なんか,やな感じ。
私が子どもの頃を思うと,一言で言えば「寛容」の中で生きてこられたと思う。
公園はもちろん,家の前の道路で野球をするのも当たり前。ドラえもんやサザエさんの世界そのままに,近所の庭に入ったボールを取らせてもらうことはしょっちゅう。それどころか,屋根にひっかかったボールをとるために,人の家の屋根に登ることも少なくなかった。
当然近所の皆さんは苦々しく思っていたことだろうが,表面上は好意的に対応してくれていた。
それに比べ,今の子ども達(数年前の自分の子どもを含む)を見ていると,道路はもちろん公園でも球技は禁止。一旦家に戻って学校で遊ぼうと思っても自転車で学校に行くのは禁止。
これじゃあ,野球なんて外でやる人はいない。皆ゲームの世界で対戦するに決まっている。
今の小学生は,我々の時代より「●●してはいけない」「●●でなければならない」という制約が強いのは事実。これを破ると「内申」の名の下に成績に影響したり,近所から強烈なクレームを喰らったりすることを親は知っているから(誤解も含めて),子どもに対して「制約をきちんと守るように」強く迫る(あるいは真逆で放任)。
我々の頃にだって制約はあったが,それらは「子どもとはいえ社会の一員だからルールを守れ」といった大義名分があった(と思う)。だから普段は寛容だったのだろう。
それに対して現在は,内申や苦情に代表されるように,「大人の都合」が先にあって,それをさも大義名分であるかのように誤魔化しているように見えてならない。だからこそ普段からピリピリして生活しなければならなくなる。寛容さがないのだ。
よって,「良い子」の概念も昔と今とでは同じではないと思っている。
昔の「良い子」は大人顔負けの子
今の「良い子」は大人の顔色や状況を察して,大人の都合に合わせて演じられる子
ではないか。
もしもこの仮説が正しいとすれば,「あれしちゃダメ」「これしちゃダメ」「受験で失敗はダメ」「無駄な事はしちゃダメ(ゲーム)」「人に迷惑かけちゃダメ(苦情がくる)」」と,日々否定の中で暮らしている子ども達が,
何も考えない,行動しない
ことこそが正解だと考えるようになったとしても,何らおかしいことはない。
現在よく聞かれる「内向き志向」の原点は,ここにあるような気がしてならない。
だからこそ,自分の数学の授業ではできる限り制約をはずしてあげたいのだ。
* * *
同じ状況は社会全体に拡がっていて,会社でも友人関係でも,日本中どこでも同種のストレスで覆われているのではないだろうか。
だとすれば,学校で起こる陰湿なイジメも,TVで日々報道される「●●バッシング」も,このストレスのはけ口として使われていると理解できる。
より弱い者を,抵抗できない者をターゲットにしてとことん叩く。
なんか,やな感じ。
「いつからこうなってしまったのか」と嘆くつもりはないけれど,「どうすればこの状況が変わるのか」ということは考える。少なくとも自分が関わることのできる生徒については,こうした傾向にストップをかけてあげなければならないと思う。
こんなつまらないストレスに負けない強さ,これを数学を通して身につけて欲しい。