頼公の菩提を弔う”とありますが、“創建時の”とわざわざ記す

 

のにはいわゆる“オトナの事情”が(公式ウェブサイトの「血天井」をお読みください

 

<(_ _)>)…まぁ養源院さんは“浅井家にゆかりの深い”お寺さんなのですから、

 

“事情”はどうあれお詣りすれば淀殿も嬉しいかな?(〝火打石〟は2022年の2月に

 

お詣りしました)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

養源院さんは『家康』絡みで言うと、上述の“オトナの事情”に関ることでもあります

 

が、“廊下の天井は、伏見城落城の際、自刃した武将たちの血のりのしみた板を使った

 

ため「血天井」として有名”(こちら参照)。血天井の残るお寺さんは他にもあります

 

が(ウィキペディア「血天井」参照)、いくら時代を経たものとはいえ、血痕の残る

 

天井板なんて、澁澤(龍彦)好きの〝火打石〟でも流石に生々しく感じてしまう汗

 

 

 

 

 

 

生々しい話題で今年を〆るのもなんですので、ラストは「家光公の兎」であせる。太融寺

 

さんをお詣りしたのと同じ4月、東京都府中市の府中市美術館で開催されていた

 

へそまがり日本美術」にも足を運んだのですが、こちらの展覧会では三代将軍家光

 

公の描かれた≪木兎図≫・≪兎図≫・≪鳳凰図≫が展示されていました(≪鳳凰図≫は前期

 

展示のみ)。

 

 

 

 

 

 

 

 

素っ頓狂で愛らしい木兎…書きながら気付いたのですが、ミミズクは木の兎って書く

 

んですね目。家光公は「兎」が好きだった??。

 

 

 

 

(写真がブレていて申し訳ございませんm(__)m。)

 

 

 

 

 

≪兎図≫の解説についてはこちらの記事等をどうぞ。この展覧会では家光公の≪鳳凰図≫

 

が“ぴよぴよ鳳凰”と言われて話題になりましたが(こちら参照)、この兎は何と

 

名付ければ良いのやらはてなマーク。面妖な兎…狸兎!?。『どうする家康』の“白兎”については

 

いろいろギモンも残った(瀬名の言う、「兎は狼より強い」って何処がはてなマーク。確かに兎

 

は狼より繁殖力は強い―それって「神君」の子沢山の暗示なの!?)〝火打石〟です

 

が、ここへ来て野暮は言うまい汗。卯年も終わって来年はドラゴン(澁澤流なら

 

“ドラコー”ですねあせる)の年ですが、せめて軽やかに白兎が清らかな野に帰れます

 

ように…ここまで駄文におつきあいくださった皆様も、残る令和5年を安穏無事に

 

過ごされ、迎える令和6年を晴れやかに迎えられますようにと、僭越ながら願って

 

おります<(_ _)>。

 

 

 

 

 野暮な追記あせる

 

  夫が調べてくれたのですが、京都府には「狼と兎だまされたオオカミ)」と

  いう民話が伝わるそうですね。でも、この民話を踏まえて瀬名はあんなことを

  言ったのか…とは〝火打石〟には思えなかったなぁ汗。自分をいじめた狼を

  欺いて水死させる兎は、知恵は狼に勝っていたとこの話では言えましょうが、

  騙し討ちのようなやり方は瀬名が望む“知恵”とは思えない。この民話をご存じ

  の方はどう感じられたのかな?。あの台詞を聞いてすぐこの話を思い出された

  のか??…もしこの民話が元ネタなら、何かしらそうと“匂わせ”をしてよ古沢

  先生ビックリマークと、よせばいいのに野暮な呟きを漏らしてしまう〝火打石〟なのでしたショボーン