この夏、
田園調布資産家殺人事件で
冤罪の罪を着せられた折山敏夫さんが
東京地方裁判所に再審請求書を提出します。
今から32年前、1985(昭和60)年7月16日、
田園調布資産家殺人事件の被疑者として
折山さんは逮捕されました。
折山さんは、
その日から23年間獄中生活です。
折山さんは、
千葉刑務所に20年服役しました。
折山さんは、
平成19年11月に満期出所です。23年が経っていました。
折山さんは、
家や財産はもちろんのこと、
家族も友人も、
何もかも失っていました。
もう少し詳しく書きます。
折山さんは、事件当時、事業家として複数の飲食店等を経営していました。
1985年(昭和60年)7月16日の仕事帰りに経営していた飲食店を出て歩いていたところ、突然5人の警察官に取り囲まれて逮捕されました。
当時から5年前の1980年(昭和55年)7月頃に人を殺したとして、警察・検察の追及を受ける立場となったのです。
被害者とされる佐藤氏は、昭和55年当時、請求人が一緒にビジネスをやろうとしていた相手で、確かに所在が不明になり、請求人も困って探していたのであるが、
折山さんは殺人には全く身に覚えがなかったのです。
昭和60年当時の刑事司法の実態は、現在とはかなり異なり、被疑者・被告人にとって非常に過酷なものです。
折山さんは警視庁地下の留置場にいた136日間、連日窓の無い取調べ室で長時間の取調べを受け、自白を求める警察官から暴行や脅迫を受け続けました。
証拠隠滅などの恐れがあるとして、接見禁止命令が発せられ、近親者とは一切の面会が禁じられました。
弁護人との面会すら、検察官がその都度指定した日時に1回につき15~20分間しか認められませんでした。
逮捕後2週間の内に弁護人と接見できたのは、
5日間の合計で95分間に過ぎなかったのです。
弁護人以外との面会が禁止されていたため、全ての「外」とのやりとりを弁護人を通じて行わなければならず、15~20分の接見時間内に経営していた会社や複数の飲食店の采配、従業員への伝言、妻への伝言、差し入れの依頼も行わなくてはならないのです。
さらに、折山さんと被害者とされた佐藤氏との関係は,多岐にわたる契約や不動産にかかる権利関係が複雑に絡み合っており、短時間の接見では弁護人に説明することすらできなかったのです。
取調べでは、当初は「5年前の7月16日に佐藤氏を殺害しただろう」と追及されたました。
5年前の特定の日に自分が何をしていたのか、いつどのように行動したのか、はっきりした記憶はありません。日記などで確認しようにも、当時の手帳や帳簿など一切合切の資料は捜査機関に押収されて手元には残っていなかったため記憶を呼び戻すこともできなかったのです。
こうして折山さんは弁護人と十分に事件の話をすることすらできないまま、
連日、深夜に及ぶ長時間の取調べ
を受けました。
折山さんは佐藤氏を「殺害した」という自白は一度もしていません。
それでも、捜査官の威圧、理詰めの追及、誘導によって、虚実がないまぜになった様々な供述調書や図面等を作成させられました。
信じられないようですが、虚偽の証拠が作成されるのは組織の体質からはよくあることなのです。
そして、その不当な取り調べの結果、
殺人罪を含む多数の罪で起訴
されました。
その後も、審理中の全期間を通じて折山さんには、
検察官提出記録を詳細に検討することも、
有利な資料を集めて検討することも
許されなかったのである。
「全く手も足も出なかった」、
「警察と検察からの攻撃にさらされて、
壊れそうな自分の心を守るだけで
精一杯だった」
というのが折山さんの正直な思いです。
殺人罪を含む懲役20年の有罪判決が確定した折山さんは、
千葉刑務所に服役することとなりました。
刑務所で所持できる物品の分量は限られることから、
服役中も、膨大な事件記録を手元に置いて読むことはできないのです。
初めての刑務所生活に適応し、
乗り切ることで精一杯でした。
月日が流れ、折山さんは平成19年11月16日に満期出所しました。
逮捕時42歳だった折山さんは64歳になっていました。
昭和60年の逮捕当時、
「殺人鬼」
とマスコミに書き立てられました。
離婚を余儀なくされて妻子を失い、
事業も資産も全てを失った折山さんは、
出所後、64歳でもまずは仕事を得て
生きていかなくてはならなかった。
その苦労の中でも、折山さんは冤罪の無念を生きているうちに晴らしたい一念で、こつこつと再審請求の基礎となる資料を探し当てる作業を行ってきたのです。
出所してようやく事件記録を還付された資料と照らし合わせ、じっくりと検討することができる環境を得たのです。
しかし、再審請求代理人になる弁護士を探すまでには、更に時間を要しました。
弁護士が膨大な記録を検討し、非常に複雑な本件の背景事情や審理経過を理解することも容易ではないのです。
本件の再審請求は,このような長期間にわたる折山さんの労苦を経て、ようやく実現まで行き着いたのです。
折山さんは、2011(平成23)年4月8日に
「自分ひとりだけの孤独な戦いの開始です(雪冤闘争宣言)」
と決意を表明し、一人で再審請求を初めました。
今回の再審請求書提出は、その時よりも多くの人に支えられています。
2017年7月、折山さんは75歳を迎えます。
(左と真ん中は昭和54年秋頃の折山さんと息子たち,右は,現在の折山さん)
私は、折山さんとは某法律事務所の会議室をお借りした再審請求手続きの場に、何をするでもなく居合わせています。
代用監獄の拷問。
何十日と陽の光をみることもできない穴蔵でした。
無実の罪による服役。
千葉刑務所でも、
「再審請求をする者は、
改悛の情がなく、反省していない。」
とされ、仮釈放の対象にはなりませんでした。
23年の獄中生活を終えた末の世界の変わりよう。
当時のビルは、より高いビルの下に古ぼけています。
未だ棄却され続ける再審請求。
私は深い悲しみと郷愁を感じます。
折山さんは、出所してから長いこと世田谷区内のお弁当屋で配達の仕事しています。
普段贅沢をすることもなく、自分が働く弁当屋さんの弁当を食べつつ再審請求の書類を整理しています。
正社員でもなく、時間に自由を持てるパートで働くことを続け、再審請求に結びつく情報の収集を続けています。
私の師匠である山際永三さんは、折山さんの長年の支援者です。
私も微力ながら、ここ3年間折山さんのお手伝いをしています。
また私自身、陰日向から折山さんの恩に支えられています。
私は、この再審請求が認められることを心の底から願っています。
この写真は、獄中者の家族と友人の会の慰安旅行で箱根に行ったときのものです。
折山さんと山際さん、この二人が私の誇るべき先輩です。
人として、どうあるべきか、その背中から良い道、正しい道を教えられています。
ここまで読んでくださった方にお願いがあります。
なぜ、このようなお願いをするのか、一言では言えませんが、
折山さんについて知ってもらいたいため、
この記事のシェアをお願いします。
(2017年5月 獄中者の家族と友人の会慰安旅行 箱根の関所にて撮影)


