この頃はあまり思い出したくない事が多かったと思います。
ですが、できる限り書いてみるつもりです。
この時に高校のレポートを全く提出が出来ないなら、辞めた方が良い。と思い高校を中退しました
きっと中学時代にちゃんと学習が出来ていれば「中退」は無かったと思います。
あの「アウティング」で。
幼い頃からの「将来の夢を同時に諦めます。」と言っているも同然でした。(中退を選択したから)
季節はたしか春頃だったと思います。
私の主治医の先生がある日「障がい者手帳を申請出来ると思うけど」どう?
と、私に質問してきました。 内容は、知的の障がいがある「療育手帳」でした。
私自身、全く自覚が無くて必要無いと完全に思ってました。
診察の後、担当の方の簡易検査を受けてみました。(その結果で判断するつもりで)
結果は「可能性はわずかですが、申請可能」でした。
その結果を聞いて私は、すごくショックを受けたのを今でも覚えています。
数日後、母親と一緒に市役所に行って正式な申請をしました。後日、専門の方と面談をしました。
更に数週間後、市役所の方から連絡があり「療育手帳」が発行されました。その日は母親が予定が無くて、私から母親に伝えて「手帳」を受け取りに行きました。道中はテンションも気分も悪かったです。
その後しばらくして、母親の調子が優れなく入院してました。
暮らす家も賃貸ではなくて、中学校時代住んでいた母親の実家に戻ってました。
毎日何もする事が無くて、半分引きこもり状態だったと思います。毎日ベットで時間が過ぎて行く感じでした。
時折スマホで天気予報を確認したり、少し調べものをするだけでした。
この時が唯一の気分転換でした。
気分の良い日は、運動も兼ねて散歩に出かけてました。ですが、近所に住んでいる人に会う確率が低い時間帯を選んで居たと思います。
理由は、この時私は髪を伸ばして中世的な見た目だったからです。なので、集落外の方からすると「女性」と認識する人が多かったです。
でも、私はこの当時の地声が男性声でした。 なので、発声をする度に相手の方は驚いてました。(毎回)
季節が夏になってました。
私生活は、気分が良い日は自分の自転車に乗って、気の向くままノープランで向かう事が多かったと思います。
このあたりで母親が退院したと思います。
そのまま夏が終わってしまいました。
秋になってしばらくした頃でした。
母親に連れられて市内の「地域活動支援センター」に初めて行きました。この日は時間があまり無くて見学でした。
ここは基本的に何らかの障がい者手帳を持っている方が利用出来る場所です。
その後も母親と一緒にしばらくの間見学に行きました。
2週間位見学に行ったある日、職員さんが私に「自分のタイミングで日中に来て良いよ」と言ってくれました。
それから数日後、私は自転車に乗って「支援センター」に向かいました。始めは数10分〜。
少しづつ伸ばしはじめたある日、年上の男性で「車好き」な方と仲良くなれる事ができました。
毎回、会話している時間が楽しかったです。
そんなある日、県内の「LGBT」当事者が集まるサークル的な催しが開催決まった事を代表の方からメールをもらってました。
その催しは、現在も少し内容を変更して継続しています。条件は29歳までと当事者本人である事。だけでした。
メールで案内を貰った時、私は同じ悩みを抱えた「仲間」は居てもはるか遠くだと思ってました。
私の知っている世界には私1人だけ悩んで暮らしている。とばかり思ってました。
母親にあまり詳しく伝えないまま、説得して連れて行ってもらいました。
建物に入ると案内が全く無くて、張り紙すら無かったのでしばらく迷いました。すると偶然にも代表の方が私の視界に入って「メールを見て来ました」と伝えると案内してくれました。
会場に入ると私と同じ「悩み」を持った「仲間」が6人位参加していたと思います。皆んな私と年齢が近い方ばかりでとても嬉しくなりました。話題は「悩んでいる事」だけではなく、年齢が近いから分かる話題まで幅広く会話が飛び交ってました。
気がつけば私も昔から知っている人と会話する感覚で会話していて、溶け込んでました。アットホーム過ぎて居心地がよかったです。この体験は初めてで「仲間」が近くに居たんだ!って思ってました。この間だけ母親は別の場所で待機してもらって居たのでどこに居たかは知りません。
帰路の道中はずっと嬉しい気分のままでした。
その後は代表の方と時折メールで相談したり、知り合った「仲間」の方とSNSで少し会話する日々でした。
このまま年越しを迎えました。
(ここからはお知らせです)
現在、私事都合で更新を2週間隔で行っています。
待ってくださる方には申し訳ございませんが、しばらくお待ちください。
ここまで読んでくださりありがとうございます。