今日は以前の大学の授業で親しくなった仲間と大学の近くでランチを取ることになっている。

フォーシーズンという名の中華のレストラン。もちろん、本元の企業とは何の関係もない。

立て込んだ入り口を分け入って、奥の個室に向かう。

皆で10人以上は居るが、殆どそろっていて、すでに食事が始まっていた。

私達がここに集う時はいつもその席と決まっている。予約の詳細もすべては、上海語でなければ通じないような場所だけれど、幸いに私の同級生の中には何年も上海に在住しているタイ人がおり、すべては彼が取り仕切ってくれた。

ムーチャという名の彼は、7年以上も大学に席を置いて、働くわけでもなく毎日学校に通ってきていた。

しゃれたイタリア料理屋に行けば、ワインを彼のおごりで、ふるまわれたりもする。

なにより、35歳はとっくに越えているのに、働いた経験はないらしい。ひたすら消費するだけの人種。

おそらく、私たち日本人には想像もつかない、金持ちだ。

大多数がそういった人種で私のクラスは構成されていた。その中で日本人は私と、タカという青年だけだった。タカは中国人の美しいガールフレンドがおり、1年という短い留学生活を楽しんでいる院生である。

私は時折、タカと、つまみさえないような寂れたバーで甘ったるいカクテルを飲みながら、時間を過ごしたりすることもあった。

騒がしい中国語と英語の交じって飛び交う会話に、やや疲れを感じ始めた私に、携帯電話の振動が伝わった。「ハロー?」そういうと、「比呂さんですか?」と受話器の向こうから日本語で問いかけて来た。

聞き覚えがない。

「あ、僕、レンです。覚えてますか?」もちろんその名前を忘れるわけがない。

初めて聞く電話でのレンの声。

それが、たとえなんであっても、「初めて」と言うものは人をわくわくさせる。

あの、レンとの最初の出会いのあとから、すでに、2週間が過ぎていた。


あの夜、私たちは彼のコーディネートでおしゃれな中国料理の店に案内された。

殆どの客は白人と香港か台湾系の中国人である。料理は、装飾的であったが、味は普通である。

しかし、その店内のリゾート風のインテリアには圧倒させられるものがあった。

彼は、日本から来た女性の喜びそうな場所をチョイスしたのだろう。

レンは饒舌すぎず、寡黙すぎず、心地よいバランスで上海の新しい情報を語ってくれた。

しばらくすると、レンはいきなり私のことについて、矢継ぎ早に質問し始めた。

私はこういうとき、いつも自分にブレーキをかける。語りすぎて、失敗した例が何度もあった。

相手に自分の情報を与えすぎると、あとで、後悔する。

相手が利口な場合、私を不機嫌にさせるも、上機嫌にさせるも、相手の自由になるからだ。

そうなると、会話から相手の本質を見抜けなくなる。

わたしは、ひたすら自分の情報は与えず、彼のおしゃべりに耳を傾けながら、彼を知ろうとした。

気がつくと、私とレンは、そこに二人きりで居るかのように、みつめあって話し込んでいた。

「しまった。」と心の私が言う。

彼のパートナーと紗枝のことをすっかり忘れてしまっていたのだ。

それはレンも同じだった。


その空気をかき消すかのように、彼は突然言った。「僕、比呂さんと、是非仕事がしたい。一緒に仕事しましょう。」


紗枝をホテルまで送るタクシーの中で、二人っきりになったときに紗枝が言った。

「さっきのレンさん、私、レンさんが比呂さんにプロポーズしたみたいに見えた。」彼女は笑っていなかった。

「私が比呂さんと、一緒に仕事したいんだからね。レンさんとは、ダメよ。」

タクシーの窓の左側に外灘のライティングされた建物が斜めに反射されて移っている。

私はその中に映る自分の顔を他人のように見つめた。

「うん、レンさんには、私からは連絡しないから。」

「蘇州からどもっだら、比呂さんに連絡入れるから、今度は二人で食事しましょうね。」

紗枝は、大きく息を吸い込んで目を閉じた。

建物の光の轍は途切れることはなく、闇の向こうまで続いていた。

「遅くなりましたー。ごめんなさい。お元気そうですね。」彼女は伸びのある美しい声で挨拶をすると、後ろにいた彼らを振り返り「あ、こちらがレンさんと、奥様です。」と私に紹介した。

まるで以前からの知り合いのような紹介の仕方だった。

「はじめまして、レンです。お会いできて光栄です。雨宮さんがお友達とお食事する機会に、いきなり割り込んだようになってしまって。申し訳ないです。」

彼の整った顔がすぐ目の前にあった。

そこに留まることが許されないような危うい魅力に包まれた笑顔を浮かべながら、はにかんだように、レンが言う。

彼はどのようなしぐさが自分をもっとも魅力的に見せるのか、熟知しているかのように見えた。

「いえ、こちらこそ、お仕事で来ている紗枝ちゃんに、あ、すみません。雨宮さんのことです。お時間ないのはわかっていたのですが。でも、よかったです。ご一緒できて。私、佐伯田と申します。」 

紗枝は私達を見ながら「あ、レンさん、私の事紗枝って呼んでくださってかまわないわよ。堅苦しいのはきらいなんです。佐伯田さんのことは比呂さんでだいじょうぶ。ね?」

38歳にもなるのに、相変わらずの、元気さだ。紗枝の明るさと、鷹揚さは、いつも周りを和ませる。

それは人一倍彼女が繊細であることの裏返しであることに私は気付いている。


ありきたりな自己紹介を終えて、初めてレンがパートナーを伴って来ていることに気がついたのだった。

レンの彼女は、確かにそこに立っているのだが、完全に、ここではない別の場所にいるように見えた。

顔が疲れている。年上のように見えたが、レンより2才下の36歳ということだった。

たいてい年より老けて見える女房をみると、その夫が何かで妻に苦労をさせていると思って間違いない。

レンの場合、その原因は彼の女性関係なのかもしれないと思った。

わたしは、ふと、レンのパートナーが私を凝視していることに気がついた。

わたしは、先ほどのロビーでのレンとの対面を思い出した。

まだ彼がその「レン」である事を知らない,ほんの数十分前の事だ。

彼のパートナーが、その時のレンを見る私の視線に気づいてたとしたらと思いめぐらせ、思わず赤面しそうになった。いまさら後悔しても仕方がない。

「初めまして。比呂と申します。」自分の右手を彼女に差し出した。


バックで上海ジャズの「得不至的愛情」が間の抜けたようなトランペットと共に流れ始めた。

[私は愛を得られない]と歌っている。


私は、なぜこの上海に来たのか。

なぜ、今ここにいるのか。

その答えのすべてを後に、レンから知ることになる。


私たち4人は、絶対にありそうもない出会いを果たした後、ホテルをあとにした。

私は彼と目があった瞬間、彼に飲み込まれたように自分の細胞のすべてが止まったように感じた。

しかし、すぐに、それを誰かに、さとられやしないかと、私は注意深くあたりを見回した。

「まったく。年甲斐もない。」こんな感覚は何年も感じていない衝撃と呼べるようなものだった。

私の戸惑いの向こうに彼が立っていた。

敏捷でいて品のある動きは、その均整の取れた身体から生み出されるのか。

揺れるような長めの巻き毛、少し焼けた美しい首、通った鼻筋、輝きのある知的な瞳。

一見ではアジア人とは思えない顔立ちに、クリーム色のジャケットが彼の美しさを一層引き立てて、ホテル中のライトすべてが彼に向けられているかのようだった。

彼は中国人なんだろうか、それとも日本人。あるいはハーフか。

一瞬に私の脳を多くの疑問が飛び交う。

こちらを見ている彼を見て、私は瞬間的に、私の友人が待ち合わせをしている人間かもしれないと直感した。

あちらも、私の事を、うかがっているような眼差しに見て取れた。

私の事を、私の友人と思っているのかもしれない。

とにかく、今は私と日本から来る友人以外は、お互いを全く知らないという状況だ。

声をかけるのにも、どのようにかければよいか解らないまま、予定通りロビーの見えるカフェに席を取った。

残念な事に私の視界から、その美しい彼は消えた。

しばらく本を読んだりしながら、時間をつぶしていると、私の携帯電話が鳴った。

彼女からだ。もうホテルのそこまで来ているらしい。私はカフェにいることを伝えて電話を切った。

ロビーからは上海の顔が見える。資本主義の恩恵を存分にこうむった、いびつな反映の轍だ。

この轍はぐるぐると中国の端から橋まで、マーキングのように終わることなくつけられるんだろう。

ライティングされたビルを眺めながら、そんなことを考えた。

私の轍はどの土地で途切れるんだろうか。

誰か教えて欲しい。

濃いコーヒーのお代わりを頼んだ瞬間、いきなりロビーが騒がしくなった。

「バスが着いたのかな?」 そちらに目をやると、以前会った時と全く変わらない、スリムでセンスのよい着こなしの彼女が先ほどの彼と挨拶を交わしているところだった。
「やはり、彼がその人だったんだ・・・。」私は心の中でつぶやく。

挨拶が終わると彼女はカフェにいる私を見つけ出し、手を振りながら、こちらにやってきた。

私が、彼とはじめて出会ったのは、私が上海に来て3ヶ月が過ぎようとした12月のはじめ頃だった。

私は友人と待ち合わせたホテルに急いだ。

もう、とっくに自分を急かせるすべてと縁を切った、穏やかな生活がパリにいた頃と合わせると2年以上続いていた。

あまりの退屈さから、この上海を選んで、やってきたのが9月だ。

学校の授業時間が唯一私を急き立てるタイマーのように、毎日、少しだけ私を拘束する。

今日は休日。私を縛るものは何もないはずなのに、久々に日本から来る友人との食事の約束のせいで、朝から、なんだかバタバタと忙しかった。

タクシーを南京西路に位置するホテルに走らせる。

ホテルのバスが空港まで迎えに行くので、私たちはロビーで会うことになっていた。

タクシーがエントランスに着くやいなや、ボーイが待っていたかのようにドアを開ける。

急いでロビーに入り、真っ先にフロントに向かった。

上海が初めての彼女に不安を与えたくない。

彼女のチェックインを確認する。

私はフロントレディから流暢な英語で、ホテルのバスが渋滞していて到着が遅れることを伝えられた。

「よかった。ありがとう。ところで、どのぐらいで着くか解りますか?」たずねると、後20分はかかるということである。

最初から英語で挨拶されたところを見ると、どう見ても私は中国人に見えないらしい。

昨日、急に友人の上司から連絡が入り、今夜は上海駐在の部下夫妻と食事を共にするよう言い渡されたようだ。だから、今夜は4人での食事会となる。

最近では、少し億劫ではあるが、知らない人間とも平気で楽しんで食事出来るようになった。

そうでなければ、海外での一人暮らしは、とても無理というものだ。

見知らぬ彼らもこのロビーに来ているはずだ。でも、今はまだいない。日本人らしき人物は見当たらない。

私は汗ばんで、少し疲れた鏡の中の自分を見る。

「なんだか、老けたな。」そう独り言をいいながら、頬を引っ張ってみた。

時計を見るとまだ、少し時間がある。

「ロビーの見えるカフェでお茶でもして、待つか。」私がそう考えながら化粧室から出てきたときだった。

受付に向かう一人の男性が目に飛び込んできた。