子育て考。私の住んでいるところは、賃貸マンションです。ここにいると、遠くから、うちの4歳の娘と同じくらいの子供のものすごい悲鳴が聞こえてくることがあります。本当に悲痛な、声とも言えぬほどの声です。お母さんのしかる声とともに、幼いお姉さんらしき子の、お母さんと一緒になってなじるような声が聞こえてきます。「何べんいったらわかるの」というお母さんの声(私の妻もかつてよく言っていました)。古きよき時代を慕う人たちが、好んで語る、「親にしかられた」原風景はもしかしたらこんなものなのかもしれません。でも、よそごとながら、お母さんは、子供がわかるように、十分説明を尽くしたのか、という疑問がわいてきます。私自身、親にしかられたとき、納得してしかられた、という記憶がありません。幼いとき私の脳が、わがことながら、未発達に見えたのはそのせいかな、と思ったりします。ただただ、前後不覚にわめいている子供の脳が、活性化されるとは、どうしても思えません。妻なんかを見ても、十分情報を、つまり娘のレベルから、わかるような情報を、与えているようには思われません(具体的には2002年3月16日https://ameblo.jp/febmar/entry-12412279074.htmlご参照ください)。
で、それに疑問を持っていたので、娘が生まれてからは、娘の行動は拘束せずに、情報をふんだんに与えてあげることにしました。そうしたら、たとえば、あれほど注射を嫌がっていた娘が、逆に注射好きになったり、、、。自分から喜んで、病院へ出かけていき、注射を打ってもらった腕を、自慢げに高々と掲げているすがたなど、私が思っていた以上の、効果を感じさせたりすることもありました。注射嫌いな子がそうなおるもんか、と思われるかもしれませんが、事実です。私は注射を我慢しろ、というようなことは、一言も言いませんでした。ただ、注射をとても嫌がっていた子が、ある日、看護師さんの説明を受けて、注射に必死に立ち向かった話(ちょっと前にテレビで見たのですが)を話してあげただけです。娘の中で、どのような変化が生じたのかはわかりません。もしかしたら、注射が、怖い怖い針としてだけイメージされていた注射が、人間にとって必要な、怖いものでもなんでもないものだとわかったせいかもしれません。あるいは、私が話してあげた子の、勇気に感動して、自分もそうなりたいと思ったのかもしれません。詳しく聞き出そうとしても、十分論理的に、娘が私に説明することを期待するのは難しいかもしれません。ちなみに私自身は、注射が嫌いで、でも暇なときはよく献血に行ったものでしたが、いつも目をつぶって我慢します。「注射イヤー」と思いながら、、、。そういう自分の弱さも、娘には伝えました。自分が完璧であることを演じる必要もないと思います。しいて言えば、自分なりに筋の通った行動ができればいいのではないかと思います。それが子供に理解されていれば、、、。
今までの話から、私は体罰否定派のように思われるかもしれませんが、体罰を否定するものではありません。私自身、多少痛い目にあわせたほうが有効と思われるときはそうしますし、そう望まれるご家庭もあるのも事実です。しかし、基本は、何事のかかわりをするにも、相手がきちんと納得した上で、ということが大事で、ただ単に厳しく、とか、ただ単に優しく、というのは、まったく違ったかかわりに見えて、まったく同じかかわりに見えたりします。よく、厳しくしすぎたために、非行に走ったとか、優しくしすぎたために、非行に走ったとかいう話を聞きますが、それは的を射た話とは思われません。厳しさ、優しさ、豊かさ、貧しさは非行の原因ではないと思います。一言で言えば、親があるいは周りの人間が子供の視点に立った情報を十分与えてあげていたか、ということに尽きると思います。ここにこそ、私たちの知性が発揮されるのだと思います。こうしろという必要はありません。こうしろといわれなくても、子供は十分自分で行動していく能力を持っているものだと思います。ただ、年が行けばいくほど、その能力は差が出てくるみたいで、いろいろな大人たちを、身近にいっぱい見ることができるのはそのためでしょう。
私は、幼い娘を題材にして語っていますが、子供の能力を伸ばそうと思うとき、かかわり方の基本は、同じだと、いつも思いながら、日々子供たちとかかわっています。年齢は関係ありません。
いずれ、もう少し年のいった子の、同様な話もして見ましょう。
よく、子供のこういう話を聞きませんか?「怒られて仕方ないと思ったら、いくら殴られても仕方ないと思うけど、ただ、ヒステリックにわけもわからずに殴られるのは、絶対いやだ」。この子供たちの感覚を大事にしたいですね。