
私は紅茶派!
本文はここから去年の5月、漢方治療を始めました。
その時、言い渡された食事制限の禁止項目に、コーヒーが含まれておりました。
香辛料、刺激物、の類が良くないのです。
・・・さて。
高校に入った頃から、コーヒーを飲むことが好きでした。
(中学生だった頃はまだ、「子供の癖に」、と言われ、
家で飲むことはあまり、許されなかったのです(笑))
コーヒーを断つということ、
大丈夫かな・・・と内心不安だったのですが
案外大丈夫でした。
禁を破ったのは去年3回、今年に入ってからは
一度もありません。
そんな訳で。
去年の5月から、
コーヒーの代わりに紅茶を飲むようになりました。
濃く淹れた苦い緑茶を飲めば良いようなもの、なのですけれど、
空腹時に緑茶を飲むと、
おなかが気持ち悪くなるのです。
ですから、紅茶。
最初はミルクティーにして飲んでおりました。
乳製品の摂取量も控えたほうがいいのですが(笑)
飲み始めた頃は物足りなくて。
あまりおいしいと思わずに飲んでおりました。
苦味、香り、刺激、
すべてが物足りなく感じて辛いのです。
脳を麻痺させて休ませるような、
そういう強さを感じない訳です。
それが、辛くて(笑)
そういえばコーヒーって
頭を休ませるために飲んでいたのかもしれない、
そんなことを思いながら
紅茶を飲んでおりました。
その間。
旧知の友が同情してか、
見舞いと称して紅茶やハーブティーを
差し入れてくれました。
生活の木、ルピシア、香寺ハーブガーデン
など、
わたしには縁のないおしゃれな店で
自分用のものを買う序でに
買ってきてくれるようです。
友人は昔から紅茶が好きなのです。
そして、ずっと、ストレートティーで
飲んでいるのです。
内心、わたしはそんな友人を
格好いい・・・と、思っておりました。
育ちのよさ、味覚の繊細さなと
わたしにはない良さ、
わたしには真似ようのない良さを感じて憧れるのです。
約一年、そんな風に過ごして
ある日
ふと、
友人のように
紅茶をストレートで飲んでみたくなりました。
ええ、無論、形だけ真似したくなったのです。
紅茶、ストレートで飲むほうが格好いい気がして(笑)
見た目から入った、と言う訳です。
試してみたら案外おいしかった。
後で考えれば当たり前なのですが
牛乳で割らないほうが
香りも苦味も強く感じられるのです。
なにより、見た目も水色が冴えて美しい。
牛乳を入れるほうがコクのある味になる気はするのですが、
わたしにとっては、
コクよりキレ、
見た目の美しさと香りの強さ、
そして
格好良さの点で
ストレートのほうが勝っていたということのようです・・・多分ね(笑)
因みに。
ストレートで飲むのが格好いい、と思うのは、ただ、
ストレートで飲んでいる友人が格好良く思える、
と言うだけのこと。
たいした根拠はないのです(笑)
「乳製品の摂取量を減らすためにストレートティーを飲む」
という習慣は身につかなかったくせに
「友人の真似をしたくてストレートティーを飲む」
という動機付けで、結果的に
乳製品の摂取量を減らしている辺りに
わたしの人間性が出ているような気がします。
大体において、わたしは、
動機が不純で低俗なほど、燃える人間です(笑)
こんな事情で。
最近はコーヒーは飲んでいないのです。
偶に、狂ったように飲みたくなることはあるのです。
でも、飲まない。
飲んでも仕方ないような気がするのです。
言葉を変えれば、
飲んでも、満足しないような気がする、と言うことです。
仮令、
鈴木珈琲店のマンデリンを飲もうが
三越カフェ・ウィーンのウィーン風カフェオレを飲もうが
もはや満足感は得られないような
気がするのです。
なぜなら。
コーヒーは最早、
わたしにとっては既に「芋粥」のようなもの。
手を出せないから渇望する、
そういう存在であり、そして、
それ以上でも以下でもない、
そんな気がするのです。
もっとはっきり言ってしまえば、
決して手に入ることのないものへの渇望を
「食事制限をしているから飲めないだけ」である
コーヒーを求める気持ちに転化して
自分の心をごまかしている、
そんな防衛規制が、なんとなく、透いて見えるのです。
だからわたしは、コーヒーは飲まない(笑)
意志の弱い人間ですから
偶には飲むかもしれません。
でもとりあえず、今は、飲まないつもりです。
そんな事情で。
わたしはコーヒーを飲まない(笑)
そして毎日紅茶を淹れ
紅茶を飲んでおります。
毎日紅茶を淹れているうちに、
多少は
淹れ方も上達したのかも知れません。
一週間に2、3回は
おいしいと思えるような
紅茶を淹れることもあるのです。
そんなわたしの様子を見て、
件の友人が優しげな声で一言。
「紅茶も美味しいでしょ?」
友人のその微笑はどことなく、
「外は天使、中は悪魔」(ONE OK ROCK「カラス」)、そんな趣でした。
その時、わたしは忽然として悟ったのです。
友人は時間と手間をかけて
わたしが、コーヒーよりも紅茶を好きになるように
仕向けていったのだ、ということを(笑)
正直、
図られた・・・と思いました。
してやられた、一本取られた、
攻略された、という感じです。
まるで、猫科動物のような
周到かつ気長な狩。
友人は、
然も、
わたしの健康管理に寄与するべく
親切心と同情心をもって
わたしが好きになりそうな紅茶を選んでくれたような
顔をしています。
それは疑うべくもなき事実でしょう。
けれども事実のすべてではない。
事実の一部に過ぎないのだ、とわたしは気づいたのです。
sayoをコーヒー党から紅茶党に改宗させられたら
面白いな
友人はそんなことを考えて、
計画的に実験的にsayoに紅茶を与えたのではないかと
思います。
こういうのって多分、類は友を呼ぶ、
と、いうのだろうと思います。
友人もまた、
俗っぽい動機のほうが燃えるタイプ、と言うわけです。
けれども、結果的にわたしは
紅茶を美味しいと思って飲めるようになり、
そして
乳製品の摂取量を減らすこともできました。
良き友の条件に「物くるる友」をあげた吉田兼好は正しい。
そう思います(笑)
今となってはわたしにとってコーヒーは「芋粥」。
現実に味わい、親しむことができる存在ではありません。
五感で楽しむことができるのは
コーヒーではなく、紅茶です。
だから、内心
繊細すぎて上品過ぎて刺激が足りないと思いながら
それでも
わたしが選ぶのは紅茶。
それが、わたしにとっての現実なのです。