青函連絡船摩周丸、八甲田丸とのご縁 | スプーンの気まぐれ日記

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ヤフーブログから引越して来ましたが、すでに日記ではありません。「気まぐれ」ですから、投稿は密になることも疎になることもございます。
海峡は本日も「ねんどろ」でしょう。健康のために多少の鉄分も摂ります。

ご訪問の皆様、こんこん(こんばんはorこんにちは)です。

 

私が初めて青函連絡船に乗ったのは1978年(昭和58年)3月5日の1便摩周丸でした。

春休みに帰省中の同級生を帯広近くの芽室に訪ねること。そして最後の活躍をしている10系寝台車の乗り納めが目的でした。青函連絡船は必然的に行きと帰りの交通経路に含まれました。ED75牽く50系客車に揺られて12系客車の発電エンジンの音が響く青森駅に到着し、桟橋待合室で待ちました。初めて対面したのは折り返し101便になる十和田丸でしたが、乗船は1便(摩周丸)と決めていました。

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この旅の帰りも摩周丸でした。

 これ以降終航までの期間、在学中は春休みと夏休み。就職してからは完全週休2日を利用して金曜日から夜行列車を利用して月曜日の出勤まで、夏冬(春)にかかわらず北海道へ行きました。接続列車の関係から連絡船は乙便を利用する機会が多く、いちばん乗る機会があったのが摩周丸でした。風速20mを越える西北西の風で時化られ、青函航路でいちばん恐い思いをしたのもこの船です。

鉄路の一部という認識がやがて変わって、船それぞれを意識しする様になりました。摩周丸と対照的に八甲田丸は上り便で1回乗船したきりでしたの。それで終航直前の最後の乗船は八甲田丸にしました(結果的には暫定運航の最終便十和田丸が最後)。

 

その後語りつぐ青函連絡船の会のメンバーになって(現在は賛助会員)、その活動拠点が函館に移り、新駅舎の2階でいるか文庫が始まった頃だったと思います。

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摩周丸のA組船長でいらした山内船長と元海務部の山口さんがいろいろ力になってくださり、お二人のイニシャルからワイワイ(YY)コンビと呼ばれていました。

 

最近、その山内船長が摩周丸終航の1988年(昭和63年)3月13日に綴られたと思しき詩が私の元にやって来ました。

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これは終航が近くなった時期に販売された「栄光の航跡」という連絡船各船のポスター類の、小型版の裏に記された山内船長直筆のものです。

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山内船長がご自身のために(記念)または誰かのために書かれたのかは今となっては知る由もありませんが、当時の船長の想いが伝わって来ます。

 

まだ札幌にバンモデリングがあった頃、そのレジンキットのサンプル組み立てを語りつぐ会より依頼されました。1/700摩周丸と洞爺丸のウォーターラインモデルの2隻を素組および塗装して納めました。

それが今もいるか文庫のショウケースの中に飾られています。しかも山内船長製作のシズキョーの十和田丸と並んで。山内船長のお名前は弘、スプーンは博。文字こそ違いますが、こうして並べていただくご縁に感謝であります。

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ペパクラの制作からチョロQ、そして天賞堂製サウンド付きモデルのお手伝いに至るまで、摩周丸を中心とした青函連絡船とのご縁は続きました。そしていつの間にかアラカンになってしまったスプーンであります。

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最後までお読みくださいましてありがとうございます。