3/11の「水戸市で寺社めぐり」の参詣記を書き終えて、続いてGWでの常州での寺社めぐりの

 

記に移ろうかと思っていたのですが、その前にちょっと地元静岡市での参詣記をあせる。たまには

 

静岡市民らしく静岡市の神社仏閣の記事を書かねば汗というわけでもないのですが、5/20、

 

静岡市駿河区根古屋に鎮座される久能山東照宮さんで現在開催されている夜間特別拝観

 

天下泰平の竹あかり」(6/30まで)を夫と拝観してきたので、その日の参詣記を書かせて

 

いただこうかとあせる。市内での寺社めぐりだったのでのんびり昼過ぎに家を出て、以前から

 

お参りしようと言っていた葵区建穂(※“たきょう”と読みます)の建穂寺さん(ウィキペディアは

 

こちら こちらのページもどうぞ)と建穂神社さんへ向かいましたニコニコ

 

 

 

 

 

 

 

 

☝カーナビと案内に導かれてやってまいりました建穂寺観音堂。「建穂寺」さんというお寺は

 

 静岡県静岡市葵区にある、山号を「瑞祥山」と称する、かつて御本尊として行基作の「駿河七観音/安倍七観音」の一つである千手観音菩薩像を安置していた「駿河三十三観音霊場」の第15番札所。家康公より県内最高の寺領480石を与えられ、観音堂と21坊を構え、学問の寺として「駿河の高野山」とも称された。久能寺とともに駿河を代表する古刹だったが、正式には明治の廃仏毀釈により廃寺になっており、その後伽藍が焼失したため幻の寺となる。寺跡には「建穂神社」があり、西方約500mの「林冨寺」の跡に観音堂が建てられ、そこに奇跡的に運び出された仏像などが安置されている。

 

「観音堂」は

 

 寺伝では、684年に道昭が天台宗寺院として開創、723年に行基が再興、後に新義真言宗系寺院に。山の上の観音堂が1870年に焼失した際、村人達により運び出され難を逃れた仏像は、しばらく野ざらしになったものの、村人たちによりお堂が建てられ守られた。1975年建立の現在のお堂には、仏像が60体程置かれている。

 

(静岡市観光ガイド『駿河湾百景』「建穂寺」より)

 

という“幻の大寺”…今年の2月に静岡浅間神社さんに隣接する静岡市文化財資料館

 

 

 

 

 

 

幻の大寺 建穂寺」展(こちらもどうぞ)を鑑賞してきたのですが(鑑賞記はこちら)、それより

 

以前から建穂寺さん参詣は気にかけていた汗…でも市内なので「いつでもお参りできるあせる」と

 

思ってかえってなかなか足を運べなかったドクロ。それが今日やっとの参詣汗。“「駿河七観音/

 

安倍七観音」、「駿河三十三観音霊場」も地元なんだからもっと積極的に巡拝しないと汗。”と

 

「建穂寺」展鑑賞記に書いていますが、とりあえずそこから一歩は進めたかな??。

 

 

※「駿河七観音/安倍七観音」についてはこちら 「駿河三十三観音霊場」についてはこちら

 「久能寺」についてはこちら(→ウィキペディア「鉄舟寺」も参照されたし)

 

※西暦684年は天武天皇13年(←ウィキペデア「684年」参照 「白鳳地震」の起きた年ですね)

 道昭についてはこちら 行基についてはこちら  〝火打石〟はこの二人の偉大な僧の名を

 聞くと、長岡良子さんの「古代幻想ロマンシリーズ」を思い出すんですよね…〇十年も前に

 読んだ漫画の世界を、寺社めぐりをすることでこの目で見て歩くようになるなんて、人生って

 なかなか面白いものだなぁ…

 

※「新義真言宗」についてはこちら  1月に横浜市金沢区の龍華寺さんをお参りした際(参詣

 記はこちら)、境内で「古義真言宗」と記された碑を見かけましたが(コトバンク「古義真言宗」参照)、 

 建穂寺さんは新義真言宗のお寺さんか…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

☝「藁科二十一弘法大師霊場(藁科二十一ヶ所霊場)」についてはごめんなさい、ネットで

 適当な情報を浚えませんでしたm(_ _ )m。

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

 “山の上の観音堂が1870年に焼失した際、村人達により運び出され難を逃れた仏像は、

 

しばらく野ざらしになったものの、村人たちによりお堂が建てられ守られた。1975年建立の

 

現在のお堂には、仏像が60体程置かれている。”…こうしたお話を聞くと〝火打石〟は胸が

 

熱くなります。現在も地域の方々によって守り伝えられている“幻の寺”、建穂寺さん。(こちら

 

のページをご覧くださいm(_ _ )m。) 無力な身ですが、こうしてお参りすることが少しでもその

 

熱意に応えることになるなら、それはとても嬉しいことですニコニコ

 

 

 

 

 

 

建穂寺さんの御朱印は、“建穂町内会が持ち回りで管理されており、電話すると担当者が

 

駆け付け押印し拝観が可能になる。”(←ウィキペデアより)  お堂の扉に連絡先の電話番号

 

が記された紙が貼られていましたので、電話して担当の方に来ていただきましたあせる。お堂の

 

内にも入れさせてくださり丁寧な解説もしてくださって本当にありがとうございましたm(_ _ )m。

 

 

 

 

☝境内に咲いていたアマリリスニコニコ

 

 

 

 

続いて建穂寺さんの寺跡の建穂神社さん(こちらのページを参照なさってください)を参詣。

 

 

 

 

 

 

☝「建穂寺の歴史」   文中に“平安中期の「延喜式神名帳」に、建穂神社の名がみえ、

 

 「神仏混淆」の寺であった。”と記されています。(「延喜式神名帳」についてはこちら

 

 「神仏混淆」についてはこちら) 〝火打石〟は「神仏混淆」の状態の方が好き(?)だなぁ…

 

 

※“鎌倉時代の高僧 南浦紹明は、幼年期を建穂寺で修業した。”と解説にありますが(南浦

 紹明についてはこちら)、 南浦紹明は鎌倉の建長寺蘭渓道隆に参禅して、後に建長寺

 の住持となった…鎌倉にもまた行きたいなぁあせる鎌倉五山の巡拝もまだ終えてないし汗

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

☝こちらは御本殿になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☝建穂神社さんの御祭神は保食神さま。天照皇大御神さま、合祀神に猿田彦命さま、

 

 須佐之男命さま。☝の解説には、“当神社の創建は詳らかでない。三大実録に「陽成天皇

 

 元慶二年四月己卯授駿河国正六位上岐都宇命神従五以下」とあるは、この神社と

 

 いわれる。”  “建穂の語源はアイヌ語の「トキウ」で沼 葺處の意であるという。この建穂の

 

 開村は極めて古く、開村と共に創祀された当神社も亦静岡でも最古に属するものであろうと

 

 思われる。仁徳天皇の御代に帰化した秦氏族が諸都に配置され、和銅年代には駿河国は

 

 全国有数の養蚕地となり、その絹帛の大部分は建穂・羽鳥等に住する服織部(はとりべ)に

 

 依って産出されたのであるが、当神社は養蚕の神 馬鳴の神と習合されて馬鳴大明神と

 

 称され服織の信仰を集めた。”  “天平年間秦氏の信仰により建立された建穂寺が建穂

 

 神社の別当となり鎌倉時代には主客が転じて建穂神社を建穂寺の鎮守とするに至った。”

 

 などと記されていますが、う~ん、古代ロマンの世界だわラブラブ。江戸城を築いた太田道灌

 

 参拝した駿河国屈指の屈指の名社、建穂神社さん。いつでもお参りできるという慢心が参詣

 

 を遅らせていましたが、こうしてお寺さん神社さん、併せてお参りしていろいろと勉強させて

 

 いただきましたニコニコ。駿河国の名刹・名社だった建穂寺さん、建穂神社さん、ありがとう

 

 ございましたm(_ _ )m。

 

 

~補足~

「三大実録」→「日本三大実録」  陽成天皇についてはこちら  元慶2年は西暦878年(こちら)  “四月己卯”→

ウィキペデア「己卯」参照  “岐都宇”はアイヌ語の“キトウ”?  仁徳天皇についてはこちら  秦氏については

こちら  和銅年代→708年~715年(ウィキペデア「和銅」参照)  「別当寺」、「鎮守」→「鎮守神」参照

 

「養蚕の神 馬鳴の神」「馬鳴大明神」についてネットで情報を浚ってみましたが、「馬鳴菩薩」で“中国の民間

信仰に由来し、貧民の衆生に衣服を与える菩薩として、また「養蚕織物の神」として祭られ、仏教の伝来とともに 日本に伝えられた。”(←こちらのページより引用)という記述がありました。