『アメリカンスナイパー』のリアリズム | Kenichiのブログ

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「イラクでは今もあんなに人が死んでいるのに、なんでみんな笑って過ごせるんだ………」
帰国直後の主人公のつぶやきです(ほぼ大意) 。

今年の僕は訳あって日本にいますが、例年だとこの時期は二ヶ月ほど旅に出ています。
たいていが発展途上国と呼ばれるエリア。
なかには最近まで内戦や飢饉があったような地域もありました。
まあそんな場所でもそれなりに費用をかければ、空港からリゾート地へクーラー付きの車で直行するような旅で、適度な異国情緒を満喫して帰って来ることも可能だったりします。
(………たぶん…やったことないけど~笑)
でも現地の人たちが泊まるような宿に泊まり、現地の人たちと同じ食堂で食べ、砂ぼこりにまみれながら乗合トラックの荷台などで移動するのが、僕のスタイル。
それで現地の人たちと同化できたと思うほど傲慢ではありませんが、少なくとも彼らの世界をリアルに体験は出来た~という思いはあります。
そんな旅を二ヶ月も続けて帰って来ると、関空に着いた瞬間から、この国の豊かさに圧倒されてしまうんですよね。
馴染むのにしばらくリハビリ期間が必要なくらいです。
自分がつい昨日まで居た国では、あんな貧しい生活が当たり前に続いているのに、この物が溢れた国は、なんなのだ…。

先進国サイドの人間が発展途上国について語るとき、この戸惑いの感覚が無いものは、僕はあまり信用しません。
空港からリゾート地へ直行するだけのような旅は、たしかに途上国に行ったのかもしれないけれど、先進国の世界を無理に持ち込んだに過ぎないから…。
映画でも、そんな作品は幾つもあります。
でもその意味では、この映画は「本物」でした。
イラク戦争のシビアな現実を赤裸々に描いただけでなく、そこから帰国した主人公クリス=カイルは、冒頭のような戸惑いを覚えるのです…。

それはイラクから帰国した米兵にある程度共通するらしく、自殺者さえ出るといいます。(自衛隊員も…)
旅人の僕なんかとは、また違った緊張感を強いられて来たのでしょうからね。
戦争はゲームとは違う…。
それを気軽に「許さない」とか「制裁を加える」とか気軽に口走ってしまうのは、どこかの平和ボケした国の首相でした。

この『アメリカンスナイパー』は、USA本国で賛否両論あったみたいですね。
マイケル=ムーアのような左派系映画人が、「戦争美化のプロパガンダ映画だ」と評するのもわかります。
それを僕なりに表現すると、イラク現地の人たちの描きかたが、浅すぎる!
もちろん出て来ないわけじゃないんですよ。
原作( クリス=カイルの回顧録 ) ではチラリとしか出てこないという敵側のスナイパーは、ライバルとして度々登場します。
オリンピックの射撃競技でシリア代表だった人間が、イラクでの戦いに身を投じた~という設定になってましたね。
でも彼がその選択に至る曲折は全く出て来ないし、家族の背景がチラリと出てきたらしいけど、僕の印象には残ってません。
彼をクリスがついに撃つことに成功するシーンが、エンタテインメントとしての一つのクライマックスになっていて、そのための道具立てに過ぎないような気もします。

そもそも冒頭に、クリスが初めて人を殺す場面があるんですが、それがなんと、対戦車砲を子供に持たせた母子。
戦争というものの非情さを最初から観客に見せつけるのです。
でも母子がなぜそんなことをするに至ったかは、全く描かれません。
またそんなことを考慮していては、冷静なスナイパーにはなれない~という現実でもあるのでしょう。

さらにその後、こんな場面もあります。
クリスが別の民間兵士(?) を遠方から狙って撃ち殺したとき、その男が持っていた兵器を近くにいた子供が手にして、自分が代わりに使えるか迷う…。
その子が本当に兵器を使用するなら、クリスはやはり狙撃するしかありません。
彼は子供に内心「撃つな」「撃つなよ、クソガキ!」と叫びつつ、銃口は狙い定める。
結局その子は兵器を置いたので、クリスもホッとする…。
おそらく実話でしょうね。
映画のなかでも緊張と緩和が交錯するシーンです。
でもね、その子供が一瞬でも兵器を構えた心理、それを置いた心理は、一切描かれない。
まあスナイパーにとっては、それもどうでもよいこと。
ある意味率直な描きかた、と言えるかも知れません。
ただ子供を撃つことは出来れば避けたい~という主人公の心理描写こそが大事なのです。

それは観ようによっては、アメリカ側を中心に描き、敵サイドを「野蛮人」と称して省みないクリスのスタンスもあいまって、たしかにあまりに一方的…。
彼が本国に戻ったときの葛藤も、あくまでもアメリカ側の勝手な悩みに過ぎないとも言えます。
クリス本人はイラク戦争の意義には、これっぽっちも疑いを持っていないのだから、「戦争プロパガンダ」とまで言えるかどうかはともかく、反戦映画とも言えないんじゃないでしょうかー。

でも考えてみれば、戦争というものは、殺し合いが始まってしまえば、現場の兵士たちは相手の立場を考慮する余裕など無くなってしまうものかもしれません。
その意味では、イーストウッド監督は、それをリアルに描ききっただけな気もします。
でもだからこそ、安易なヒューマニズムを許さない、リアルな戦争のマイナス面がさらけ出されている…のかも。

僕がこういう場合によく挙げる例が、ストウ夫人の『アンクルトムの小屋』です。
あの小説はリンカーン大統領の奴隷解放政策に向けて白人世論に大きな影響を与えたと言われます。
でも一方で、そこでは主人公アンクルトムも含めて、黒人サイドの内面はあまり深く描かれてはいない。
あくまでも気の毒な黒人奴隷を助けようとする白人の物語~という印象です。
でもね、だからこそ当時の白人世論に訴える力があった、とも言えるんじゃないでしょうかー。
ストウ夫人自身も白人。
その白人の立場から、生半可なヒューマニズムで黒人サイドの内面を描いてみせても、薄っぺらいものにしかならないはず。
だから彼女は徹底して「助ける白人」にフォーカスして描いたのかもしれません。
それはある意味、傲慢さを排した謙虚な姿勢かも…。
一方それが当時の奴隷解放政策の限界だ~という冷めた見方も出来るでしょう。
その百年後にもなお、公民権運動が必要だったことを思えば…。
でもそうだったとしても、やはり『アンクルトムの小屋』が当時に大きな影響を与えたことも間違いない~と思うわけです。

似た構図を、『アメリカンスナイパー』にも感じるんですね。
9・11 後の一般的アメリカ人、とくに保守的なアメリカ人に、ムスリム(イスラム教徒) の立場で考えろ~と言ったって難しい。
むしろ傲慢で勝手な連帯意識を振りかざしたりすると、「イラクの独裁政権を倒して、アメリカ流の議会選挙さえ実現すれば~」と突っ走ったのが、現在の大混迷を招いた気もします。
その点この映画の視点はあえて徹底的にアメリカ人側に寄り添い、安易な連帯など表明しない。
でもそこからイラク介入戦争の矛盾をさらけ出す…。
それはそれで謙虚な潔さではないでしょうかー。
冒頭で紹介した主人公の戸惑いをリアルに描いている姿勢に、僕はそれを感じるのです。

ただ正直いうと、僕はこの主人公カイルが持つテキサス魂的なマッチョ感覚にはついてゆけません。
たぶんこういう感覚は、アメリカの保守派が好きなんでしょうね。
(日本でも~)
マイケル=ムーアなんかとは正反対な感覚の人たち…。
でも逆に言えば、そんな人たちにも届く感覚から、イラク戦争への違和感を描く。
そういう幅の広さって、大事なんじゃないでしょうかー。

誰かが書いてましたが、イーストウッドというのは、一つの作品では一方からしか描けない、いやあえて一方から描く監督だそうです。
でも徹底的にアメリカ側から硫黄島の戦いを描いた『父親たちの星条旗』のあと、徹底的に日本側から描いた『硫黄島からの手紙』を作った。
ちなみに僕はどちらの作品も観てないので、これはあくまでもその論者の例示です。
けれどもしこの例示が的を得ているなら、今度は徹底的にムスリム側から描いたイラクの映画を作ってみてほしいものです。