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「日本100名城」に指定されている城の中で、最も「駅近」にあるという福山城に行ってきました。
広島空港からリムジンバスに乗り、約1時間。
朝早くの旅立ちだったので、この移動時間も貴重な睡眠タイムとなります。
目覚めると、広島県東部の福山駅に到着していました。
広島県で2番目の人口を誇る福山市。
福山駅には新幹線も止まります。
そんな駅の中を抜け、
北口から出た私の前に立ちはだかったのは、
現在、福山城址として残されているのは、本丸と二の丸の一部のみ。
石垣に沿って歩き、城跡への入口を目指します。
駅から石垣までは数十秒ですが、城跡の入口までは少しだけ歩きます。
江戸時代の西暦1619年、それまで安芸・備後を治めていた福島正則が、幕府に許可を得ないうちに広島城を修繕した事をキッカケに、他の国へ転封されてしまいます。
代わりに、備後の領地を与えられたのは、徳川家康の従兄弟にあたる水野勝成。
統治の中心地を福山に定めた勝成は、新たに福山城を築き、城下町を整備しました。
江戸時代に新しい城を築く事というのは、異例中の異例。
新築どころか、城を修繕する事すら幕府の許可無しでは許されない時代です。
実際に、前任者の福島正則は、それを咎められて備後を追われた訳で・・・。
そんな時代背景なのに城の新築を許されたどころか、幕府の完全バックアップを受け、短期間で築城された福山城。
異例の築城が許された理由は、西の有力大名である毛利氏や浅野氏を牽制する役割を与えられていたから、と言われています。
大規模な近代城郭としては、国内で最後に新築された城になります。
将軍家に近い御三家(水戸・尾張・紀州)でさえ許されなかった五重天守が福山城には建てられ、その周囲には三重櫓が7基も築かれている大型城郭。
それまで備前の中心地だった神辺城などの周辺の城から資材を流用する事で、この規模の城郭にしては短期である3年間で完成を迎えました。
その後、水野氏から松平氏、阿部氏と領主(藩主)は替わりながら、備後福山藩の中心地として機能し続けた福山城。
明治維新を迎え、「廃藩置県」が発令されると、その二年後に廃城となりました。
廃城によって大半の櫓や建物が壊されたり売却された中、本丸部分と天守、いくつかの櫓は、時代が昭和になるまで残されていました。
しかし、第二次世界大戦での空襲によって、天守と多くの櫓は焼失してしまいました。
その時、辛うじて焼失を免れ、現在まで残っている貴重な櫓が、この伏見櫓。
入口の階段を登ると、すぐ目の前に現れます。
道を隔てたところにあるのが、福山駅の新幹線ホーム。
ちょうど高さも合っているので、新幹線を降りると、最初に見えるのが伏見櫓になります。
その名の通り、もともとは京都にあった伏見城の櫓を移築したもの。
小さな城なら天守クラスになってもおかしくない、大きく立派な櫓です。
福山城で唯一の現存する櫓で、国の重要文化財に指定されています。
そんな伏見櫓の下を回り込んでいくと・・・
伏見櫓の向かい側に見えてきたのが、筋鉄御門。
伏見櫓と並んで本丸の南西部に位置し、正門となっている筋鉄御門。
この門も戦火を免れ、現存している貴重な建築物です。
当然のように、重要文化財。
「筋鉄」の名前通り、扉や柱に鉄板が貼り付けてある頑丈な門になっています。
この門も、伏見城からの移設だという説があります。
門を潜っていくと、その先は本丸。
福山駅を出てから、まだ10分も経たないうちに、もう城の中心地である本丸です。
(福山城 後編に続く)