(鳥取城 前編から続く)
今から7年前、2014年に鳥取城を訪れた時の話の続きです。
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江戸時代の初期から中期にかけて、鳥取城の中核部を担っていたのが「二の丸」。
藩主の屋敷を中心に、その周りを三重櫓など数棟の櫓が取り囲み、鳥取藩の藩政の中心地となっていました。
築城されてから戦国時代を通して、久松山の頂上にある「山上の丸」が城の中核部を担っていましたが、江戸初期に火災に見舞われてからは、その役割を二の丸へと移行しました。
これは日本各地の山城でも同じような事が起きていて、軍事拠点として険しい山の上に建てられていた城が、江戸時代になって争いが無くなると、藩政や生活の拠点としての役割に変わるのに合わせて、城の中心を利便性の高い山の麓へと移行していきました。
それまで「山上の丸」にあった三層天守に変わり、城のシンボルとなったのが、二の丸の南西の隅に建てられた御三階櫓。
かなり規模の大きい櫓で、その高さは櫓台から18メートル近くもあったそうです。
現存する他の城の天守と比較すると、犬山城の天守と同じくらい。
そう考えると、なかなか大きな櫓ですね。
明治時代には取り壊されてしまったので、現在は櫓台の石垣のみ残っています。
櫓の跡地からは、眼下に広がる鳥取の市街地を一望できます。
見晴らしの良い場所で、しばし休憩…したと思います、たぶん。
全く覚えてないけど(笑)。
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この三階櫓の石垣には、一つの伝説が残されています。
鳥取藩の初代藩主だった池田長吉の時代に作られた三階櫓。
その石垣造りは難航して、積んでは崩れ、積んでは崩れの連続で、なかなか完成しなかったそうです。
そんな苦境の中、華やかに着飾った姿で現場を鼓舞していたのが、長吉の息子である池田長幸の夫人に仕える侍女だった「お左近」という女性。
ある日、お左近が一つの手水鉢を持参し、これを石垣に使ったらどうかと勧めたところ、見事に石垣は完成。
その後、三階櫓も無事に完成を迎えました。
単なる伝説かと思われていましたが、昭和になってから「お左近の手水鉢」らしき石片が発見。
石垣の修復に合わせて、元通りの位置に戻されています。
これだけの石垣の石の中から見つけるのは…と思っていたら、
意外と簡単に発見出来ました(笑)。
ありました!
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三階櫓と対になるような形で、二の丸の東南の隅に建っていたのが「菱櫓」。
その名の通り、菱形に作られた櫓台の上に、これまた菱形の二重櫓という珍しい形でした。
こちらの櫓跡からの眺望も、なかなか見晴らしの良いもの。
ちょうど眼下に見下ろせる「三の丸」は、現在、高校の敷地になっています。
こういう高い場所から見渡してみると、鳥取城の広さを改めて感じます。
山の上にある「山上の丸」まで巡るなら、丸々一日、十分に楽しめそうですね。
まあ、私は、山登りの方は丁重にお断りしましたけど(笑)。
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私が鳥取城を訪れた時は、ちょうど城の修復・復元工事が行われていた時期。
城跡の各所で石垣の修復工事が行われていて、立入禁止の場所も多数。
二の丸から本丸へと向かう大手口の「表御門」も、まだ工事前の段階。
これから7年が経って、どういう姿になっているのか、改めて観に行きたいですね。
(鳥取城 後編に続く)