どうやら、紗枝は私とレンの出会いに、どうしても必要不可欠なファクターになっているようで、自分でそれを喜んでいるようにも見える。
「比呂さん、今回の蘇州の予定は?」レンが紗枝を横目で見ながら聞いてくる。

紗枝は間髪をいれずに「今日は、仕事の後会食がありますので、比呂さんは時間ありません。よろしく。お誘いしないでくださいよ。」と答える。
「はいはい。今日は私も時間が詰まっていて、あ、もう行かなくては。では比呂さん改めて連絡いたします。失礼。」そういって、レンは立ち上がると、大股であっという間にロビーの向こうへ消えていった。

「まったく、忙しい人なんだから。デザート取って来ます。比呂さんは、ヨーグルトか何かたべられますか?」

「じゃ、コーヒを。」私がそういうと、紗枝は奥のデザートが並べられている部屋に向かって行った。

「お皿をお下げしてもよろしいですか?」流暢な英語でテーブルの係りが聞いてくる。

「ええ、お願いします。」皿が持ち上げられた瞬間、テーブルの下に小さな紙切れが落ちた。

何かのメモらしい。手に取った瞬間、とっさにレンが書いたとわかった。

紗枝が手にいっぱい食べきれないほどのデザートを下げて戻ってきた。

私は、さりげなくポケットに、さっきのメモを入れて、コーヒを受け取った。

「ありがとう。」


部屋に戻って、さっきのメモを見る。明日の夜、二人で飲みたいと書かれてあった。

この蘇州にいる理由が、今、見つけられたような気がした。

次の日夕方5時ぐらいから、ホテルに戻った。高校生のように浮かれている自分が恥ずかしい。

紗枝達は、別の会社の展示会後に催されるパーティに出るようだ。本来なら参加しなければいけないけれど、

疲れていることを理由に断った。

今日の夜はレンとの特別な日になるかもしれない。


こうしてレンを思いながらシャワーを浴びていると

男の為にシャワーを浴びる感覚をとうに忘れていた自分に気が付く。

バスローブをまとって、化粧台の前に立つ。

お気に入りのヴェルサーチェのトワレを首筋に付ける。

その時電話が鳴った。

「レンです。」

「はい。私。」

「今日はライブの聴ける店を予約してあります。8時にロビーで。」

そういうと、あっさりと電話は切れた。

鏡の中の自分が、ライトが当てられたように瑞々しく映っている。

恋をしているんだ私。

恋とは、かくも女性を美しくするものなのだろうか。

思わず、鏡を見ながら自分の頬を人差し指でなぞってみる。

「きれい、だわ。」 自分でつぶやく。

念入りに化粧をしていると、時計はすでに8時近くになっていた。

ロビーに急ぐ。

ロビーの下のソファーにレンは横顔を見せて座っていた。

やはり、美しい男だ。

どの方向から見ても、その美しさに隙がない。

私に気が付くと「お姫様、行きましょうか。」

微笑みながらレンが立ち上がった。

ドアを出て行くカップルの一人がレンを見ている。

レンの知性の伴った美しさが、誇らしい。一方で誰にも見せたくない気持ちもある。

今、レンの視線は私から離れない。

自分以外の女性に彼の一瞥の視線も与えたくない。

そんな事を考えるだけで、気が遠くなる。

経験したことの無い感情。束縛?嫉妬?彼の存在自体から生じる対象のない嫉妬。

そんな感覚が存在することをはじめて知った。

ばかばかしい。言い聞かせるけれど、またその不安がこみ上げる。

なるほど、レンの妻を疲れさせているのは、この解明し難い己自身の感情に違いないと思った。

十年以上、こんな感覚に支配され続けたら、誰でも、実際よりも老けてしまうに違いない。

私は今、この瞬間だけを味わいつくそう。他にどうしようもない。


自分に、そう言い聞かせて、レンの腕をとった。


朝、目が覚めた瞬間、どこに自分がいるのかわからなかった。

うっすらと、木で作られたブラインドの隙間から、朝の日差しが差し込んでくる。

このシーツから漂う香りは、ホテル特有のものだ。私は蘇州に出張で来ていることをやっと思い出す。

時間をたしかめるのに、ベッドの横に目をやると、すぐに電話が鳴り出した。

「おはようございます。」受話器の向こうで紗枝が言った。

「比呂さん、おはようございます。よく眠れましたか?

私、もう用意が出来たんですけれど、朝ごはん、ご一緒にどうですか?」

「あ、紗枝さん、ホテルありがとう。スーペリアの角部屋に変更してれたんだ。ベッドが広すぎるのが、ちょっと複雑だけど、ゆったりと寝られた。」私は笑って言った。

「よかったら先にレストランの方に下りていってくれたら嬉しい。

軽くシャワーを浴びたら、すぐ降ります。」紗枝は「了解です。」と言うと電話をきった。

蘇州のホテルはどこも、オリエンタル調に統一されていて、それでいて、西洋人好みに洗練された造りになっている。どろくさい上海とは一味違う。

私は蘇州の方が、好きだ。

軽くシャワーを浴びて、支度を済ませ、階下に降りた。

バイキング形式のレストラン内を左に抜けるとしゃれた中庭に出ることが出来る。時折ウエディングパーティも催される場所のようだ。朝は中庭でも食事をとることができる。中央に設置されたテ

ーブルに談笑している二人の男女が見えた。こちらに背を向けて座っているのは間違いなくレンだった。

驚いた。私の好きな茶色い巻き毛は、彼の肩辺りで揺れている。

その左肩越しから、笑顔の紗枝がちらりと覗いた。私は、いたずらを見つけられたように、赤面する。

あとは、テーブルにつくしかない。

なんでもないような顔を作りながら、テーブルの方に歩いていく。

紗枝の表情から、レンは何かを読み取って、私の方へ振り向いた。

「あ、レンさんじゃありませんか?」自分の方から声をかけた。「先日はどうも。お久しぶりです。」

レンはナプキンで口をぬぐいながら、立ち上がり私の為に椅子を引いた。

紗枝は、「おどろいたでしょう?私の仕掛けた悪戯じゃないのよ、比呂さん。

レンさん、ここで一人で、コーヒを飲んでた。だから、お食事を同じテーブルでって、薦めたの。」

そういって、クスクスと笑った。

紗枝が仕事の電話を受けて、席をはずしている間、窓際に4人の中国人ビジネスマンが入ってきて、大きな声で話しだした。

そちらに目をやると、彼らの席のウインドー越しに、整然と整地された道路が広がっているのが見える。

目に入るすべての建物はパビリオンのように生活感が感じられない。

レンと初めて二人きりで会った夜の光景が、その景色に重ねられ、私は自分の記憶へと意識を集中させる。そこは、東京のお台場でもみられるような打ちっ放しのコンクリートで出来た和食の店だった。

レンがよく来る店のようだ。カウンターに入っている店長と軽く挨拶をしている。何も言わずに、料理が出始める。私達は、この間会った時の盛り上がりとは、正反対に一言もしゃべらない。

不思議なのは、もう、何年もこうして、二人でいたような気がする。

突然、レンが「初めてじゃない気がしますね。こうしてるのが。」と言った。

私は、自分の心の中が読まれてるような気がして、言葉に詰まった。「ほんと。こんなに緊張もせずに、たった1回しか会ったことの無い方と、二人で飲んでることが信じられない。」

私は微笑んで言った。すぐ後で、まるで、媚びたように映ってないか、自己嫌悪する。

「比呂さん、日本酒頼みますか?」「いいですね。今日は寒いので熱燗にしますか?」

私は、今度は嬉しくなって笑って答えた。日本酒はいい。特に二人で飲むには。

たわいの無いことを話した。時計はすでに、夜中の1時を回っていた。

レンは一向に腰を上げる様子も無い。ただ、まったりとしたBGMが私たちの間を行ったり来たりするだけの時間。一口飲んでから何かを話そうとするのだけれど、そうすることが、何か無意味な気がして、言葉は口からは出てこない。それでも、私とレンは、会話していたと思う。無言の会話。それが、お互いに解る気がした。ただ、どうやって、この時間に終止符を打てばよいのか解らなかった。

店の人間が、そろそろ弊店ですと申し訳なさそうに、言ってきた。すでに弊店の時間は、1時間を回っていた。

レンが言った。「僕の家で飲みなおしますか。ここで話してても、つきないから。」

私は、一瞬とまどった。私とレンが、今後どうなるのかそんなことはわからない。でも、わたしの中で何かがストップをかける。「いえ、それは、まずいと思います。」レンは、一瞬、飴を取り上げられた子供のような表情になって、すぐ、思い返したように、「そうですね。じゃ、帰りましょう。」と言って、席を立った。

わたしの中で、まだ、この甘い飴を噛み砕いて飲んでしまう気には、なれない。もっと、この香りを楽しみたい。

外は、客待ちのタクシー以外は車も走っていない。

気が付くとレンが、さっきまで飲んでいた日本酒の入った杯を手に持って笑いながら立っている。

一口飲んで、私に渡す。私も一口飲む。

レンは杯を再度受け取ると、

「なごりおしさに、乾杯。」と言って一口飲んだ。

彼は、うれしそうに見えた。

タクシーの中から彼を振り返りながら、私は、これから先彼を、もっと知りたいと、そう思った。

それから、ひと月程たったころ、紗枝から私に仕事の依頼が来た。

蘇州の会社に出張し、フランス人と交渉に加わって欲しいということだった。英語と多少の中国語なら話せる紗枝に、実際私が必要なのかどうか、わからないが、紗枝がそう望むのなら、そうしよう。
ホテルに迎えに来たバンに乗り込んで、1時間半程ゆられながら蘇州に到着した。

蘇州には、上海と違って、こじんまりとしたしゃれたホテルが多い。私たちは、蘇州に会社を持つ香港人の社長の勧めで、湖畔の近くにある静かなホテルに泊まることになった。
今日は疲れた。ホテルにあるバイキングで、軽くディナーを済ませる事にしよう。

ビールよりはワインが飲みたい。

中国産ワインを頼むことにして、小姐(シャオジェ)を呼んだ時、紗枝が思い出したように言った。

「そう、明日、レンさんも、みえるんですよ。おどろいた?」
私は、一瞬自分の胸の辺りが、揺れるのを感じた。悟られないように、息を呑む。

「え、そうなんだ。仕事で?」「レンさん、比呂さんが来る事知って、急いで出張の予定いれたんじゃないかしら?

もちろん、技術者も一緒に大連から来るって、いってたから、比呂さんと、会うことだけが目的じゃないとは思うけどね。」

ただの気まぐれの仕事の手伝いが、レンの登場によって、違った意味を持たせる。ただ、うれしいと言う気持ちとは違う。これから私はどこに向かっていくのか、空港の税関の前で、ただ指示を待つだけの外国人のように、レンに指示されるのを待つだけの自分。まあ、それも悪くない。

先月レンと初めて二人きりの食事をした後の、別れ難い夜を思い出しながら、目の前の牡蠣を食べる。

急にレンに無性に会いたくなった。その気持ちをかき消すように上品に配列されたバイキングとワインを堪能することに集中する。

一方でまだ見ぬ、レンの顔を思い浮かべていた。

私たちに、あの時とは違う夜が用意されている気がした。

真昼、若い友人達と食事している最中に、かかってきたレンの電話は、ひ

どく場違いな気がした。

「今日は、どうしたんですか?」

私は、レンに問いかける。

「いえ、今度一緒に食事でも、どうですか。よければ、今夜。」

やはり

、レンもそうか。仕事のできる自信家は、誰でも、その日の夜の食事を指

定してくる。

きっと、他のアポイントに穴が開いたからだろう。

私との会食のプリオリティは、さほど高くない。

「あ、今夜は用事が入っていてダメなんです。明日はどうでしょう。」

実際は、マッサージの予約しか入れてはいなかったが、たとえそれが、レンであっても、

穴の開いたアポイントに私の予定を使う気はない。

それは、私が若いときに得た教訓である。

自分の予定は、誰の予定よりも大切に扱う。

人のために、何かを裂いたからといって、見返りは、全くないと思って間違いない。

また、断ったからと言って、恨まれることもないのだ。

憎まれ口はたたかれるかもしれないが、本人は、大して、本気で怒っているわけではない。
レンは、明日、アパートまで車で迎えに行きますといって、電話を切った。
私は、すでに何かがひとりでに動き始めたことを感じた。
目の前に違う扉が開くのが見えた。