--今日は塚田貴志通訳にお話を伺います。通訳の仕事を始められたのはどのタイミングですか?

塚田「スタートは2006年です。今年亡くなられたイビチャ・オシムさんが日本代表の監督になった際に、通訳を3人体制でやるために人材が必要だとして、招聘されました。」

 

--経緯を聞かせて下さい。

塚田「静岡のチームでジュニアとジュニアユースを指導するコーチをしていた時、長野遠征中に日本サッカー協会から連絡をいただきました。クラブの代表に相談したところ、「行ってきなさい」と快く送り出してくれました。」

 

--なぜ声が掛かったのでしょうか。

塚田「最初は謎でしたが、僕が指導していたチームの選手の保護者の方の友人が協会で仕事をしていたらしく、セルビア語を話せる人材を探していた中で、僕の名前を候補に上げていただいたことがきっかけとなりました。偶然が重なった形です。」

 

--最初の現場が日本代表ですか!

塚田「経験値もなかったですし、ましてや相手が(イビチャ)オシムさん。代表となれば、スケールの大きな話だなと。自分はJリーガーとしての経験もなければ、Jリーグクラブの通訳経験もないわけですから、どうなるか…という不安はありました。」

 

--通訳3人体制ではどんな役割分担だったのでしょうか。

塚田「当時、みなさんもよくご存知の千田善さんはメディア周りの担当で、僕は指導現場の担当でした。昔の映像が流れると、映り込んでいることがあります。指導現場担当だったため、やるべきことに集中できる側面はありました。あとはオシムさんの言葉を選手にどう伝えるか、それに集中していました。」

 

--オシムさんとの最初の接触は?

塚田「トレーニングウェア一式を部屋に届けました。オシムさんは体が大きな方なので、2XOでもサイズが合わずに、結局3XOでしたが、サイズ合わせが最初の接触でした。丁寧に挨拶はしましたが、「そんなに最初からかしこまらなくても良いよ」と言っていただけましたし、最初からフラットに接して下さいました。必要以上に丁寧に対応するのを嫌がる方でしたから、そこからは普通に接するようにしました。」

 

--ご自身のプレー経験は?

塚田「ポジションはセンターバックです。中学、高校と全国大会を経験し、その後もサッカーを続けたい意向はありましたし、入学する大学も決まっていましたが、大学でやりたいことが見つかっていたわけではなかったので、現在のザスパクサツ群馬の前身である東日本サッカーアカデミー(リエゾン草津に改名)に加入しました。そこで当時の草津を率いていたモンテネグロ人の監督さんが「君のプレースタイルは海外向きだから、海外に行った方が良い」と勧められて、それを鵜呑みにして旅立ちました(笑)。」

 

--そもそもずっとセンターバックだったのか。よくある話であるポジションがどんどんと下がっていく中でセンターバックに落ち着いた形、どちらでしょうか。

塚田「典型的にポジションが下がっていくパターンです(苦笑)。小学生の時はFWで点を取りまくっていましたが、そこからポジションはどんどん下がっていきました。プレースタイルは身体能力で勝負するタイプでしたし、あまりうまくなかったです。インテリジェンスや賢さが欠けていたので、ポポさんが一番嫌いなタイプの選手でしょうね(笑)。ただ戦う部分はしっかりと発揮できるタイプでしたよ。」

 

--セルビアではどのくらいの期間、プレーしていたのでしょうか。

塚田「セルビアで2年プレーした後は腰と膝を怪我してしまい、そこでプレーヤーとしての熱が次第に冷めていきました。仮にJリーガーとしてプレーしたい意向があっても、その実力が足りていないなと思っていましたし、サッカーに携わる他の仕事ができれば良いかなと考えるようになりました。」

 

--海外でプレーしている時にセルビア語を学んだのですか。

塚田「最初は入学すると、ビザがもらえるという語学教室に3カ月ほど通いました。クラブにビザを出してもらえましたが、それまでをつなぐための時間も必要でしたから、それも関係する形で語学教室に通っていました。」

 

--チームには当然通訳はいない状況ですよね。現地で生活する上で苦労しないぐらいセルビア語を身につけるまで、どのぐらい時間が掛かりましたか。

塚田「むしろ通訳がいない状況を楽しんでいました。生活に困らない程度の語学力が身につくのは、3カ月もあれば十分でした。当時のベオグラードはNATOの空爆を受けている時期でもあったため、日本人は自分しかいないぐらいでした。外に誘い出してくれる友人もセルビア人ですし、いろいろなコミュニーケーションを取ると、語学を習得できるスピード感が全然違います。そういった意味では、僕しか日本人はいなかった環境は恵まれていました。」

 

--現在もセルビア語の勉強はしていますか?

塚田「セルビア語の映画やニュースを見ることはしていますが、それぐらいですね。」

 

--今年は練習後、ポポヴィッチ監督と一緒にグラウンドを走っている姿を見ます。

塚田「ここに戻ってきた3年前も走っていましたよ。ポポさんはそもそも走ることが好きですし、ポポさんの体を絞るという健康のため、でもあります。ただ僕の体重が増え過ぎて、寝ている時に息苦しくなることも増えてきたので、ダイエットの意味も込めて走るようになった部分もあります(苦笑)」

 

--通訳をする上で大事にしていることは?

塚田「ポポさんが思っていることをいかに伝えていくか。時と場の状況に応じて、訳すことも意識しています。」

 

--いつも言葉選びのセンスが素晴らしいのですが、言葉を選ぶ上で意識していることは?

塚田「天性のセンス、と書いておいて下さい(笑)。いろいろな方のインタビュー記事を見ることは大事にしています。こういう言葉を使うと、インパクトがある、心に残るだろうなという言い回しを考えるようにはしています。」

 

--同じ意味の日本語でもポジティブに捉えられるもの、ネガティブに捉えられるものがありますが、それは状況次第で使い分けているのですか。

塚田「監督がネガティブな意図を持って言っていることをポジティブに転換してしまうと、僕の仕事としてはふさわしくないため、それはしないですが、捉え方によっては、ネガティブになるなというケースは、ポジティブに伝わるように言葉を転換するようにはしています。逆に実際は強い言葉を言っているけど、本心ではこういうことを伝えたいといった場合は、ダイレクトにその言葉を伝えるのではなく、違う言葉に転換しています。」

 

--通訳する場合は、全神経を集中させているのでしょうか。

塚田「ポポさんのテンションにも合わせなければならないですし、何を意図していて、それを話しているのか。その順序を文章にして伝えることが選手たちにも伝わると思っているので、ぶつ切りに伝えることはないですね。その作業をしている時が一番神経を使っていると思います。」

 

--日々の練習、時にはメディア対応もあって、練習後も監督とコミュニーケーションを取られている。1日で気の休まる瞬間はあるのでしょうか。

塚田「そういった1日を過ごすことで、僕が仕事をする上でのセルビア語を勉強しているような感覚もあります。今は日本語を話すぐらいにストレスなく、セルビア語で会話をしても疲れないぐらいの次元にはなってきています。以前は、「ここからはもう頭が動かないな」という瞬間もありましたが、それを超えていくと、言語の転換は流れるようになっていくものです。」

 

--その次元に到達したのはどのタイミングですか。

塚田「FC東京の1年目、2012年ぐらいでしょうか。」

 

--大分時代やそれこそ最初に町田に来た頃は、まだその次元に到達していなかったのですね。

塚田「通訳としての経験値も浅かったですし、それこそガッツリと通訳の仕事をしたのは09年の大分が初めて、でした。表面的なことだけではなく、どんどん深いところに入っていくのを外国語でやると結構疲れるのですが、それが次第になくなっていきました。最初の町田では、ポポさんの意図することを伝えられずに、お叱りを受けることもありました。ポポさんの場合は、スピード感を求められますから、間ができるとその場を醒めさせることに繋がるため、当時の僕が戸惑ったり、間ができたことに対して、指摘されていました。」

 

--通訳の仕事のやりがいはいかがですか。

塚田「チームが好成績を出した時はうれしいです。通訳の立場は黒子ですが、監督の伝えることを伝えて、それが選手たちに伝わり、ピッチで反映されている時は、やりがいを感じます。」

 

--オフの日は何をされていますか。

塚田「典型的なオフの過ごし方は試合映像を見ます。基本的にはスカウティング映像とDAZNの映像で1試合を合計2回見返します。普段のポポさんは陽気な方ですよ。最近はコロナの感染拡大が広がっているので、控えていますが、2人ともおいしい食事が好きなので、おいしいお店を探して出かけます。ちなみに南町田グランベリーパークは出没率が高いですよ(笑)。」

 

--最初に町田に来た時の印象はいかがでしたか。

塚田「とてもアットホームで情熱的な方が多いなという印象を持っていました。当時のJFLでは仕事をしながらプレーしている選手もいましたし、その中でも野心を持っている選手がいました。また当時から在籍している大友健寿社長、丸山さん(丸山竜平スカウト担当)、(経理スタッフの)佐々木さんなども、健在でうれしいです。以前の大友社長はとても痩せていらしたので、当時のポポさんと私は元フランス代表のジョルカエフと呼んでいました(笑)。ポポさんが大友さんの横顔を見て、「ジョルカエフだ!」と言ったのが始まりです。」

 

--次に大友社長に会った際に、「ジョルカエフさんですか?」と問いかけてみます(笑)。当時とはスタジアムも練習環境も劇的に変わりました。

塚田「たしか11年に小野路グラウンドが完成したと記憶していますし、当時は小野路を使わせていただきながら、いろいろな練習場を回っていました。野津田も現在とは全然違っていましたが、当時からピッチ状態はとても良好でした。環境が変わったことを実感しています。」

 

--やはり当時と比較して、隔世の感があると。

塚田「サイバーエージェントグループに入ったことも大きいですが、ここまで愛情や労力を注いで下さった方々はたくさんいます。当時の在籍選手たちも含めて、下川浩之会長、守屋実相談役を筆頭に土方先生たちがエネルギーを持ってゼルビアに携わっていました。個人的な想いとしては、どんなにクラブの規模が大きくなったとしても、そうした先人たちの想いが受け継がれて、今このクラブがあることを、いつまでも大事にしてほしいと思っています。」

 

--いろいろなクラブを経験されてきた身として、町田のクラブハウスはいかがですか。

塚田「使い勝手も良く、天井も高いので、開放的もありますし、素晴らしい施設だと思います。」

 

--最後にファン、サポーターの皆様にメッセージをお願いいたします。

塚田「ここからはもっともっとJ1昇格を目指す戦いは厳しくなりますが、先日の大分戦から声出し応援が戻ってきた中で、皆様の声援が選手たちの力となることを実感できました。1つの同じ方向を向いて、皆様のエネルギーを力に変えながら、J1昇格という目標を一緒に達成したいので、ぜひとも熱い声援をよろしくお願いいたします。」

 

●編集後記・・・

町田への愛情を深く持つ塚田さん。

いつもは笑顔で様々な対応をしてくれますが、試合となるとスイッチが入ります。

冷静に通訳をする時もあればポポヴィッチ監督と同じかそれ以上のテンションで選手に指示を伝えることも・・・。

 

ご自身を「黒子」と表現する塚田さん。

ただ、その役割は多岐に渡ります。

監督の意思を伝えること。

そしてそれは練習場だけでなく、プライベートの時間のサポートも通訳の仕事。

 

監督の意図をくみ取り、選手に伝える仕事は、私たちの想像を超える集中力を必要とするはずです。

 

試合中に選手に指示を伝える塚田通訳の動きもぜひ注目してみてください。

通訳の仕事の奥深さを感じるかもしれません。

(MACHIDiary 編集長より)