前回のブログに書いたように、私は夫の命を守るためだけ、心の中はそれだけであった。

仕事がら、何度も救急隊とは接してきた。

今回のような救急隊の対応は初めてだ。

身内や友人をもその時は憎んだ。

早く早く病院へ夫を搬送したいあまりに‥。


そして、入院中のムンテラで、夫の癌は、頸動脈を巻き込んでいる。

いずれ、この頸動脈は破裂する可能性はほぼ確実だということ。

さすがの阪大も、そうなると手のつく仕様がないこと。

それはいつ起きるかはわからないこと。

覚悟はしておくように。ということ‥。

そう言われた。


それが、あんなに調子が良くなったときに起こってしまったのだ‥。


そして、夫はその時、救急車を呼ぶように私に訴えた。


夫は入院中も自宅療養中も、もしものことがあっても自分は家族に見守られながら自宅で逝きたい。

いつも先生たちにそう話していた。


なぜ、夫はあのとき救急車を呼ぶように伝えたのか‥

夫は、生きたいのだ。生きていたいのだ。

私はそう感じ取った。

夫は諦めていない。


救命救急センターの入口をじっと見ながら私はこのようなことを考えていた。

そして、神様がいるのなら夫をどうか助けてと心の中で叫んでいた。


約20分後一人の若い医者が私たちのところへ来た。

「まだ処置中ですのでお待ち下さい」

と私に伝えて、子供たち4人に話しかけた。

「君たちのお父さんも、僕たち医療スタッフも頑張っているからね。 でもね、頑張っても命を救えないときもあるんだ。 僕は中学生のときにお母さんが死んじゃったんだよ。とてもとても悲しくて辛かった。僕は今の君たちの気持ち、よくわかるよ。」

子供たちの表情は真剣な眼差しでその先生の顔を見ながら聞いていた。


「では、処置へ戻ります」

と私に伝え、処置室へ戻って行った。


一分一秒がこんに長いと感じたことはなかった。

夫に会いたい。

夫の側に付いてあげたい‥。


時間がどれだけ経ったのかもわからない‥。

救急センターの看護師に呼ばれた。

救急室に入れてもらえることになった。

そこには、夫がベッドに横たわっていた。

凄まじい処置をした痕跡の残った処置室。

衣類は外され、裸のまま上から薄いシーツが被われていた。

そして、救急センターの医者から説明を受けた。

「かなりの出血量で大変危険な状態でしたが、なんとか止血し、意識も回復しました。とりあえず、病棟に上がってもらいます。」

そして先生が大きな声で

「〇〇先生!〇〇先生!」

と夫の肩を叩きながら呼ぶ。

夫の目が開いた!


キセキだ!

頸動脈破裂した時は、手のつくしようがないと言われた。

キセキだ!


いや、ここの阪大病院の救命救急センターの先生やスタッフの力と夫の「生きたい!」という気持ちがあったからだ!


私たちは病棟の看護師に誘導され、病棟の観察室に入り、それから夫も運ばれてきた。

「お父さん」

私は夫の冷え切った手を握ってそれ以上言葉が出なかった。

時は午前7時30分。


私は直ぐに、教授に呼ばれた。

教授は

「単刀直入に話します。」

「はいっ」

教授が話し出す

「ご主人さんの体の中の血液は、半分以下もありません。 今意識があるのも奇跡的なことです。 次に出血したらこれが最期になります。 今から一日ももたないでしょう。 ご主人さんは、入院中から家族だけに見守られて逝きたいと言っていました。 ご主人さんの側から離れないでお子さんたちと一緒に居てあげてください。 そして、今、体を冷えた状態にして止血しています。 決して体を温めないでください。 そしてご主人さんを寝かせないように話しかけたりしながら起こしてください。 最後の蘇生はご主人の意向で行いません。 それでいいですか?」


「はい。主人からも聞いていました。」


教授の話しが終わり、主人のいる観察室に入った。

カメラも設置され、大急処置ができる設備の整った広々とした部屋。

この部屋に入っているだけで、これから夫が再急変、再出血する可能性が大ということが分かる。




いつの間にか、親戚らが夫を囲んで夫に話しかけていた。

姉が連絡したようだ。

会話は手短くとお願いした。

そして、私の母もかけつけることを姉から聞いた。

老いた母が一人で飛行機に乗って大阪に向かっていると‥。

胸が突き刺さる思いだった。


また、この日は平日だ。

子供たちが、「学校どうするの?」と聞いてきた。

すっかり忘れていた。

上の子2人にそれぞれの学校に電話して、休みの連絡をさせた。



夫は少し私が側から離れると子供たちに「お母さんは?」と聞いていたようだ。

私にずっと側に居てほしかったんだと思う。

私は夫の手を握り、ずっと話しかけいた。

「どこか痛くない?」

夫は体の下のほうを指さした。

尿道カテーテルだ。

不快感があるようだったが、「これは今は外せないみたい。」

そんな会話をしているとき、その日は他の病院で外来担当だった助教授(主治医)もかけつけてきた。

夫に話しかけ、夫も来るとは思っていなかったようで驚いていた。

夫の初診から診てくれていた先生だ。

夫は「先生、ありがとうございました」

と口パクで言った。

まるで、先生にさよならを言うように‥。

悲しかった‥。


そして、母が病院へ到着したと姉から聞き、病院入口まで駆け足で迎えに行った。

母は泣き崩れながら、「〇〇は〇〇は‥」と夫の名前を叫んでいた。

この姿‥一年前にも見た光景だ。

一年前半前に父親が亡くなった時の‥。

入院中の父親の看病疲れの母に代わり、私が父親の側に居た。

私の実家は離島で、飛行機で帰省した。


父親のこの日の様態は悪く、危険な状態でもあったが、少しでも母を休ませるために帰宅してもらった。

母は少し休んでまた来ると言って病室を出た。

深夜父親の様態がさらに悪化。

「父ちゃん!父ちゃん!」

と私が父親の耳元で叫ぶと父親は私の手を力いっぱいギューっと握ってくれた。

まだ大丈夫!

私は母親に電話をするもなかなか出ない。

姉、兄に連絡をし母親に連絡を切らさないよう頼んだ。

母親は疲れ切って寝ていたようだ。

ようやく連絡がつき、母親は病院に向かう。

そして、福岡に住む兄が電話で父親を励ます。

電話を切った数分後、父親は眠るように息を引取った‥。

霊安室に移動され、そこで母親を待った。

母親が泣き崩れながら霊安室に入ってきた。

母親の泣いた姿を見たのはこの時が初めてであった。


そして、その一年前後、また同じ光景を見た。

辛かった。

「ごめん、母ちゃんごめん」

私は心の中でそう叫んだ。


直ぐに夫と対面した母親。

母親は夫の手を強く手を握っていた。


それから、夫は血の気のない顔色でありながらも、子供たちと、ジャンケンポンをして遊んでいた。

子供たちは、楽しそうだった。


私は常に時計の針を見ながら、「一日もたない」と言われたことが頭から離れなかった。


夫は疲れたのか目を閉じた。

寝かしてはいけない!

私は夫の耳元で、「寝たらダメだよ」と静かに囁いた。

夫は

「わかってる」

そう言った。


子供たちは夫の冷え切った足や手をすすっている。


そして夫は目を開き、私と子供たちに、両手を合わせて、

「ごめんね」

と言った。

最後のお別れのように‥

私は涙を拭った。


「大丈夫、ずっと側にいるから」


その間、私は姉と母親に、自宅の片付けを頼んだ。

夫が自宅に帰る‥準備のために‥。


血の海状態な部屋を‥きれいにしてもらった。


時計の針は午後12時すぎ。

子供たちには、病院内のコンビニでおにぎりを買ってきてもらい食べさせた。


夫が痛み止めの投薬を訴えてきた。

これを入れると死が速まる‥

夫にそれとなく聞くと

「わかってる。だけど痛み止めを入れてくれ」の一点張りだった。


私はナースコールを押し、看護師に痛み止めの投薬をお願いした。

看護師も戸惑っていたが、「夫の意思です」と伝えた。

看護師は「わかりました。先生に伝えてきます」と言って部屋を出た。

その間も夫は、「痛い痛い」と苦しんでいた。

直ぐに看護師が痛み止めの投薬をした。

夫は少しホッとした様子だった。


それから約15 分後、夫が私に何か話しかけてきた。

その途端、鼻血が出てきた。

私は急いでガーゼで鼻を押さえ、ナースコールを押し、長女に出血したことを言いにナースステーションまで行かせた。


それから秒単位で医者が次々と駆けつけてきた。

一人の看護師が、私に「点滴を入れてもいいですか?」と言ってきた。

私は「お願いします!」と返事した。


そうだった。

夫は最悪の状態になった時の蘇生はしないでと話していたんだ。

でも私は助けてほしかった。


出血が凄まじい勢いで吹き出してくる。

医者たちは「〇〇先生!しっかり!〇〇先生!」と叫びながら出血を吸引する。

吸引チューブを引き抜き太いチューブのまま吸引をしだした。

吸引しながらその医者は泣いていた。

その医者は、夫の入院中の若い二人目の主治医だった。

夫にいろんなことを教わっていた。

研修医を連れてきて、夫の腕を使って動脈血採集のコツを教えてもらったり、薬の処方の相談をしたりしていた先生だった。


そして、他の医者が私たちに

「奥さん、お子さんたち、お父さんの側についてあげて話かけてください。 耳はまだしっかり聞こえてますから」

と。

私と子供たちは夫を囲んで励まし続けた。

子供たちは「お父さん!頑張って!お父さん!」とずっと叫んでいた。

出血が収まり、というか、体内の血液はもう無くなったのだろう‥。

医者が、「お父さんの側にずっと付いてあげてください、これからはご家族だけの時間です」

医者も看護師も皆部屋から出ていき、私たち家族だけになった。

急に静まり返った空気。

心電図モニターの波形は緩やかに40〜30を打っていた。

夫の意識はない。

眠っているようだった。

私は耳元でいろんなことを話しかけていた。

心電図モニター、20代まで落ちてきた。

子供たちに、合図した。

「お父さんに今までありがとうのお礼を言いなさい」

4人それぞれが夫の耳元で

「お父さん、今までありがとう」

4人とも涙が流れている。


夫の呼吸が浅くなり、無呼吸状態になってきた。

私はまだ!まだ!と諦めたくなかった。

しつこくしつこく、夫の耳元で、

「お父さん!呼吸!呼吸忘れてるよ!息を大きく吸って〜」

と言うと、夫は大きく息を吸ってくれた。

モニターの心拍数10代

医者、看護師が静かに部屋に入ってきていた。

私が「息を吸って」

それに反応する夫を見ながらすすり泣きする看護師もいた。

私は、これが最期だとわかった。

最期の夫への言葉を耳元で伝えた。

「お父さん、もう疲れて眠たいね。 いっぱい頑張ったもんね。 またいつか、この六人家族で会おうね!それまで待っててね。」

心拍数フラット。

子供たちは大声で「お父さん!お父さん!」と泣き出す。


9月26日、午後1時15分、夫は天国へと旅立った。

享年51歳。


姉と母親から後で聞いたことだが、約同時刻、夫の溺愛していた愛犬が玄関先で遠吠えをしていたそうだ。

遠吠えをしているのは聞いたこともないのだが。

愛犬は夫が恋しくてたまらなかったんだろう‥。

置いて逝かないでと叫んでいたのだろう‥。






 

 



 

 



 

 


 

 



 

 



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