教員論
前回の記事で書いた「授業参観・保護者会を休んでのど自慢で出ることを選んだ教員」の話は,けっこうネットで話題になっているという。
その前の「自分の子どもの入学式に出るために,自分の高1受け持ちクラスの入学式を休んだ教員」の話とセットで,これまで聖職という言葉であいまいにされてきた「先生という仕事は何なのか」という根本が見直されてきたからだろう。
おそらく教員をされている方々の中にも,「先生という仕事について」,つまり職業観についてきちんとレクチャーされていない人が多いのではないだろうか。もちろん教育学部の授業の中にあるだろうことは想像できるが,社会人になってからの話ね。
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「先生になりたい→先生になれた」という人は「自分の子どもの頃からの夢を叶えた」という点で,私から見ると尊敬の対象に値する。誰でも子どもの頃には,
プロ野球選手になりたい
先生になりたい
パン屋さんになりたい
など希望を持っているもの。ところが,中学・高校,…,と進むうちに自分の能力や環境との折り合いを「自分でつけ(つまり,あきらめるということ)」現実を見始めるのだ。
その点において,「自分の夢を実現した人たち」に対して,私は一目置いている。
ところが,である。私が見る限りにおいて,こうした人たちの中に「夢を実現した→もう人生はゴール」とでも考えているのではないか,と思わせるケースがあるのも事実である。
例えばプロ野球選手であれば,「入団したあと」が本当の勝負であることは誰にでも想像がつく。
自分が生き残るために,食っていくためにどんな選手になるのか
を真剣に考える必要がある。考えない選手は去るのみ。非常にわかりやすい。だからこそ,野村克也氏の言葉ではないが「プロ野球選手である前に,まず社会人として・・・」という考え方をレクチャーされる機会も必要とされる。
それに対し,教員はどうだろう。はたして,教員となったあとに
自分が食っていくためにどんな教員になるのか
と考える必要があるのだろうか。学級経営や指導方法,保護者との対応などを学ぶ必要はヤマほどあるだろうが,そもそも論として「教員である前に,まず社会人として・・・」という視点も含めた職業観について「いつも,ヒマさえあれば考えてみろ」という指導を受けているとは思えない。
かつてであれば,先輩が飲みにでも連れて行って話していたのかもしれない。しかしながら,今の教員には,私から見ても余裕がない。特に若手であればあるほど可哀想なほど時間に追われ,その日一日を無事に過ごすことが目標になっている部分もある。
時間的に考えられないこともそうだが,一生の目標を定めにくい仕事であることも事実だ。
低学年指導のプロフェッショナルになる
は例外としてわかりやすいが,それ以外にはどんな目標が立てられるだろう。「教頭→校長と出世する」を除けば,おそらく「子ども達に慕われる先生でありたい」「目の前の子どもに精一杯向き合い可能性を伸ばしたい」といった,
子どもの頃,自分が先生を見ていたときの視点
をいまだ引きずった目標しか立てられないのではないか,とすら思う場合もある。
子どものうちなら,光り輝く華やかな場面だけを見て憧れていればよい。しかし,それを職業とする以上は,子どもの頃には気付かなかった「影の部分」も飲み込んでおく必要があるだろう。
「当時自分の先生が,どのように自分たちのことを見ていて,どんなことに悩み試行錯誤していたのか」
ことにすら思いをめぐらすことなく夢を実現し,さらにはその後「仕事の根本,職業人の根本」について悩む時間すらとれないとすれば,教員本人にとっても周りの子ども・保護者にとっても不幸でしかない。
今回ネットを騒がせている先生たちは,ルール上の不備があるわけでもなく,正当に権利を行使しただけだ。それなのに,どうしてここまで騒がれるのか,どうして世の中に「ふざけるな!」とまで声を挙げる人がいるのか。
それは,この人たちから「教員になることが人生のゴールでした」とうオーラがにじみ出ているからではないかと,私は思う。逆の視点でいえば「どんな先生になりたいかという目標も持たず,ただ惰性でやってきたのだろうなぁ」と。
現実がどうであれ他人にそう思わせてしまうことを意図せずやっている,ってことに気づかないんだろうなぁ,と。
それが通用してしまうことが,今の教育現場の問題点なのだろう。
私がかつて実際に耳にした『保護者会が憂鬱です』という言葉。これを発してしまう先生は,すでに予備軍だと思ったほうがよい。
先生は,いつも子どもに囲まれて楽しそうにしている職業
という感覚から早く抜け出し現実と向き合わないと,そろそろ「人生のゴールに到達しちゃいました」オーラが出始めますよ。