うっかり | OG:LIFE

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アニメと写真のおはなし

●『指輪~』はこちらに書いたつもりだったのですが、「書いた」というのを日記に書いていただけでした;うっかりしてました。というわけで順番的にはコレが一番最初に書いたレポートです。 文末脚注がついている文章なのでそのままひっぱってきた事情でフォントの設定を変えないまま載せてあります。





 自分は『ハリー・ポッター』を読んでいない上に、『指輪物語』も読んでいない。読んでいない人でもせめて見れそうな映画すら全く見ていない。公開直前・直後、組まれる特集番組を遠くからチラリと眺める、その程度である。読めているのは日本の栗本薫の長編ファンタジー『グイン・サーガ』のみである。

 トールキンの『ホビットの冒険』は「こども向き」を意識して書かれたものだ、そしてそれを意識することで作品の程度が落ちてしまうという。これは大人の中にある「こども像(観)」が実際のこどもよりも十数倍(あるいは数十倍)色々な部分で未熟なものとして捉えられているからだ。

 1998年の4月号の『ユリイカ-詩と批評』(青土社)はトーベ・ヤンソンの特集号である。そこに掲載されているインタビューの中で、トーベはこう言う。


最初の本は、小さな子どもむけのとてもナイーヴで平凡な物語でしたが、以来、わたしの仕事は明らかな発展をとげ、それにつれて本もだんだん子どもっぽくなくなっていきました。やがて、どうしても子どものために書けないところまで行きついたのです。これは自然な変化だと思います。たぶんわたし自身がもはや子どもではなくなったからでしょう。[i]


せっかくうまくいっているのに、すてきなムーミン物語をやめてしまって残念だと評されました。ところが、ムーミン物語がうまくいっていなかったからこそわたしはやめたのです。作家が子どもの本を書こうとの意図だけで書いたら、結果は貧弱なものになります。[ii]


 これは、トーベがムーミンを書くのを止めた理由を問われたその答えである。つまり、ムーミンを書いていた初期はトーベ自身がまだ子ども(の心)であったため、(心の)同士である子どもに対しての本が書けたが、今は(心も)大人になってしまったため、記憶の中の子ども、もはや同士ではない子供としての子どもたちへ向けて書くということは、結局は子どのもためのものにはなりえないということである。恐らく、トールキンの考えもこれと同じであろう。

 日本の三大絵本作家の一人といわれる特別講師の木村裕一先生は、著書『きむら式童話のつくり方』(講談社、2004)の中の「子供」という章で「子供を子供だと思うからいけないんだ」と言っている。そして、子供は半人前じゃない、立派に気遣いもできるし、プライドだってある。小さいからといって人間として半分じゃないという。木村先生も、多くのこどもたちを魅了する作品を作ろうと最初から考えているわけではない。


子供のためといって、子供なんだからきっとこんなのを喜ぶだろうという作品は、かえって子供に失礼ではないかというのは、こういう訳でもある。

安っぽいお子様ランチをつくるつもりでつくったら、童話はいいものは書けない。書いているのは大人なのだ。大人のボクが異聞の日常の中で、真剣に感動したり発見したりしたもの、それらに正面から取り組んでお話をつくり、最後にそれを子供にもわかるような文字と文を探して表現する。

それは本物のステーキを、子供の口にあうように小さく切ってあげるようなものだ。本物のステーキの味をちゃんと子供にも与えるのが、本来の童話だと思う。[iii]


 「良い作品を書こう」と意識してしまうと、延々と納得いかなくなってしまい、仕舞には筆が止まってしまう。この感覚は自己満足程度に絵を嗜むアマチュアの自分においても同じで、意識してしまったときの苦悩を俳句で表し、それを応募して佳作をいただいた、という高校時代の(唯一輝かしい)思い出がある。

初めに見る手の期待を先読みしてはいけない。先読みは勘違いである。少女マンガの世界や一部の少年漫画の世界では、今「ウケる」絵柄やキャラクター配置(その他ストーリーなど)のパターンに習いつつ、独自のものを作っていかなければならないという微妙な感覚があるように思えるが、先にあるものの応用だとあからさまに提示されれば、いくらそれが「ウケる」ものであっても、おそらくマンネリだと手放される運命にあるだろう。20025月の『広告批評』にかつてGAINAXの庵野秀明が、宮崎駿に語った言葉が書かれている。


 自分達はコピー世代の最初だ。その後の世代はコピーのコピーだ。そしていまやコピーのコピーのコピーになっている。それがどれほど歪んで薄くなるか判るでしょう。[iv]


 自らを「最初のコピー世代」と自認した上で語る庵野監督のこの言葉に妙に納得させられる。自分の作品を自分でコピーしてしまったと感じたのは、スタジオジブリが映画化した『ハウルの動く城』の原作者ダイアナ・ウィン・ジョーンズである。原作『魔法使いハウルと火の悪魔』と、その続編である『アブダラと空飛ぶ絨毯』では、その主人公であるソフィーとアブダラの初期の立場や考え方があまりにも似通いすぎている。書き出しの形態もかなり近いために、1頁目でなんとなく展開が読めてしまえそうな感覚になる。歌の世界も、「ウケる」タイプというのが割り出されてきて、似通った歌が増えて、どの曲が誰の曲なのかはっきりと判らなくなってきているように思う。創作物が増えれば増えるほど、それとは違うものを考えなければならず、今恐らく新しいものを作り出すという作業は非常に困難な状況にあるのかもしれない。


 トールキンは言語学を学び、架空の言語「エルフ語」を作り出し、架空の世界に現実と同じような歴史的な厚みを持たせるために創世神話まで用意した。神話の創造はその国に一種の宗教的要素が芽生えることでもあり、世界の次元よりも細かい単位である「国」の存在を示すことにもなると思われる。トールキンの用意した神話がとある一定の種族(と想定した)ものであっても、それはその種族の存在をリアルにさせるための有効な材料となる。

 トールキンは、小説での緻密な説明の提示と視覚的表現とで、想像力の利く範囲に差が出るという。確かに、小説とテレビとでは想像力を使う範囲に違いが出てくる。しかし、「テレビっ子(あるいはアニメっ子)」世代の一人としては、それは一つの例として受け入れているにすぎない。但し、これは大元(原作)の情報が既に自分の中にあれば、の話である。そういった場合は個々に「自分の中のイメージ像」というのが少なからずあるため、イメージが近ければ喜ぶだろうし、異なっていればそれも一例としていいかなと思うのである。勿論、気に入らなければ見ない、という手段を取ったり、心無い人であれば思い切り叩いたりもするだろう。自分の中のイメージ像があるからこそ、(それが歪んでいるにせよ)同人界が活発であるとも言える。どんな設定があっても「これ以外受け付けない」という絶対的な抑制は不可能であろう。二次創作は犯罪であり、規制しようとどんなにがんばってもどこかで二次創作は行われる。今はそういったものを肯定的に発表できる環境も整っている。著作権侵害だといいつつもそういった二次創作の産物が良くも悪くも原作の人気を支える一つの柱になっていることは否定できないため、規制をしようとすると自らの首を軽く絞めるようなことになるといえなくも無い[v]

文学や芸術は作り手が見られているその場その時に居合わせないことが多いが、舞台芸術は完成させたものを始めて公開する瞬間から受け手の反応をリアルタイムに見ることができる。だから、日に日に修正されて同じ作品が少しずつ変っていく。それは「ほとんど同じ」なのかもしれないが「少しずつ違う」もので、毎日「微妙に違うタイプ」を提示し続けることになる。そう考えると、舞台芸術という視覚表現は「これだ」という絶対的なイメージの拘束を行っているとは言えず、そもそもそのような意図は全く無い。芝居を見に来る観客にもその感覚は無いのである。また、受けての想像力に頼りすぎているわけでもない。

 架空の世界に生きる生物を生み出し、それがその世界で生き生きと動ける環境づくりには確かに緻密な設計図が必要ではある。中途半端に終わればその途切れめの中にそのキャラクターが落っこちてしまうかもしれない。そこで行き詰まって物語りが止まってしまうかもしれない。実際に人に見せる部分以外のキャラクターの生きてきた歴史、それが生き物であるために必要な人生も、いつどんな時にふいにキャラクターから語られるときが繰るかも判らない。そういった意味でJ.K.ローリングの創作態度は評価されるのであろう。


 

 





[i] トーベ・ヤンソン/W・グリン=ジョーンズ(聞き手)/安達まみ訳「インンタビュー 私の本とキャラクターたち」P.80L.6L.14 『ユリイカー詩と批評』1998.4月号(第30巻第5/通巻402号)青土社

[ii] トーベ・ヤンソン/W・グリン=ジョーンズ(聞き手)/安達まみ訳「インンタビュー 私の本とキャラクターたち」P.84L.6L.12『ユリイカー詩と批評』1998.4月号(第30巻第5/通巻402号)青土社

[iii] 「子供-ボクはずっとボクだった」P.117 L.8~P.118 L.3

木村裕一著 講談社現代新書『きむら式 童話のつくり方』2004.3 講談社

[iv] 斉藤環「アニメは、いま、どこにいるのか」P.115L.2L.6 『広告批評』No.260 20025月号 マドラ出版

[v] 二次創作を否定する人間が少ないのは、いわゆる「同人あがり」(同人作家からプロに転向した)のマンガ家(主に女性)が沢山出てきているからでもある。同人領域と縁が深いBL系のマンガ家は殆どが「同人あがり」、あるいは現役である。BL系もパターンが限られるため、マンネリではあるのだが、宝塚のスターシステムの如く同じストーリーパターンでキャラのみを次々と変更していくだけでBLの人気は保たれ続けているように思える。





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