「誰も見送りはせぬ約束だったが…
サラが振り返ると、村長がいた。
「村長…。」
マール村のすぐ側に流れるガルフスト河は、
ここから河口にある村、クルスゲンに下っていく。雪解けの季節、
向こう岸の崖を越えて、船着き場に日の光が届いている。6月に入
「出立します。」係留が解かれ、
向こう「岸」といっても、ほぼ「壁」。氷河が蛇行する際、
河を下る間、船長も、村長も、サラも、何も口を開かなかった。
穏やかな日差し。暖かくも、時折冷気を含んだ風がさざめく。
不意に吹く風がサラの髪とじゃれ合い、通り過ぎる。
それは、彼女がこれまで体験したことのない景色。
そんなサラの姿を、村長はただ黙って見つめる。
河下り。マール村にとって、それは二つの意味を持つ。
一つ目は、村の中では手に入らないものを入手するための、
下界から離れて隠遁しているとはいっても、
このクルスゲンという集落。
そして二つ目。それは「河下り」が、マール村の「出る側」
マール村は、村に「入る」と「出る」で「玄関」が異なる。
閉鎖された共同体であるマール村には、自分達の血を守るため、
今サラが乗せられているのは、そういう船。船着き場が、
しかし当のサラには何の関係もない。そもそも、
「そういえば。」
「どうしたね?サラ。」
「クルスゲンまでは二日の旅程と伺いましたが。」
「うむ。」
「とすると、夜は通しで進んで、皆船の上で寝るのですか?」
「?」村長、船長、乗組員、皆の動きが一瞬止まる。間があって、
「なるほど…サラは船の旅は初めてじゃったのう。」
「はい。」
村長は船の縁に手を置いたまま、少し考えるように空を見上げた。
「……夜も進む、とな。」村長は目線をサラに戻す。
「河ならまだしも、海はそうはいかん。」
「夜の海は、道が消える。岸も、流れも、目印もな。」
何か言いかけてサラが小さく息を吸う。それを察して、
「港があるなら、日暮れ前に入る。ないなら、
「無理に進めば、暗礁に腹を裂かれるか、潮に持っていかれる。」
「命を賭けてまで、急ぐものでもないからの。」穏やかに、
サラは首をかしげる。
「……そういうもの、なのですね。」
「そういうものじゃ。」頷いて、村長は短く答えた。
「そして、それは河とて同じことじゃ。人の身も、船も、
「その通りです。」大きく頷く船長。
「私たちにも、休憩をくださいますか?サラ様!」
調子にのる乗組員。振り向くサラ。
一瞬、船長と目が合う。船長は何も言わず、親指を立てた。
「もちろん。喜んで。」苦笑しつつも顔が綻ぶサラ。
「さあ、サラ様のお許しが出たぞ!ちょうど良い頃合いだし、
「了解!」
船は河の流れに身を任せたまま、しばし速度を落とした。
皆に乾いたパンと干し魚が配られ、水革袋が順に回される。
サラは、船縁に腰掛けたまま、皆と同じものを口に運ぶ。
「こう言う食事も、あるのですね…。」
「お口に合いますか?サラ様。」船長が気をまわす。
「ええ、とても。」
「それはよかった。」
「こうして…大勢で、同じ時間を共有して、
予想外の返答に返す言葉をなくし、口をつむってしまう船長。
「そういえば、サラがこんな風に食事をするところなど、
「…………」
二人は押し黙って、
「と、いうことは…、」
「日が暮れる頃までに、船が泊められる場所がある。
「その通りです。一泊目の野営地。ヴァーレです。」
しばらくして、ふとサラは左上から届く黄金色の光に気がついた。
遅めの昼食を食べていた時に進行方向から照らしていた日差しは、
船の周囲はもう完全に日陰に沈んだが、
そんな夜と昼の間(あわい)のなかを船は静かに滑り、
「見えたぞ。ヴァーレだ!」
「接岸準備!各自持ち場につけ!」「了解!」
ゆっくりと、船が桟橋に近づいていく。
「接岸完了。係留急げ!」
「船上作業以外の者は、野営の準備に掛かってくれ。」
「備蓄品・食糧の確認。休憩所の準備。
矢継ぎ早に指示が飛び、乗組員が一斉に仕事に掛かる。
「何せ、サラ様が見てますからな。それは皆も張り切るでしょう。
「そんなものでしょうか…」とサラ。
「そうですとも。」
「さあ、それじゃワシらも降りるとするか。」村長が立ち上がる。
「村長、
「へ?何で知って…おわっと!」
「だから言ったじゃないですか。」ゆっくり慎重に降りるサラ。
「私も、
「いや、そもそもここに来るのすら初めてじゃよ。…まあ、“
「………」言葉が見つからない船長。
晩飯。昼食と変わらないが、
「ワシが手をまわして用意させたものじゃて。
「さすが村長!馳走になります!」船長が礼を言う。
「酒は飲んでもいいが、二日目もある。くれぐれも控え目にな」
村長は船長と、乗組員は乗組員と、それぞれ食事をとる。
「ところで村長。」
「何だね船長。」
「さっきのは、やはり…あれですか。」
「うむ。あれが“織法”(しょくほう)じゃ。」
「“織法”…。間近で体験するのは初めてです…。」
「世界のありようを“糸”として捉える力。さっきのは、
「間近で体験するのは、私も初めてです…。」
「あれが外の世界にでる、と決めたのなら、
「サラは、
「そんなサラが、外の、本当の世界で、やっていけるかどうか…
「……!」村長の言葉を聴いた瞬間、
何のことはない。失われし古の大織法使いと呼ばれた“
「見てごらんなさい村長、サラ様の顔を。
「船長…。」
「信じましょう。彼女を。
「…そうじゃな。ありがとう。」
「さあ、そうと決まれば、乾杯(スコール)しましょう!」
「乾杯?何にだね。」船長からコップを受け取った村長が尋ねる。
「もちろん、サラ様の旅立ちに、です!」
「おお!それは名案じゃ!」
「では!」互いに目を合わせて。
「サラ様の旅立ちを祈って、スコール!」
「スコール!」
夕食という名の酒盛りは夜更けまで続いたが、今は、火の番・
夜更け、といってもこの辺りは白夜の領域に近く、
村長は休憩所からむくりと起き出し、
村長は乾物倉庫側の丸太椅子に腰掛け、辺りを見回す。
サラを見やる。サラは休憩所、資材倉庫側の端で休んでいる。
しばらくサラの様子を見てから、焚き火へと視線を移す。
「サラよ。お前はワシを、マールを、恨んではおるまいか。
お前は、マールでの中でも、稀なるウィーヴィアン“織法使い”
だが、その大きすぎる力ゆえ、ワシらはお前を巫女として奉り、
正直、ワシらは皆、畏れておったのじゃ。
あのハルレナの末裔、ルフィルと言ったか。あの男の事も、
しかし…そうじゃな。あの男こそが、お前を変えてくれた。
お前を「人」にしてくれたのじゃな…。
それまで人形のように無表情だったお前が、
ワシらはお前への接し方を誤った。どうか許しておくれ。
もはや、わしらに出来るのは、
外の世界でこそ、お前は、生ある人として、一人前になれる。
ただ、よりによって…、
ウィーヴの民の中で一人だけがなる「結ばぬ者」に、
願わくば、どうか息災であれ…。」
無音の闇に、焚き火が一切れ爆ぜた。
床に入って、サラは珍しくすぐに眠りに落ちた。
しばらくして、サラは暖かな光の揺らめきに目を開ける。
「…これは…」
「おお、目が覚めたかね。さあ、こっちへ。」と促すのは村長。
「え…村長、何でここに…」
「そんな事気にせずに。ささ、食事にしましょう。」
「あなたは…船長さん?」状況が飲み込めないサラ。
「皆席に着いたかの?」
周りを見回すと、そこは自分の家ではなくマール1号の船上で、
「それじゃあ頂こうか。」
「頂きます!」
「素朴だけど、なかなかいける。」めいめいに談笑しながら、
サラも釣られて笑いながら、
そして気がつくと、そんなサラを後ろで眺める二人の姿が。
「…お父さん…お母さん…?」
二人は黙ったまま、しかしサラを暖かく見守っていた。
「お父さん…お母さん…!」二人の姿は次第に遠ざかっていく。
追いかけることは、できない。きっと追いつけない…。
だからせめて、会いに来てくれたことに、感謝を…。
「ありがとう…。お父さん…お母さん…。いってきます…。」